03 森での出会いは突然に
『びるどうるふ。あぶないど1。どこにでもいる。あかちゃんのときはもこもこかわいい。しかるときはみみのうしろをたたくとおとなしくなる。おとなはきばがすごい。たくさんでいどうする。こうぶつはこーきーのおにく。おおきさは1しるう゛ぃあ。てんねん?』
ガタゴトと揺れる荷車の上。俺は、とりあえず魔物について知るべきだろうとシルヴィアから貰った本を広げて吹き出してしまった。
いったいどうやって調べたのだろう。たしかにこの魔物をペットにするならこれでいいかもしれないが。だいたいコーキーが何か分からないし、1シルヴィアってのは何の単位だろうか。天然? と聞かれても困る。
しかし、その説明文に添えられていたビルドウルフの挿絵には鬼気迫る迫力があった。
四足歩行をする筋肉質の体は、灰色の毛羽立った体毛に覆われている。そして開かれた口には、まさにこちらに噛み付かんばかりに鋭い牙が並んでいる。
文章は少しあれだが、絵の才能があるのかも知れない。
パラパラと本をめくってみると、稚拙な文章に対し、驚く程精緻な挿絵が総ての魔物に添えられていた。
最終ページに近い場所に描かれた魔物を見てみる。
『そる・きゅりあす。あぶないど8。すながすき。りぐれっとのけんどろどろ。だっぴしてすぐはあつくない。いっぱいしるう゛ぃあ。こうずいのあとにやってきた?』
という、全身を燃え盛る鱗に覆われた魔物に至っては、今にも鱗から炎が立ち上がりそうである。
本当にこんな魔物がいるのだろうか。
とはいうものの、彼女なりにファンタジーな色付けがなされた挿絵は見ているだけでも面白い。
村を出発して半日。
ただひたすらに草原が続くだけの単調な景色に少しづつ変化が現れていた。
荷車が進む道のデコボコが徐々に平になり、何台かの荷車に追い越していかれた。
町が近い。
図鑑を閉じ、伸びをした俺は、荷物の向こうの景色を眺める。 悠々と歩を進める毛むくじゃらの動物の向こう、夕日の中に、ぽつりぽつりと町明かりが見えていた。
* * *
「シルって町さ」
シルヴィアから貰った本と、リグレットから貰った剣を持ち、荷車から飛び降りた俺にゲスターが腕まくりをしながら声をかけた。
夕闇の中、町の中央の広場には、各地から集まった荷車が並べられていた。
宿場町になっているのだろうか。
広場を取り囲むように建てられた宿屋と思われる、二階建ての建物から明かりがもれている。
「こいつらを預けたら宿に行く。貴重品を降ろしてくれ」
荷車に飛び乗ったゲスターは荷物の中から、木箱を抱え上げると、俺に手渡した。
厳重に釘で打ち付けられた木箱はずしりと重い。
受け取った俺は、思わずフラフラと後ずさる。
背中が硬い物に当たった。
振り返ると、全身鱗に覆われた巨大な生物が俺に牙を剥いていた。
長い首に突き出た大きな目玉。二足歩行するらしく、鋭利な爪が付いた、小さな手足を俺に向けて広げている。その生物の背には、マントとフードで全身を隠した人物が見える。
「すみませんでした」
俺はその人物に頭を下げた。
「ドゥ、ミニヨン」
その人が発した女性の声に驚いた。巨大生物に跨がっているせいで気付かなかったが、なるほど、そういえば随分小柄な人影である。
「エン、ビアスタン、ドゥ、ミニヨン」
どこの言葉だろうか。全く意味が分からない。
しかし、言葉を発した人は怒りに満ちた目で俺を見下ろしている。
「いやあ、どうもすみませんでした。こいつまだ新人なもんで」
フードの下の瞳を見ていた俺の頭をゲスターが無理矢理下げさし、袖を引く。 荷車の横までくると、ゲスターは、俺の頭をげんこつで殴った。
「馬鹿野郎。こんな所にゃどんなヤバい奴がいるか知れねえ。あんな時は頭下げてすぐずらかれ」
俺はゲスターに殴られた頭をさすりながらさっきの人物を探してみるが、密集する人混みの中、すでにあの鱗に覆われた生き物もフードも見えなくなっていた。
「あれ、どこの言葉だか分かりましたか」
本が入った袋と剣を持ち、木箱を担いで人混みと使役動物の間を縫って歩く俺は、前を進むゲスターに尋ねる。
「さあな。でも乗ってたスリカの装飾からして身分は高そうだったな」
スリカというのはあの巨大生物の事だろうか。その装飾までは見ていなかった。
