その決断に間違いはなく
八畳ほどの和室。
その部屋からは青草の芳しい香りと濃密な”血”の匂いが広がっていた。
匂いだけではない。張り替えられたばかりの畳は割れたガラスと共に赤く染まっていく。
部屋の外――居間からは三つの悲鳴が聞こえる。
一つはまだ若さを感じさせる青年の声。もう二つは老いを感じさせる男女の声。
だが、その声も次第に消えていく。まずは、青年と老いた女を守ろうとした男が死に、その次に足をすくませた女が死に、最後に激情に駆られた青年が殴りかかるも殺された。みな同じく刃渡二十センチのナイフに刺され、死んでいった。
これにより声はなくなる。一人の男を除いて。
その男は血に濡れたナイフを右手に持ちながら、ギブスが巻かれた左手――左腕を見る。幼い頃の事故をきっかけに動かなくなった彼の利き腕。症状は完治していた。しかし、この十数年間一度たりとも動くことはなかった。男はその腕をなんとなしに眺めたあと、めくっていた黒い長袖を下までおろす。そして玄関の方へ足を向けようとしたところで――気づいた。
まだ誰か生きている人間がいる。
男は三人の死体へ荒い息をこぼしながら駆け寄る。
そしてひとりひとりの口元に耳を近づけたあと、躊躇なくナイフを胸に突き刺していく。ただ、安心感を得るためだけに。
……
何度も、何度も同じ行為を繰り返す。
けれども、生を感じさせる小さな吐息はいまだに消えない。仮初の安心感はいともたやすく消えていく。
男は周囲を見渡す。
そして自身が利用した侵入口の存在を思い出した。そこにいた女のことも。
殺害したはずの女。だが、まだ生きているのかもしれない。そう思い立つや否や、男は獣のように走り出す――
生きていた。
女は確かに生きていた。
見えないなにかに縋るかのように、体を這いずらせながら仏壇へと向かっていた。畳に散らばっているガラスなど気にもせず、ただひたすらに体を動かした。体を動かせば動かすほど黒いワンピースは赤い血に濡れていく。だが、彼女はその姿も痛みさえも気にせずに体を動かした。
――男は黙ってそれを見つめる。
真夏の空へと消えていく線香の煙をぼんやりと眺めるかのように――
数分後。
女は仏壇に何度も身をぶつけながら、一つの遺影を手にすることができた。
それを大事そうに抱きしめながら、先程までの悲しくも、楽しかった時間が思い出されていく。
彼の家族と毎年暑い夏の日におこなう法事――彼の想い出を語れる日。彼女が彼と積み上げてきた数々のエピソード。小学生時代、彼と二人で毎日道端に落ちていた小銭を交番に届けていた時のこと。中学時代、彼が珍しく照れながら遊びに誘ってきた時のこと。高校時代、共に生徒会の仕事をしてた時のこと。そして、彼の死に繋がった事故について。彼が死んだ時の話をする際はいつも彼の父親が”あいつらしいよな”と誇らしげに言い話しを締める。そんな話ができる年に一度の大切な日も、十三回忌という節目を終え「今年でもう、終わりだね」と彼の母親は寂しげに――前を向きながら語っていた。
だが、その前向きな姿勢は虚しくも散っていった。
彼の母は死に、父も弟も死に、そして彼の彼女も死ぬだろう。
遺影を抱きしめながら彼女は彼の名をつぶやく。
彼女の目はもうすでに光を失っていた。彼の愛おしい顔を見ることはもう叶わない。
叶わないからこそ、なんどもなんども想いを込めてその名をつぶやく。
――男にとってはそれが不愉快だった。
だから、男はその感情に従ってナイフを振り下ろす。
「けいちゃん……――」
……
…………
自宅のドアノブに手をかける。
手をかけた状態で学ラン姿の男が後ろを振り向く。
