04 討伐人と魔物と角煮と
「いやあ、若いってのは羨ましいですな」
フルク老人が水を飲み俺とゲスターの方を見て笑う。
折角、ピグ料理専門店にも関わらず、フードを被ったままのイリスとフルク老人のテーブルにはサラダとパンの様な物しか並んでいない。
「すみません。助けてもらったのは俺達の方だったのに」
言葉とは裏腹に、ゲスターは、次々に運ばれてくるピグ料理に生唾を飲み込む。
ちょうど夕飯時にサウロニア・カウスに到着した俺達は、フルク老人を病院に連れて行き、宿をとった。
お礼にと、足に治癒の術式が折り込まれた布を巻いたフルク老人は、俺とゲスターに夕御飯をおごってくれた。
「まったく、年はとりたくないものです」
顔中を皺くちゃにして苦笑いするフルク老人の前では、背筋を延ばしたイリスが上品にサラダを口元に運んでいた。
「ところで、アルフレッド殿は皇都に行って何をなさるのですかな?」
テーブルに置かれたピグの足丸焼きにナイフをいれようとした俺は、フルク老人の言葉に手を止める。
「栄光旅団に入ろうと思っています」
俺は深く考えることなく答えた。イリスとフルク老人の手が止まる。
「ほう。…… それは、また」
フルク老人があごひげを撫で付けながら言うと同時に、イリスがフォークをテーブルに叩き付けるように置いた。
イリスはフードの奥から俺を睨み付けると、音を立ててテーブルに手を付き立ち上がり、踵を返して店の出口に歩いていった。
「お嬢様、まったく、はしたない。いや、どうもすみません」
はげ上がった頭をさすりながら立ち上がり頭を下げたフルク老人も、イリスの後を追い掛けて店を出ていく。
「俺、なんか気に障る事言ったかな」
椅子から腰を浮かした俺は、ひたすらピグの肉を噛むゲスターを見る。
「まあ、座れ」
ゲスターに言われるまま、俺は椅子に腰を降ろした。
「とにかく、食ってからだ」
ピグ油まみれの口をテカテカと光らせ、彼は不敵な笑みを浮かべる。
骨だけになったピグ足の皿が下げられ、新たにピグの香草炒めとピグの角煮の小皿がテーブルに置かれた。
「あの二人、ありゃ、エルフに間違いないな」
ピグの香草炒めを頬張りながらゲスターが声をひそめる。
「エルフですか」
トロトロになるまで煮込まれたピグの角煮の食感を楽しんでいた俺は、油で濡れた唇を舌で舐めながら聞き返えす。
「まあ、俺も実際に見た事があるわけじゃないんだけどさ。それ旨そうだな」
俺はゲスターの口に運ばれていくピグのトロトロ角煮を名残惜し眺めた後、彼の向こう側の空いたテーブルを見る。
テーブルの上には、開けられた皿や、使い終わったフォークが綺麗に揃えられていた。
「すみません。俺、エルフとかあんまりよく知らないんで教えてもらってもいいですか」
テーブルには新たにピグの焼肉が運ばれてきた。
綺麗なピンク色の肉が金属製の四角い箱の上に乗せられた網の上焼かれている。肉が焼ける音、タレが焦げる香ばしい匂い。二人のはただ無言で焼けていくピグ肉を眺めていた。
金属製の箱の中には、真っ赤に輝く小石が敷き詰められている。
いったいどういう原理で石が燃えつづけているのだろう。
「この大陸にはな、もともと人間以外にも様々な種族がいてな。それぞれが一国をなしていたわけだ」
ゲスターは程よく焼けたピグ肉を口に入れる。
「はあ〜 幸せ」
話がなかなか進まない事にイライラする。が、俺も口中に染み渡るピグ焼肉の肉汁の旨さに思わずにやけてしまう。
「エルフ族ってのはな、もともと大陸の南に領土を持ってたんだがな。くう〜 うめえなあこれ」
二人で競い合うようにピグ焼肉を口に運んでいく。
そういえば、皇領の南にサザンエルドというエルフの属国があったと彼から聞いていた。
「理由はわかんねえが、人間とケンカしちまってな。もう純粋なエルフはいないって話だったんだが、あ、お前、それ俺が育ててた肉」
俺が取ろうと手元に引き寄せたピグ肉は、今までで一番分厚く、タップリと含まれた肉汁が焼けた石に落ちて心地好い音をたてていた。
「どうぞ、食べて下さいよ。で、あのイリスとじいさんがエルフっていうのは何故ですか。エルフはもういないって」
目にも留まらぬ早さで肉を奪いとったゲスターは、その肉をゆっくりとかみ砕き答える。
「こりゃ、噂なんだがな」
ゲスターは辺りを見回し、更に声をひそめる。
皇都に住む貴族の間でエルフを飼う事が流行しているらしい。
いかに珍しい種族のエルフを飼っているかが彼等のステータスになっている。
また、エルフを専門に扱う闇の商人がおり、彼等の間ではエルフをまるでペットの様に売買している。闇市では痩身の若い娘で、耳が長ければ長いほど高い価値がつく。