まあ、なんにせよ、俺には知らない事が多すぎる。危機回避、自分の身を守るためにももっとこの世界の事を知らなければいけない。
当面、しなくてはいけないことはこの世界についての勉強になりそうである。
* * *
目の前に運ばれてきた大皿には、野菜炒めが山盛りに載せられていた。シルヴィアの料理とは違い、肉らしきものもたっぷり入っている。
舌なめずりしたゲスターが、テーブルの上に置かれていた瓶を開け、中の茶色い液体を野菜炒めにまぶしていく。水蒸気がもくもくと立ち上り、香ばしい香りが鼻をつく。
さっそく小皿に野菜炒めを取り分けたゲスターは、フォークでそれを口にほうり込む。
俺も見よう見真似で香ばしい香りを振り撒くそれを少し口に入れてみた。
新鮮な野菜を使っているのだろう。シャクシャクとした歯ごたえ、そして濃厚なタレの辛味が一気に口の中に広がっていく。
堰をきったように肉を口に運ぶ。
久しぶりに食べた肉が血液に乗って全身に運ばれていくようだった。溢れ出る肉汁が辛めのタレと絶妙に絡み合っている。
「コーキーの野菜炒めはこの辺りの名物だからな。うめえだろ」
口の回りをタレだらけにしたゲスターが言う。
「この店のタレは特別製でな。ポクルカの実をじっくり煮詰めて作るらしいが」
喋りながらもゲスターは次々に大皿から自分の小皿に野菜炒めを載せていく。
俺は負けじと肉を多めに小皿に取る。
「ビルカドルガの瓶詰煮もいいが、デルセン地方のピピリア鍋も旨くてな。このピピリアってのがめったに上がらない……」
喋りを相手に聞かせて、その隙に食べ尽くす作戦だろうか。
少しでも気を抜けば全部食べ尽くされるだろう。彼の話には興味を引かれたが、取り合えず今は俺の本能がこの肉とタレを欲しているのだから仕方ない。
とにかく皿に盛る。食べる。噛む。飲み込む。
* * *
「随分古い地図だな」
食後のお茶を飲むゲスターは、俺がテーブルに広げた地図を眺めてつぶやく。シルヴィアに貰った本に入っていたものだったが、まずその正確さをゲスターに確認してもらいたかった。
「皇都周辺はだいたいこの通りだけどな、辺境地域が少し違ってるな」
ゲスターは地図の端を指差す。国の堺を示す線が引かれているが、それが違っているらしい。
「このピグリアム山脈付近、今は皇領に組み入れられているんだ。地図にあるサザンエルドってのはだいぶ前に滅んだエルフ国の属領だな」
お茶を口に含んだゲスターは別の場所を指し示す。
「北部領も随分古いな。メイルランドってのも今では皇領になってるな」
次々に出てくる固有名詞に理解がなかなかついていかない。しかし、この地図自体は古いものの正確であることは分かる。
「メイルランドの首都プレビアヒアの酒がこれまた旨くてな」
その味を思いだすようにゲスターは目を閉じる。
「後継者争いで国が滅んじまってな、今では廃墟になっちまってる。まったく惜しい事をしたもんだよ」
地図には南北に長い大陸が描かれている。ゲスターの言う通り、南端には山脈の絵が描かれ、北端にはメイルランドの記載がある。大陸の中央、南北に流れる川の中腹付近には、城壁で囲まれた町が描かれ、そこから放射状に線が引かれている。
「これが皇都ですか」
俺はその町を指差す。
「そうだな。こりゃ大城壁か。ほら、その東にあるのが交易の中心クストー。で、そこから南にずーと行った所がこの町だな」
ゲスターが指差した辺りには、鳥らしき絵が描かれていた。
「コーキーの絵だな。ん? こっちにはピピリアも」
ゲスターが指差す先には、湖があり、その中に魚の絵が見えた。
「よくみりゃメイルランドには樽の絵もあるな。こりゃ、お前、観光案内地図じゃないのか」
命懸けの冒険の旅に出たのに、持たされた地図が古い観光案内だったとは。魔物図鑑は手作りだし。
一気に力が抜けてしまった。
肩を落とす俺を余所に、ゲスターは地図に描かれた動植物の絵を指し示しながら、その料理方法と旨さについて語り続けていた。
ゲスターが寝静まるのを確認した俺は、リグレットの剣を持ち、音を立てないように部屋を出る。
宿屋の裏庭に出た俺は、布を開き、剣を取り出した。
装飾が施された金属の鞘から剣を抜いていく。