すると、そこには男の母親が立っており「いってらっしゃい」と声を掛けてきた。
「いってきます。母さん」
曇りのない笑顔でそう答えた。
そして、彼は後ろを振り向いた理由を忘れたまま扉を開く。
扉を開いた先には燦々と輝く太陽と向日葵のような女がいた。
「おはよう。けいちゃん!」
一軒家が建ち並ぶ住宅街を歩く。
時期が夏休みということもあってか、周囲には人がいない。
ただ東の空に浮かぶ太陽とアスファルトの照り返しが二人の行く先を見守る。
「あ、思い出した」
けいちゃん。そう呼ばれていた男がふと声を出す。
女はそれに対してどうしたのと問いかけた。
「それがさ、水筒を持ってくるの忘れちゃって」
玄関で思い出しかけてたのにな。
彼は汗で濡れた髪を掻く。その仕草を見た女は「けいちゃんは昔から抜けてるよね」と言いながらスクールバッグからタオルを取り出す。そして、彼の顔を優しく拭った。
「んー……抜けてないと思うんだけどな。俺的に」
なされるがまま。
彼は彼女の言葉を否定しつつも無抵抗で顔を拭かれていく。
「だってさ俺ってば生徒会長だよ? 抜けてる人間には務まらないだろ」
彼は「さんきゅ」と彼女に言ったあと、胸を張りながら自信満々に言った。
それを聞いた彼女は「ばかだなぁ」と笑顔で返事を返す。
「そ・れ・は。私が副会長として彼女としてけいちゃんを献身的に支えてるからだよ! 感謝してほしいな~」
自販機が四方に置かれた十字路をまっすぐに進む。
彼らが小学生の時――肩を何度もぶつけながらこの道を歩いた。
彼らが中学生の時――ぶつかっていた肩は距離を離していき、ぶつかることはなくなった。
彼らが高校生の今――彼の腕と彼女の肩がぴたりとくっついていた。
互いの熱など気にすることもなく手を握り合う。
こぼれる声には「いきなり生徒会長になる! なんて言い出した時はびっくり……ううん、変わらないな。って思ったよ」「やりたくなっちゃったからな」 「みんなを笑顔にするためだっけ?」「おう。あとは学食無料に惹かれてな!」「変わらないね。そういう正直ところも」
彼女はにこにこと嬉しそうに言う。
彼もそれに対して太陽にも負けない明るい笑顔で答えた。そのあと自販機を指差しながら、
「喉がからっからだ。飲みものを買っていってもいいか」
「うん。家も早めに出たし、ゆっくりいこ」
彼が歩いていく方へ彼女もついていく。
自販機へ近づいたところで彼女が「そうだ」と声を出す。
「キンキンに冷やした飲み物があるんでして~。飲まない?」
彼は首を縦に振る。
そして学校へと続く道を歩いていく。
冷えた緑茶が彼の喉を通り過ぎていく。
彼らの影法師が歩いてきた道を染めていき――
「ありがとう。ありがとうな」
「どうして二回ありがとうを言ったのか、三十文字以内でおさめなさい!」
笑い声と共に、声はどんどんと遠くなっていった――――
「あと、あと五分……」
彼女が信号機の柱に寄りかかりながらつぶやく。
それに対して彼は「高校は遠くなったよな。小中の二倍は歩くし」と言った。
「うう、そうだよ、そうだけど。なによりもつらいのは夏休みに学校へ行くという事実!」
「それは同意だ。でもこれもみんなが健やかな高校生活を過ごすため、ってな」
「本音を言うと?」
「面倒くせえ」
彼はそう答えながらも笑顔だった。
晴れやかな笑顔を浮かべたまま信号機の色を見る。まだ赤だった。
彼はその待ち時間で考える。生徒会長でいられる半年間でなにができるだろうかと。
……
あまり多くは浮かばない。
多くは浮かばなかったからこそ、思い浮かんだ全てをやっていこうと考えた。
