05 憧れの皇都へようこそ
神聖街道を歩くイリスがスリカの足を止めた。
小高い丘を登りきったウロスが、やっとスリカに追いつき立ち止まる。
その景色を見て彼女が足を止めた理由が分かった。
平野を見下ろす小高い丘の上から、夕日を受けオレンジ色に輝く大城壁が見えていた。
「これが、大城壁……」
思わず言葉が漏れ出すほどの雄大さであった。
右手の方向には、平野の向こうの地平線、左手の方向は雲を突き刺す山岳地帯まで、見渡す限りに一直線に城壁が伸びている。
「すげえだろ」
ゲスターは自慢げに胸を反らし、ウロスの歩みを遅らせる。
「大河の河口平野を完全に封鎖しているんだ。こいつを見たら皇都に来たって実感するわな」
確かに、これは凄い。一体どれくらいの月日で建造されたのだろうか。
「いやいや、ほんとにすごいですな。いい土産話になりますわ」
フルク老人も感嘆のため息をつきながら身をのり出す。
しかし、見上げる程の大城壁が目前に迫ってくる内に、その大城壁が本来持っているべき城壁としての機能をほとんど失っていることが分かってくる。
雨風にさらされた煉瓦積みの城壁は、あちらこちらで崩れており、内部の構造があらわになっていた。
完全に崩壊した城壁は、急こしらえの木材で補強され、城壁の回りには、崩れ落ちた煉瓦のかけらが飛び散っていた。
更に、崩壊面には、布製のテントが張り巡らされ、その間には、洗濯物らしき布が上昇気流に気持ち良さそうにはためいている。
神聖街道は、大城壁をくり抜いたトンネルに繋がっている。
様々な旅行者が足早に、そのトンネルを潜っていた。
足早になる理由。
トンネルに入った途端、イリスが操るスリカと、俺達が乗る荷車に、ボロボロの布一枚を纏った子供達が群がる。
「どうか、神の祝福を」
子供達は、砂埃に汚れた顔を近づけ、歯の抜けた口で笑いかけ、手を差し出す。
その子供達の向こうでは、瓦礫を背に、大人達が俺達を見つめながら座っていた。
「噂には聞いていたが、ひどいものじゃな」
フルク老人が身を縮めながらつぶやく。
「皇都の最貧民街だ」
吐き捨てるように言ったゲスターは手綱を振るう。
体を振るわせたウロスは、いななき声を出し、歩く速度を速める。驚いた子供達が一斉に荷車から離れていった。
トンネルを抜けると、街道の両側に粗末なテントが立ち並び始める。
それぞれのテントは、街道に沿って様々な商品が載せられたゴザを並べている。
商品は野菜や何かの肉、カゴや衣服、中には武器らしき物を並べているテントもあった。
まあ、ようするになんでも市のようなものなのだろう。
テントの奥に座る怪しげな店主。そしてそれら商品を物色する、尻尾やら三角耳やらを生やした様々な種族の人達。みな、いかつい装備品に身を固め、剣やら槍やらの武器を携えていた。
街道に人があふれ出し、人込みの中から飛び出した、スリカに乗るイリスの後ろ姿だけがチラチラと揺れて見える。
ちょうど夕食前なのだろう。商店には討伐人らしき者の他に、住民らしき人々が入り混じっている。
「なんだよそれ! 約束が違うじゃねーか!」
荷車の右側から怒号が響く。
キョロキョロと回りの人込みを眺めていた俺は声の方に視線を送った。
巨大な剣を背中に背負う大男が、商店奥の老人に話し掛けているらしい。
「朝、聞いた時は四ゲントちょうどだったはずだ。朝と夕方で六クルプも値上げするってのはおかしいだろ!」
商店には革製品が並べられている。男性はその中の商品を一つ手に取っていた。
「四ゲント六クルプ。びた一文まけられねえ」
男性の怒号に一切怯えた様子を見せない店主は、腕を組んでそっぽを向く。
「そのくらいにしなさい。六クルプくらいなら私が……」
怒号を上げる男性の横にいた、白いローブを着た女性が言葉を掛ける。
女性の服装に見覚えがあった。
クルトーから皇都に向かう街道でスカイウルフの討伐現場で見かけた女性だった。
ということは。
「裁定者に金出させる討伐人がどこにいるんだ! こりゃ値段の問題じゃねえ!」
やはり、大声を出しているこの男性があの討伐人なのだろう。
「いいか、俺がもうろくしてないならば、今朝、確かに四ゲントって聞いたから予約しといたんだぜ。それが金払おうとしたら六クルプ増えてるってのは、こりゃ誰が聞いてもおかしいだろうよ、なあ?」