「あくまでも噂さ。実際に見たやつはいねえ」
火の無い所に噂は立たない。イリスが人前で常にフードを被り続けている理由にも納得がいく。
「ひどい話ですね」
彼の話を聞いた俺は食欲を失ってしまいフォークをテーブルに置いた。
ゲスターもパンパンに膨らんだ腹を両手で押さえて頷く。
「もし本当なら、最低の行為だとは思うがな」
テーブルに運ばれてきた食後のお茶を一口飲んだゲスターは、ふう、と息をはく。
「戦争に負けるってのはそういう事かもな」
「確かにそうかもしれませんが」
しかし、今思い出してみると、フルク老人の耳は長くなかった。エルフの間でも個人差があるのだろうか。
疑問をゲスターにぶつけてみる。
「エルフの血を引く者は、産まれて直ぐに耳を切るらしい」
ゲスターは吐き捨てるように言うと、椅子から立ち上がった。
「あくまで噂さ。明日はクストーまで一気に北上する。朝早いから稽古はほどほどにしとけ」
毎晩ゲスターが寝静まってから稽古をしていたのだがバレていたらしい。
「起こしてしまいましたか。すみません」
俺は椅子から立ち上がり、彼に頭を下げる。
「俺も一応魔物討伐隊に憧れた口だからな。あのお嬢ちゃんも凄いが、あんたの動きもなかなかのもんだったぜ」
ゲスターは思った事をそのまま言ってくれたのだろうが、イリスと俺では剣術だけでなく、魔物への対応に雲泥の差がある。
俺は彼女が後ろから来ている事すら気づかなかったのだから。
「まあ、しばらくじいさんを乗せなきゃならんし、用心棒二人なんて、俺みたいな運び屋の端くれには贅沢だわな」
豪快に笑ったゲスターは、黙り込んだ俺を置いて店を出ていった。
* * *
狭い部屋に無理矢理ベッドを二つ押し込んだ部屋からそうっと出る。
いつもの様にゲスターは大いびきをかいて寝返りをうっていた。
口の字の形に建築された古い宿の中央には、澱んだ小さな池が設けられ、その回りには低木が植え込まれた中庭になっている。
リグレットの剣を持った俺は、中庭へ至る通路の扉を開けた。
月の光に照らされた中庭には先客がいた。
池の縁の芝生の上、フードとコート姿の人影が、まるで舞を踊るように躍動していた。
全く無駄の無い足運び。月の光をきらめかさせながら剣を振り下ろしても、その重心軸が全くずれていない。
どこかの剣術の型なのだろうか。
いつも、イメージされた仮想敵であるリグレットと稽古している俺の動きとは似ても似つかない。
彼女の動きを追い掛けるコートの裾の流れるような動きには何故か妖艶ささえ感じる。
すごい。
思わず声が出てしまった。
低木の影に隠れる俺に気付いたイリスは、流れる動作のまま、剣を鞘に納めた。
「すみません。覗き見るつもりは無かったのですが」
頭をかきながらしどろもどろに話す俺をイリスはフードの中からギロリと睨む。
そして、低木の間を縫って建物に向かって大股で歩き出した。
「栄光旅団に入るつもりですか」
俺は梢の向こうの彼女に声をかける。
予想通り彼女は歩みを止めた。
ピグ肉屋での反応から、もしかしたら、と思ってはいたがどうやら当たりだったらしい。
ならば、同じ栄光旅団を目指す者として情報を集めたい。…… そう。正直言えばゲスターやフルクじいさんみたいなおっさんばかりでなく、若い女性とも話がしたかった、のもまあ、理由の一つではある。
「今のは剣術の型ですか。まるで踊って……」
ヒュッと空気を切り裂く音が聞こえた。
ちぎれた低木の梢が風に乗って流れていく。
俺の喉元に、彼女の剣の切っ先が向けられていた。
「無能な人間。あの時助けるべきでは無かったか」
イリスの剣の切っ先は俺の喉元に接するように停止している。少しでも余計な動きをすれば簡単に喉を突き抜かれるだろう。
しかし、やっと俺に分かる言葉で彼女は話してくれた。
「無能なのは分かってるし、あの時助けてくれたことは本当に感謝してる」
必死に言葉を連ねる俺の喉元に彼女の切っ先が触れる。
おそらく彼女は剣を動かしていない。知らずに俺の方から彼女に近づいていたのだろう。
フードの中の沈むような蒼い瞳に引かれるように。
「貴様のような無能に栄光旅団は務まらぬ」
無能、無能。自覚はあるつもりだが、こうも繰り返されると腹が立つ。
「しかし、ビルドウルフに対する初太刀はなかなかであった」
褒められたのだろうか。相変わらず彼女の瞳は、まるで虫けらでも見ているように冷たい光を放っているけど。
「なあ、同じ栄光旅団を目指すんだからさ、いっしょに……」
