アスペルガー障害当事者から皆様へ
色々思う所あり、今回筆を執る決心をしました。
私はアスペルガー障害(以下、ASと略します)を抱えています。昨今、心無い人間からアスペアスペと罵られることで有名なアレです。
ASとはなんぞやと申しますと、自閉症の一種で先天的な脳みその機能障害です。自閉症はその字面から「自分の殻に篭って出てこない精神病」のようなイメージをしてしまいがちですが、これは誤った認識です。
一口にASといっても極めて個人差が広く、人によって出て来る症状がまちまちなのですが、共通点として、人の感情や場の空気を読むのが大変困難であることが挙げられます。このため、以下ASについて読み進めていく際、「私の場合は」という枕詞を基本念頭に置いていただければと思います。
まずご理解頂きたいこととして、ASは障害でありますから、「治る」とか「良くなる」とかいうことがありません。将来はわかりませんが、少なくとも、現代の医学では治療法は確立されていません。
その為、非AS(ASの対義語として「定型」と呼ばれます。以下に於いても、そう表記します)の側からこちらのレベルに合わせて貰う必要があるのですが、悲しいかな、精神障害(に一応分類されています)全般における共通問題で、逆に我々が定型に合わせるという不可能な努力を強いられているというのが現状です。
ASの置かれている苦労というのは筆舌に尽くし難く、よくわからないうちに人からか嫌われるなどというのは日常茶飯事。まれに友人ができても、長続きしないことが多いです。障害をカミングアウトしても、前述のように障害を理解し、歩み寄ってくれる人は本当にまれです。歩み寄ってくれる人が居ても、対人関係の距離感をつかむのが非常に困難なため、寄り過ぎて嫌われることも往々にして多いです。
ASに於ける特徴の一つに、「興味のあることへの異常なまでの集中力」が挙げられます。これは裏を返せば興味のないことへの集中力が低いということでもあり、大変ムラっ気が強いです。例えば私の場合、こうしたエッセイを書く場合非常に速筆で、あまり悩まずにサクサクと書けます。これが絵や小説になると、逆に大変遅筆になってしまいます(小説に関しては、人の心の機微の描写を書く関係上、大きなハンデを負っているということもあります)。また、良くも悪くも馬鹿正直なことが多いようです。
私の場合、小児期に多動障害があり(ASに大変良く見られます)、上履きの窮屈な感覚が非常に苦手で、裸足でいることが多かったです。もちろん奇人変人としていじめのターゲットにされました。ASは近年認知された概念であることもあり、ただの問題児としてしか見られませんでした。
ここからAS認定までの話を書いていくと、非常にに陰々滅々とした話になるので割愛します。並々ならぬ苦労があった、とご理解ください。
私がASであることが判明したのはひょんなきっかけでした。数年前、不眠症やうつなどを抱えていた私は、メンタルクリニックを受診しました。その際、ドクターが私が「人の顔を見て話さない」ということに気づき、ASではないかと考えました。そして、ASの診断は専門的にやっている医師でないと難しいためそこを紹介され、テストの結果、ASであるという診断が下りました。
ただ、紹介先の医師とは不眠症なども含めた治療方針で折り合いがつかず、結局元のクリニックに出戻りしています。
AS当事者から皆様にお願いしたいことは、世の中に「変わり者」がいても、排斥したり、定型の側に合わさせようとしたりしないで頂きたいということです。ASは近年知られるようになった障害であり、診断が下っていない潜在的な障害者数は、かなりいるのではないかと思います。かくいう私からして、医師がピンとこなければ気づかれなかったのですから。
またそれと同時に、ASの認定は専門的にやっている医師でなければ不可能であることを認知していただきたいです。どのようなことにも言えるのですが、素人判断は危険です。そして、前述のとおり、個人差が大きいものであることを念頭に置いて、ネット上などで聞きかじった知識から、画一的な認識・対応をしないで頂くようお願い申し上げます。
追記。いくつかご意見を頂いたので、感想欄にて返信しましたが、いくつか書き足りなかったことがあるのでここにて追記します(なろうの感想返信は一度削除しないと書き直せないため)。
まず、少数派に従えないという意見ですが、こちらの方は例えばバスで車椅子の乗客に座席を譲った場合、「身体障害者に従った」などと、屈辱的な受け取り方をするのでしょうか? 車椅子なら合わせるけどASには合わせられないというのでしたら、これを世に差別と呼びます。
次に、会う人に「ご迷惑をかけるかもしれませんが」と断りを入れればいいという意見ですが、関わりができそうな人に自らを迷惑な存在と言わなければならないというのは、これこそ非常に屈辱的な話です。障害者が肩身を狭めて生きねばならないというのは、同意しかねる話です。