振り向いた男性が髭面の顔を俺に向けてきた。
気がつけば、荷車から男性の間にいたはずの人込みが、潮が引くように消えてなくなり、荷車の左側からは「言ってやれ」などと無責任な罵声が聞こえてくる。
「なあ!」
眉間にシワを寄せた男性が、突き刺すような厳しい視線を俺に向けていた。
助けを求めて左側を見てみると、フルク老人がいびきをかいて寝たふりをし、ゲスターは荷車の上にすらいなかった。
野次馬に取り囲まれた時点で危機を察したのだろう。さすがプロの運送屋である。
前を見ると、スリカの上から哀れむような瞳のイリスが見えた。
「ちょっとドルメン、なんにも関係無い人巻き込まないの」
白いローブの女性がため息をつきながら言ってくれた。
ブロンドの髪を白いリボンでポニーテイルにくくった女性の姿は、まさに女神様のように思える。
「別に巻き込むつもりはねえ。俺はただ冷静な第三者に客観的な意見を求めてるだけだ。で、どう思うよ」
無茶苦茶巻き込まれてる……
ドルメンと呼ばれた男性の刺すような視線。白いローブの女性の慈しむような視線。野次馬達の好奇に満ちた無責任な視線。そしてイリスの冷めた視線。
興味がなさそうにそっぽを向いていた店主でさえ、ジロリと視線だけを俺に向けていた。
どうやら真剣に考えないといけないらしい。
ドルメンの話を聞くだけなら、朝に予約した値段から勝手に値上げした商人がずるいように思えるが、商人としても少しでも儲けたいのだろう。それに朝の段階でどこまで交渉したのかがよく分からない。
値段の単位がよく分からないが、こういう時は折衷案がいいだろう。
「間をとって四ゲント三クルプに……」
「ああ? だよな。やっぱりおかしいよなあ?」
俺の消え入りそうな言葉はドルメンの怒鳴り声に消されていた。
長い物に巻かれる……、それも必要なのかもしれない。
「はい……。おかしいと思います」
「だよな! ほら、なにも関係のない第三者様もこう言ってるんだ。俺はもう力ずくでも四ゲント以上は払わねえ」
ドルメンは背中に吊っていた大剣に手をかけながら叫ぶ。
その叫び声が終わると同時に、人だかりの向こうから笛の音が聞こえた。
「衛兵だ。ずらかるぞ」
いつから戻っていたのか、ゲスターがウロスの手綱を握っていた。
周りを見ると、笛の音を合図に野次馬達も蜘蛛の子を散らすように解散し始めていた。
野次馬達の向こうから、長い槍のような武器を持った数人がこちらに向かって来ていた。彼等が衛兵なのだろう。
ゲスターは今まで見たことがないような巧みな手綱捌きで、人ごみの間を縫いながら、街道を突き進んでいった。
* * *
皇都。
神聖ヴェルディア帝国の首都にして、教団の大陸での本拠地である大教会が建つ場所である。
一体いつから町があったのかはもう分からないらしい。 その最も外側には、大城壁と呼ばれる煉瓦製の城壁が延々とメータ大河の河口平野を横切るように建てられている。
皇都本体は、その大城壁の西側にある小高いリグリスの丘を中心に存在する。
丘と表現したが、実際は古代に建造された巨大な塔の残骸とも言われているが、リグリスの丘自体が教団の聖域となっているため、詳しい調査は行われていないらしい。
皇都は厳正な階層社会からなっており、その構造自体が皇領における身分階層を具体化したものとなっている。
リグリスの丘の最上部、第一階層には皇宮と大教会があり、その下の裾野、第二階層には貴族の住む壮麗な宮殿がある。
さらに下の裾野、第三階層には貴族商と呼ばれる金持ち達や、軍隊関係の貴族達の邸宅や軍事施設が立ち並ぶ。
そこから下の第四階層には、山裾に添って一般市民の住宅が隙間なく立ち並んでいるが、その中でもれっきとした階層があることが、建物の形状から見てとることができる。
つまり、第四階層でも丘の上の方の住居は煉瓦を積み上げて作られており、そこに住む者は先祖代々の皇民となる。下方には木材に布を張った粗末な住居がところ狭しとひしめきあい、地方からやってきた皇民、さらには『亜人族』と呼ばれる、被支配民達居住地域となっている。
そして、大城壁には、各身分社会から弾かれた者達が勝手に住み着いているらしい。