イリスの切っ先に紫色の炎が灯る。その炎は音も立てずに剣全体に広がっていく。
「エルフとヒトは相いれぬもの」
彼女の声は、その言葉の重みを感じさせない幼さと清廉さを持っていた。
だれもが知らず知らずに耳を傾けてしまう声、とでも言えばいいのだろうか。
そして、剣からかぎろうこの紫色の炎。間違いない。リグレットと同じベネディクトの炎である。
だか、その光の強さはリグレットの比では無かった。
細い刃体を伝った紫色の炎は、その柄口まで移動し、フードの中の彼女の顔を浮かび上がらせていた。
「フルクが回復するまでは、行動を伴にする」
イリスは言うと、剣を腰に下げた鞘に納めた。
紫の炎は、まるで存在していなかったかのように消え入り、辺りは月の明かりのみに支配される。
喉元の切っ先から解放された俺は、地面に両膝をついて深呼吸を繰り返す。
「やっぱりエルフだったんだね」
俺の言葉に、彼女の目が見開かれていく。
自分が放った不用意な言葉に気付いたのだろう。
「ル、ビアスタ、ドゥ、ミニヨンテ」
吐き捨てるように言い放ったイリスは、俺を振り返ることなく、建物の中へ入っていった。
俺は彼女の後ろ姿を目で追いながら、立ち上がる。
「『エルフとヒトは相いれぬもの』か」
ゲスターの言っていた噂を思い出す。
俺は、喉元を指でなぞってみた。
傷は無いが、いまでも切っ先が触れた辺りが熱い。
あの炎に焼かれたからなのだろうか。
襟首をつまみ上げた俺は、剣を握りしめて、空を見上げる。
アスコット村で見た月が少し欠けて見えた。
* * *
夜明け前に出発した俺達は、イリスが乗るスリカを先頭に、ひたすら街道を北に進んでいた。
日が登り、クルトーの町が近づくにつれて、街道が石畳に整備され、人通りが目に見えて多くなってくる。
皇領第一の商業都市、クルトー。
皇領の中央に広がる中原を南北に縦断するエボルス街道と、東西に走る神聖街道の交点という交通の要衝に位置するクルトーの町は、古代から商業の町として発展してきた。
夕焼けに空が染まる頃、窪地に広がる都市を見下ろす事ができる高台にたどり着いた。
遥か西方には、オレンジ色をキラキラと反射した大河が見え、そこから敷き詰めた様な家々の屋根が見え、その中心には天を突き刺すような尖塔が佇む。
「向こうに流れるのがメータ大河、中央の塔が東部大教会さ」
手綱を握るゲスターが誇らしげに胸を反らして言った。
「ゲスターさんはこの町の出身なのですか?」
俺は、肩にもたれかかりいびきをかくフルク老人頭部をゲスターの方に倒しながら聞く。
寄り掛かるフルク老人の頭部を更に俺の方に押しながら、ゲスターは首を振った。
「少し北のぺルプスだが、小さい頃からよく来ていたからな。まあ、故郷みたいなもんだな」
確か、メータ大河はメイルランドから皇領中央を北から南に貫き、クストーの付近で西に進路を変えていた。ゲスターの言ったぺルプスの町は、メータ大河沿いにクストーから北に上った先にあったはず。
俺はシルヴィアの地図を頭に思い浮かべる。
「ぺルプスっていえば、饅頭でしたっけ」
ぺルプスの町には、確か丸い饅頭の絵が描かれていたはず。
「おうよ。大河饅頭って言ってな、メータ大河で採れた魚をぶつ切りにして薄皮に包んで蒸したやつなんだが、これがもう絶品でな」
ゲスターは手綱から両手を離すと、饅頭を掴み、口に運ぶ仕種をし、目を閉じる。
まるでそこに湯気をたてる饅頭があるような迫真の演技であった。
「あっふ、あっふ」
なるほど。口に入れた途端、生地の中から熱々の中身が飛び出すと言うわけか。
その鬼気迫る演技とは裏腹に、ゲスターの手から離れた手綱がフラフラと宙を舞う。
そして手綱をゆるめられたウロスは、正直に足を早めた。
荷車がガクンと揺れ、俺は、思わず荷車の手すりを掴む。
「な、なんじゃ? 魔物か?」
振動に目を覚ましたフルク老人が、目を擦りながら辺りを見渡す。
俺と、手綱を握り直したゲスターは顔を見合わせて笑った。
* * *
喧騒の中、俺とゲスターは、クスコー名物の屋台街に繰り出していた。
ぺルプス料理の屋台に腰掛けたゲスターは、大河饅頭と酒を頼んだ。
それにしても。
俺は荷車を改造して作られた屋台から辺りを見る。
すごい混雑ぶりである。いままでも夜の町に出かけていたが、こんな真夜中にこれだけの人々は見たことがなかった。
クストー自慢の東部大教会の裏手を流れる小川沿いには、数え切れない程の屋台が道の両脇に並び、その間をたゆることない大河の水のごとく人々が行き交っている。
俺を驚かせたのは人の多さだけではなかった。
屋台を覗きながらフラフラと歩く人々?