ヌメリとした白銀の刃が月明かりを照り返していた。
そうっと刃に指を当ててみる。リグレットの言葉ては裏腹に、まるで赤い線を引くように、指の皮膚が切れ、血が滲み出る。恐ろしい程の切れ味だった。
両手で柄を握り、正眼に構えてみる。
なぜかしっくりこない。 重心の妙か、見た目程の重量感を感じない。軽すぎる。
首を捻った俺は、リグレットが隻腕だった事を思い出した。
右手だけで柄を握り、左手は、鞘に添え、右足を半歩前に踏み出す。
手に掛かる適度な重量感。
なるほど。見た目は両手剣のようだが、片手で構えた方がしっくりとくる。
目を閉じ、意識を剣に集中していく。梢を揺らす風の音、虫の声が次第に意識から消えていった。
俺は目の前に現れた片腕のリグレット相手に稽古を始める。
* * *
ゲスターという男は、とにかくお喋りが好きな男であった。
町を出発する時、今までのように荷車に乗ろうとする俺を、彼は自分の横に乗せた。
そして、止まることを知らないように彼は自分の過去の話をし続ける。主に食べ物の話だったが。
「栄光旅団かあ」
俺の旅の目的を聞いた彼は、手綱を握りながら空を見上げた。
「俺も昔は魔物討伐隊に憧れて村を飛び出した口でな」
ゲスターは皇領中原東部にある地方都市の出身だと語った。
「当時は司祭討伐団てのが各地で魔物を討伐しててな、俺も身一つで皇都に行ったんだがな」
彼は鼻を鳴らして笑う。魔物を討伐しに皇都に出た彼は、道中と皇都の食べ物の旨さの虜になってしまったらしい。
「一番許せなかったのは、司祭討伐団ってのが肉食禁止だった事だな」
手綱を握る手に力を込めた彼は雲一つない空を睨む。
「まあ、魔物の討伐なんてガラでもなかったんだがな」
途中、水呑場で荷車を止めたゲスターは、毛むくじゃらの動物に水を飲ませた。
「このウロスにしても」
水場に首を突っ込む毛むくじゃらの頭を撫でながらゲスターは言う。
「なんだか愛着が湧いちまってな」
ウロスというのは、彼が頭を撫でる毛むくじゃらの動物の事である。
彼が言うには、最近このウロスを使う交易商は減っているらしい。主流になっているのは、カノという足の長い動物である。速力、積載能力もそちらの方が段違いにいいらしい。
そういえば、ここにいたる道すがら、彼の荷車は随分たくさんの荷車に追い抜かされている。
「人には生きていく上で適所ってのがあるんだろうな」
そう言い、彼は遠くを眺める。
立派な事を言っているようだが、つまり、足の遅いウロスの方が様々な町に立ち寄り、名物料理を食べる事ができる、ということだろう。
シルの町を出たウロスに引かれた荷車は、果実の絵が描かれたルインの町、キノコの絵が描かれたウルの町で宿を取りながら、ひたすら北上を続けていた。
次の町、サウロニア・カウスの町には、丸い体を持つ動物が描かれていた。ゲスターが言うには、ピグという家畜らしく、これが焼いても、煮ても、干してもとにかく美味いらしい。
皇領の中でも一二を争う名物だ、と唾を飛ばしてまくし立てる。
ゲスターの味覚には間違いがない。行く先々で名物料理を食べてきた俺は、その味を想像し、思わず唾を飲み込んだ。
ただ、サウロニア・カウスの南には、鬱蒼とした森があり、その森を取り囲むように動物の絵が描かれていた。
ピグ料理を頭一杯に想像する俺とゲスターは、シルヴィア魔物図鑑に描かれていたその動物に気付く事はなかった。
* * *
太陽が傾きはじめていた。
宿から貰った弁当をたいらげた俺とゲスターをのせた荷車は、ゆっくりと午後の街道を北に進んでいた。
一つ気になる事がある。 昼過ぎに弁当を食べてから、一度も他の荷車に追い越されていない。そして対向する荷車もいない。
街道の先を見てみると、丘の向こうに、こんもりとした森が見えていた。
手綱を握るゲスターが舌打ちをする。
「ちょっとまずい事になっちまったな」
ゲスターは手綱を振り、ウロスの動きを止めた。
「この先はしばらく森の中を進む事になるんだが」
横に座る俺を見た彼は、腕を組み、考え込む。
「日が暮れちまうと森を通るのは危ないんだ」
なるほど、それで辺りから荷車が見えなくなっていたのか。
「どうしてですか」
「おう。出るらしいんだよ」
「出る? 何がですか?」