「ちなみにオススメは、第三階層西ルードニア地区にある『味処ミノサカ』の寄せ鍋だな。これは、皇領各地から集まった食材を利用してだな……」
皇都について質問した俺にゲスターは一人饒舌に語っていた。
大城壁を抜け、街道を進んだ俺達は、日が暮れる前に市場に到着した。
イリスとフルク老人を市場の入口で下ろしたゲスターは、荷物を積んだウロスを市場の裏手にある広場に進めた。
運送の依頼主らしき男性が現れて、荷車を降りたゲスターと握手を交わした。 その男性の合図で、空の荷車がゲスターの荷車に横付けするように停車する。 そしてゲスターは、ぽつねんと座る俺に、当たり前のように荷車の荷物を指差しす。
俺は頷くと、腕まくりをしながら荷車を降りた。
皇都の説明を受けながら、荷車から荷物を降ろしていたゲスターは、「ちょっとトイレ行ってくるわ」と言い、市場の方に走っていった。
「ゲスターのとこの新人さんかい?」
荷物降ろしを中断し、貨物置場に腰を下ろした俺に、依頼主の男性が話しかける。
「用心棒のはずだったんですが。そんなところです」
依頼主の男性は、ヒゲを触りながら豪快に笑った。
「あいつらしいな。この前も別の用心棒に手伝わせてたぜ」
男性は笑い終えると、手にしていたノートに視線を落とす。
「見てみろよ。死んだコーキーはゼロ匹だわ」
俺は男性が示したノートを見る。確かに0の数字が並んでいた。
「コーキーってのは意外と繊細な生き物でな。アスコットからここまで運んで一匹も死なせないってのはなかなか出来るもんじゃない」
なるほど。だからこそ旅の途中で寄った町ではコーキー料理が名物になっていたのだろう。
「最近じゃ、速さだけが売りの運送屋が多いんだかな。わざわざ振動の少ないウロスを使って……」
確かにゲスターは町や休憩でウロスを止める度に荷車を確認していた。ゲスター、意外と出来る人なのだろうか。
考え込む俺をよそに、男性は、ゲスターと俺がやっと降ろしていた、コーキーが入った檻の中に手を入れていた。
「ほら、この様子じゃ道中もしっかり世話してるんじゃないか」
男性が檻の中から取り出した手の中には、真っ白の丸い卵が一つのせられていた。
「この町じゃ家畜なんて飼えねえ。持って帰って目玉焼きにでもしな」
「はあ」
男性から受けとった卵は、手の平にちょうど収まるくらいの大きさでズシリと重い。
「お待たせ。ん、何だそりゃ?」
帰ってきたゲスターが、俺の荷物と木箱一つが載った荷車に置かれたコーキーの卵を見つけた。
「あの人が、目玉焼きにでもってくれました」
俺の言葉に気付いた依頼主の男性がノートから視線を上げていた。
「卵は依頼に入ってないからな」
「すみません」
ゲスターは男性に丁寧に頭を下げると、俺に耳打ちする。
「最高級の珍味だ。割るなよ」
俺は彼の言葉に頷きながら卵をチラリと見て唾を飲み込んだ。
* * *
すっかり日が暮れた町の中、ゲスターは立派な尖塔を持つ建物の前にウロスを止めた。
付近の木造建築の家屋に比べて、真っ白な石煉瓦で建造されたその門前には長蛇の列ができていた。
「夕食の施しの列だ」
荷車から木箱を降ろしながらゲスターが言う。
彼が顎でしゃくってみせた先には、ボロボロの衣類を纏った人々が、暗闇の中、わずかに漏れる建物の光の中に浮かんで見えた。
「教会の慈善活動さ。よし、下ろすぞ」
俺は荷車の下でゲスターから木箱を受けとった。
想像はしていたが、やはりただの木箱にしてはとても重い。いったい何が入っているのだろう。
腰をふんばり、木箱に視線を落とした時、その向こうでさっき貰ったコーキーの卵が転がっているのが見えた。
「!」
荷車から飛び出し、宙を舞う卵を見ながら、俺は声にならない息を飲み込む。
最高級の珍味が……
地面に激突して無残に割れる卵を想像した俺は思わず目を閉じる。
「なにこれ」
卵が割れる音の変わりにイリスの声が聞こえた。
恐る恐る目を開けると、何事もなかったかの様に、イリスが手にしたコーキーの卵を眺めていた。
感謝の言葉よりも、その身のこなしに感心してしまった。
「卵?」
イリスはいぶかしげな瞳を俺に向けて言う。
「よかった。珍味らしいよ」