よく見てみると、そこにいたのは人間だけではなかった。
全身毛むくじゃらで、三角の耳を頭から生やした人。長い尻尾を生やした人。人と言ってもいいものか迷ってしまうほど、そのバリエーションは多岐に及んでいる。
その中で、最も目を引いたのは、周りの人垣から胸から上を出した長身の人々だった。
長身の彼等は、発達した筋肉を誇るように上半身をはだけて、我が物顔で通りを歩いている。
「メイルランドの巨人族が多いな」
注文を終えたゲスターが、通りを見ながら言う。
「運河建設で、北から巨人共がどっと来てるんでさ」
屋台の店主が、魚をさばきながら言った。
「やつら、よく食うから、儲かるんじゃないの?」
ゲスターの言葉に店主は、包丁をふるいながら首を振る。
「酒を飲んだら手に負えないからね。屋台潰すわ、川に人ほうり込むわ。巨人お断りの店も多い。なにより」
蒸籠の前に立った店主は声をひそませる。
「運河建設で景気がいいのはやつらばっかりでな。各地から不満の声が上がってる。クストーの貴族会でも話題になってるらしい」
「ほう。そりゃまた物騒な話だな」
二人の話をきょとんと聞いていた俺に、ゲスターが気付いた。
「貴族会ってのはクストーのトップ機関だ。やばいのは奴ら、もともと軍人出身ばかりで何かと戦争したがる僻があってだな。もともとメイルランドが滅びた理由もだな。…… 何の話だったっけ?」
なんとか俺にわかりやすく説明しようとするゲスターだったが、酒が入っているせいか、話はしどろもどろになっていく。
そんな彼と俺の前に、湯気を立てる真っ白な饅頭が置かれた。大河饅頭だ。
「まあ、運送稼業の俺と、討伐隊志望のお前にゃ関係ないがな」
ゲスターは笑いながら大河饅頭にかぶりつく。
「あふっ、あふっ」
慌てて酒を口に入れるゲスター。そんな彼に店主が言う。
「そう言えば運送稼業のあんたと、討伐隊志望の兄ちゃんに関係のある話がある」
大河饅頭にかぶりつこうとした俺は手を止めて店主を見る。
「神聖街道の途中で魔物が出てな。今通行止めになってるらしい」
酒を飲み干したゲスターは、立ち上がった。
「そりゃ困る。明日中に皇都に行かなきゃ大赤字だ」
「まあ、慌てなさんな」
店主はゲスターのコップに酒を足す。
「皇都から討伐隊が向かってる」
「討伐隊が!」
今度は俺が立ち上がり叫ぶ。
丁度討伐隊の仕事を見てみたいと思っていたところだった。
皇都に行って討伐隊に入る。そこで認められれば栄光旅団に入る事ができるのは分かっていたが、肝心の討伐隊の仕事についてがよく分からない。もしその仕事ぶりを見ることができるのならば……
俺が言いたい事を察したのか、ゲスターは力無く椅子に座ると、酒を飲みため息をついた。
* * *
「神聖街道には、まあいろいろ裏道があってな」
翌朝早く、クストーの町を出た俺達とイリス、フルク老人は、ガタガタと荷車が揺れる岩場の道を太陽を背中に進んでいた。
神聖街道は大河沿いに皇領を横断する物流のまさに大動脈である。
街道は平らな岩で舗装され、その岩には全て物質硬化の魔法が掛けられているらしい。
ゲスターが言うには、確かに道はしっかりしているが、稀少生物や、あやしい薬品など違法物の取り締りも厳しいらしく、それらから逃れるために、プロの運送稼業は裏ルートにも詳しくなくてはいけないらしい。
神聖街道は確かにクストーの警備隊によって封鎖されていた。
俺は裏道に入るゲスターを尊敬の眼差しで見ていたが、次第に事の真相に気付く。
つまるところ、運送稼業のプロしか知らないはずの裏街道には、荷車の列がひしめいていた。