考えていた。来週彼女と行く花火大会のことや友達と企画しているヒッチハイクでの旅、親への誕生日プレゼント。今年の抱負にした一日一冊、三百六十五冊の本を読むという無理難題、彼はまだ十冊しか読み進めていない。
それでも彼の未来は輝いていた。
なぜなら自分がこれからやること全てが自分のやりたいと思ったことだから。それが楽しいことでも、悲しいことでもつまらなくても、それでも自分自身の行動は正しいと言えるから。
「帰りに最近出来た氷屋に寄ってかない? スイカの外側を器にしたカキ氷があるんだって!」
「――――」
足が動く。
交差点の中で転び泣いている少年と右手側から迫ってくるトラックを見て。
彼女への返事はなく、迷うこともなく、彼は足を動かした。
トラックの運転手は気づかない。
ただ青信号を盲目的に信じて進んでいく。
少年は、泣き叫ぶのみ。彼の必死は届かない。この場に親はいなかった。
彼は感じた。
間に合わない。頭がそう理性的に告げてくる。
それでも走り続ける。その動きに迷いはない。迷えば可能性もなくなる。
「――ッ、届け」
少年へと手を伸ばす。
そしてわずかな可能性を掴み取ろうとし――掴み取った。
彼は少年を抱え――間に合わない――少年に謝罪しながら、道路の端へと投げやる。少年は左腕を強く打ち、彼はトラックの下敷きになった。
轟轟と炎は燃え上がる。
ガソリンに引火した炎は消え去る気配がない。
少年は呆然とした表情を浮かべたまま炎へと、彼へと近づく。
「――……」
「大丈夫。お兄ちゃんは大丈夫だから」
言葉を発さない少年に対して、彼は言葉を発する。
そしてそのまま「だからこっちに来ちゃだめだ」と言った。
「――――!」
少年は首を横に振るう。
少年の目に映る彼はトラックに潰され、上半身の一部を除いて黒い炎に包まれていた。
なにか、なにかしなくてはとその想いだけで少年は炎へ近づいていく。彼はそれを見て泣きそうな笑顔を浮かべ「大丈夫、大丈夫」と心の底から何度も言う。
少年は動きを止める。
彼はそれを見て「よくやった」という風に首を動かした。
――彼女の叫びは、彼らに聞こえない――
そして彼は大声で「ごめんな、怪我させちゃって。ちゃんと病院に行くんだぞ」と言い、死んだ。
…………
……
「けいちゃん……好きだよ」
彼女は遺影を抱きしめたまま息絶えた。
男の不愉快を形にしたナイフによって死んだ。
いまや青草の芳しい香りは血の匂いで満たされている。
「…………」
男はいまだに不愉快だった。
彼女の想いを込めたつぶやきがいつまでも耳に残るのだ。
不愉快。
男はそれを理由にして、もう一度彼女の心臓を突く。
突いて――突いて――突いて――――気になった。
その気になるという衝動を使用して、彼女が抱きしめている遺影を剥ぎ取る。
剥ぎ取ろうとしたが、剥ぎ取れない。男は諦めて仏壇を漁る。すると、一つののアルバムが見つかった。その中にある写真を一枚、また一枚と見るたびに頭の痛みが強くなっていく。ついには痛みに耐えられずアルバムを畳に投げやる。その際に一枚の写真と切り取られた新聞のスクラップが空を舞う。……空を舞っていたそれらは男の足元に落ちる。男はそれを死体共々蹴り飛ばそうとしたが、できなかった。頭の痛みを堪えたまま写真とスクラップを拾い上げる。写真には――と彼女が夕日を背に笑顔を浮かべているものだった。スクラップには――
男は叫ぶ。周囲の人間を集めるようにして叫び、そして大粒の涙を流して、笑い、また叫んだ。
スクラップには、幼き頃の『自分』と――「大丈夫」ではなかった『彼』が写っていた。