荷車から降りたゲスターが木箱の片方を持ってくれたおかげで、俺はやっと彼女に話し掛けた。
「チンミ?」
イリスは拳を作ると、卵の殻をコンコンと叩く。
「ええ。とりあえず割らないように持ってて下さい」
ゲスターに合わせて教会の裏口に向かって歩き出した俺は、不思議そうに卵を眺める彼女に言った。
ゲスターと二人、息を合わせて教会の裏に回ると、いつから待っていたのか、全身黒ずくめの男性が立っていた。
「すみません。遅くなりました」
黒ずくめの男性の足元に木箱を置いたゲスターは汗を拭きながら頭を下げる。
男性は頷くと、木箱の前にしゃがみ、そっと片手を木箱にかざした。
息を整えていた俺は、その光景に息をのむ。
木箱にかざされた男性の手から紫色の炎がチロチロと揺れていた。
しばらくして、木箱から手を離した男性は立ち上がり、小さな袋をゲスターに差し出した。
袋を受けとったゲスターは袋を縛っていた紐をほどき、中身を手の平に広げる。彼の手の平一杯に金色の硬貨が袋から現れた。
一枚一枚硬貨を数えたゲスターは頷くと、また頭を下げて俺の手を引っ張り歩き出した。
「あれ、中身は何なのですか?」
俺の質問にゲスターは黙って首を振った。
あの男性の手に見えた炎。あれは間違いなくベネディクトの炎だった。
あの男性は何をしていたのか。そしてあの木箱には何が入っていたのか。
ゲスターの態度から詮索してはいけない事なのだと言うことは分かるが。
身軽になったウロスが足取り軽く施しの列の横を歩きはじめた頃、ゲスターは小声で言った。
「まあ、教団関係の仕事はヤバいのが多いからな。金払いはいいが」
ゲスターは笑顔を作ると、硬貨の入った袋をチラリと俺に見せる。
「はあ」
気の無い返事をしながら、俺はあの木箱の事をずっと考えていた。
木箱はどこから、誰からあの男性に送られたのだろうか。
シルの町で木箱を下ろした時、確かコーキーの檻よりも手前にあったはず。
ならばアスコット村で乗せられた可能性が高いが……。
ウロスが引く荷車は、点々と設置された街灯に照らされながら町を進んでいった。
* * *
「明日の朝にはトリニティアに出発するつもりだ」
到着する時間が遅かったため、宿の食堂で軽めの夕食を食べた俺とゲスターは部屋に戻っていた。
「栄光旅団到着間近のトリニティアで物資が不足しているらしくてな。商売人は目の付け所が違うな」
硬いベッドに腰掛けたゲスターは、コップに入った果実酒を飲みながら言う。
「短い間でしたがお世話になりました」
ランプの下でシルヴィアから貰った魔物図鑑を眺めていた俺は、ノートを閉じ、立ち上がって頭を下げた。
用心棒として同行させてもらったが、正直用心棒らしい仕事はほとんどしていない。
ゲスターの話を延々と聞いて、美味しい物を食べて……。
これでは単なる旅行と大差ない。
「いやいや。礼を言うのはこっちの方さ」
ゲスターはまた果実酒をあおる。
「話し相手がいるだけでも大助かりさ」
酒やけした頬を真っ赤にしたゲスターはそう言って笑うと、果実酒を飲み干し、自分のベッドに倒れこんだ。
「一人旅も気楽でいいが、たまには……」
消え入る様に彼の言葉が途切れる。見るとゲスターは大いびきをかいていた。
俺はゲスターの足元に丸められていた掛け布団を彼の肩までかけ、部屋の隅に立て掛けていた鞘に入った剣を手に取り部屋を出た。
虫の鳴き声の中、ふと空を見上げると、随分と月が細くなっていた。
意味も分からずリグレットと稽古してからそれなりの時間が経っていたことを実感する。
宿の裏庭には宿泊客が乗ってきた動物を繋ぐ粗末な小屋がある。
そっと覗くと、横倒しになったウロスが白い腹をあらわにして眠り、その向こうでは、足を折り畳んだスリカが首を伸ばして目を閉じていた。
彼等を起こさないように足音を殺して、裏庭に向かう。
今日はいないか。
鞘に入った剣をそばの樹木に立て掛けた俺は、腕の筋を伸ばす準備運動をしながら、宿の建物を見上げる。
彼女が泊まっている二階端の部屋の窓には、うっすらと明かりが揺れていた。
「アルフレッド殿」
背後から声がした。
押し殺した様な低い、かすかな声だったが、フルク老人だとわかる。
「そのままで聞いて下され」
衝動的に振り返りかけた俺は、頷くと、わざとらしく準備運動を続けた。