ゲスターは、スリカの上から注がれるイリスの刺すような視線に頭をかきながら笑ってごまかす。
太陽が頭上近くになってゲスターは裏街道から少し外れた高台でウロスの歩みを止めた。
眼下に広がる平原に向けて単眼鏡を覗いていたゲスターは、ほら、とそれを俺に手渡した。
受け取った単眼鏡を平原に向けた俺は思わず息を飲み込んだ。
平原の一部分が半透明のドーム状の物質に覆われ、その中が霞んで見える。
そこにいたものは、以前見たビルドウルフの数倍の大きさの狼。だが、その狼は、全身を紫の炎で覆、背中から、巨大な翼を生やしていた。
シルヴィアの魔物図鑑で見たことがあった。
「魔翼獣スカイウルフ!」
ゲスターの叫び声が聞こえる。
あぶないど3。6シルヴィア。好物はコーキー。翼の付け根をこしょこしょすると喜ぶ。こうずいのあとにやってきた。
「ああ、で、あの周りのドームが結界だ」
「結界?」
単眼鏡から目を離すと、ゲスターは腕を組み、コクリと頷いていた。
「魔物の討伐は、裁定者と呼ばれる教会司祭が一帯に結界を張ることから始まる」
ようするにあの半透明のドーム状の物が結界なのだろう。
「まあ、逃げられちゃ意味ないからな」
「裁定者って?」
「魔物討伐の時は必ず教会司祭が同行してだな」
「見ろ。討伐隊だ」
スリカの上からイリスが声を出した。
この距離で単眼鏡無しで見えるのだろうか。
俺はすぐに単眼鏡を覗き見る。
ドーム内を飛び上がるスカイウルフの真下に人影が見えた。
単眼鏡のスコープを回して倍率を上げる。
体格のいい男性がたった一人、身の丈程の長い剣を構えていた。
討伐隊という位だからてっきり数人で討伐するものだと思い込んでた。
更に倍率を上げようとしたところを、ゲスターに単眼鏡を奪われた。
「おお本当だ。単独討伐か。優秀な討伐人なんだろうな」
ゲスターが言い終わらない内に俺は再び単眼鏡を奪い返す。
紫色の炎を纏った翼を広げ、ドーム内を上昇したスカイウルフは、剣を構える男性に向かって急降下を始めていた。
素早く身をかわした男性は、恐ろしい速度で剣を振るう。
一振り目でスカイウルフの胴体を切り裂き、返す二振り目で首を落としていた。
「す、すごい」
急降下するスカイウルフの攻撃をかわした体さばきもすごかったが、振るわれた剣の軌道は残像を追うことしか出来なかった。
「やったか?」
ゲスターが単眼鏡を奪い取ろうとするが、俺は力を込めてそれを拒絶する。
地面に横たわったスカイウルフの亡きがらに、もう一人の人物が近づいていた。
真っ白の丈の長いコートを着たその人物は、今だ紫色の炎を纏うスカイウルフの死体に近づくと、片手を死体に翳した。
その手に吸い込まれるように紫の炎が消えていった。
剣を担いだ男性がその人物に近づき、何か声を掛けている。
振り向いた白いコートの人物が、めんどくさげに男性を遠ざけようとしている。コートの人物の顔が見えた。若い女性だった。
ゲスターに単眼鏡を奪われた俺は、興奮のあまり震える両手を握りしめる。
圧倒されていた。
魔物の迫力と、男性の剣技。
俺は……
ビルドウルフに殺されそうになった俺はあの男性のような討伐人になることが出来るのだろうか。
でも。
将来に対する不安よりも、命を掛けた駆け引きを直視した事による、体の内側から沸き上がる不思議な気持ちの方が比べものにならない程大きい。
目指すべき目標をやっと見つける事ができた。
金属同士が触れ合う音に気が付き、スリカに乗るイリスを見上げる。
彼女はフードの目を平原に向けて、腰の鞘を強く握りしめていた。