「討伐人は第三階層の皇民になります」
第三階層の皇民。確か軍隊関係者や貴族商が住む階層だったはず。
「討伐人登録を行うベスティア教会から先は、私はお嬢様について行く事ができません」
間が持たず、俺は同じ筋を伸ばし続けて頷く。
「出過ぎたお願いとは重々承知ですが、どうかお嬢様と一緒に居てあげて頂きたい」
三度目になる右首の筋を伸ばしていた俺は、背後のフルク老人に尋ねる。
「理由は、教えて貰えませんか」
しばらくの沈黙の後、
「すみません」
と、静かなフルク老人の返事が返ってきた。
「私はいいですが、彼女がどう思うか」
フードを外した彼女を見たのは一度だけだったが、あんな美女と一緒にいる事が出来るなら、断る男はいないだろう。
深い森の中、荷車の上に立つ、凛とした彼女の姿を思い出す。ただ彼女が承知するだろうか。
「あなたなら大丈夫ですよ」
安堵したようなフルク老人の声が聞こえる。
何をもってそんな事が分かるのだろうか。
とうとう我慢出来ず俺は声がした背後を振り返った。
フルク老人の姿は、すでにそこには無かった。
思い出したかのように、虫の声が再び響く。
足を怪我していたはずなのに……。一体何者なのだろう。
一人取り残された俺は、訳の分からなさから髪の毛を掻きむしる。
考えてもしかたないか。
この世界には俺の知らない事が多すぎる。
今は、俺に出来る事をするしかない。
一つ深いため息をついた俺は、立て掛けていた剣を握った。
* * *
夜明け前、まだ群青色の空にチラチラと星が瞬く頃。
「この道をまっすぐ昇っていけば、馬鹿でかい教会がある」
宿の前の街道で、ウロスの頭を撫でていたゲスターは、街道の先に視線を向けた。
昨日は夜遅かったため気付く事が出来なかったが、街道の先は、リグリスの丘に続いていた。
巨大な丘は稜線には、まるで乱立する岩のように様々な建物が立ち並び、朝霧に覆われたその頂きは、ぼんやりと霞んでいる。
「ベスティア教会ってんだが、そこで討伐人登録をすれば、晴れて討伐人って訳だ」
目を細めるウロスに頷いたゲスターは、身軽に荷車の御者席に飛び乗った。
「ゲスター殿、お世話になりましたな」
イリスの横に立つフルク老人が深々と頭を下げた。
「いいってよ。じいさんも年なんだから、無茶すんなよ」
ゲスターの言葉にフルク老人ははげ上がった頭をさすりながら苦笑いをする。
「よし。じゃあ行くわ」
手綱を握ったゲスターは、ふと俺に視線を向ける。
「栄光旅団に入れなければ、討伐人を続けるのもいいが、もし、お前さえよければ、俺んとこに来いよ」
突然の言葉に動揺した俺は頭を掻きながら頭を下げる。
「ありがとうございます。取り合えずは出来る所までやってみるつもりです」
手綱を握ったゲスターは俺の言葉に頷く。
「まあ、気が向いたらぺルプスの家に来いよ。母ちゃんが作った本場のぺルプス饅頭を食わせてやるよ」
クルトーで食べたペルプス饅頭の味を思いだし、思わず口の中の唾を飲み込む。
「じゅあな。まあ頑張れや」
ゲスターは荷車の上から片手を伸ばした。
「お世話になりました」
俺はその手を握り、握手を交わす。
手を離したゲスターは手綱を振るう。ウロスがいななきを上げて歩き出した。
街道を下り、次第に小さくなっていくゲスターを見送る。
「ではお嬢様、私もこの辺りで」
イリスに頭を下げたフルク老人は、足を引きずりながら俺の前に立つ。
「アルフレッド殿もどうかご健勝で」
「こちらこそ。ちゃんと足治してください」
頭を触りながら笑ったフルク老人はひょこっと頭を下げると、
「どうか、神の祝福に恵まれますように」
そう言い、シワだらけの笑顔を見せると、街道を下っていった。
フルク老人を見送った俺は荷物を背負い直すと、踵を返しリグリスの丘を見上げる。
朝日が昇り始めていた。
リグリスの頂きが、オレンジ色を帯びた光を受けて輝き出す。
その輝きは、リグリスに張り付いた建物が作り出す複雑な影を刻みながら、次第に麓に向かって進んでいた。
スリカの横に立つイリスが眩しそうにフードを被り直す。
産まれたての、汚れのない眩しいばかりの輝き。
それは、まるで俺達の新しい旅路の始まりを祝福するように街道を照らしていった。