ゲスターはため息をつきながら答える。
「亡霊」
選択肢は二つ。ここで野宿をするか、一気に森を突破してしまうか。
ゲスターとしては、出来るだけ早くここを突破したいようだった。
荷車には、生ものの他に、生きた生物も積んでいる。鮮度が落ちたり、弱ったりしては、市場で捌く時の値段が下がってしまう。個人交易商の彼としては、買い付けた値段からの利益が減ってしまう事は即死活問題になる。
俺としても、ここは突破したいところであった。
途中の町で、ゲスターに食事代は払わなくていいのか聞いてみた。
どうやら、俺の旅費は用心棒を雇う代金で賄われているらしい。つまりただで用心棒をする代わりに同行している訳である。
ならば、用心棒らしい仕事もしなくてはいけないだろう。
何より二人を突き動かしたのは、森の向こうにまっている、熱々のピグ料理だった事は言うまでもない。
荷車から降りた俺は、リグレットから貰った剣を取り出してその鞘を握る。
ゲスターは、掛け声を掛けながら、手綱を振るった。
* * *
森の中の街道は、大木の間を縫うように伸びていた。荷車が立てるガタガタという音が、深い木々に吸い込まれていく。
なんとなく違和感を感じたのは、ゲスターが道端の石塚を指差し、中間点だ、と言ってしばらくしてからだった。
違和感の正体は分からなかった。特に視線を感じたり、つけられている気配はない。
なんなんだろ。
俺はゲスターに立ち止まるよう荷車を叩き合図を送る。
静まり返る森の中。目を閉じて深く息を吸う。
違和感の正体に気付いた俺の顔から血の気が引く。
音が無い。
鳥のさえずる声。風が梢を揺らす音。いままで当然の様に聞こえていた音が全く無い。
俺の背後で土を踏み締める音が聞こえた。
ゲスターが声を噛み殺し、震える指で俺の後方を指差している。
背中に伝わるのしかかるような重圧感。殺気のような物だろうか。
俺は、振り返りたい気持ちをなんとか押さえ込んでいた。背後に何がいるのかは分からないが、姿を現したということは、そいつの間合いに入っているのだろう。ここで振り返れば、一瞬で殺されるに違いない。
俺は呼吸を整えながら、剣の鞘口と柄の留め金を外した。
そして目を閉じる。
こちらから仕掛ける事は出来ない。そいつが俺に飛び掛かる瞬間をひたすら待ち続ける。
おそらく数秒間の我慢だったのだろうが、俺には永遠の時間にすら感じられた。
砂が蹴り上げられる音が聞こえた。
目を開いた俺は、体を回転させながら、鞘に収まったままの剣を水平に薙ぎ払う。
柄を握る手ににぶい感触が伝わる。
遠心力で抜けた鞘が地面を転がり、その手前に灰色の毛を持つ獣が横たわっていた。
不意打ちを食らうという最悪の状況を脱する事はできたようだ。
安堵の息をついた俺は、獣に抜き身の剣先を向ける。
のそりと身を起こすその獣に見覚えがあった。
ギラギラと光る窪んだ目。ピンと起立する両耳。研ぎ澄まされた牙。
亡霊の正体、それはシルヴィアの魔物図鑑の一ページ目に載っていた魔物『びるどうるふ』であった。
なるほど、実物を見て再度挿絵の精密さに唸らざるをえない。
ビルドウルフの大きさは、確かに1シルヴィア。つまりちょうど今のシルヴィアの身長位の体長である。
『あかちゃんのときはもこもこかわいい』
牙を剥き出し威嚇するその姿からは想像出来ないが、シルヴィアの表記を思い出し、ふと笑みが込み上げる。初見の相手にも関わらず、自分でも驚く程落ち着いていた。
今の俺とビルドウルフの状況は、稽古でのリグレットと俺の立場に近い。
リグレットならば……。
見合ったのは一瞬だった。
ビルドウルフの発達した後ろ足の筋肉が収縮し、俺に向かって牙を向けて飛び掛かる。
その迫力に思わず目を閉じてしまいそうになるが、俺はビルドウルフの前足の筋肉に力が込められていることを見逃さない。
目に見える牙の攻撃は囮。本命は牙よりも長い間合いを持つ前足の爪なのだろう。
半歩、左足を前に出し、右手で握る剣の腹でビルドウルフの爪を受け流す。
『しかるときはみみのうしろをたたくとおとなしくなる』
余った左手で拳を作り、力いっぱいビルドウルフの耳の後を殴りつける。
クウンと力の抜けるような泣き声を喉から絞り出しその場にダラリと足を投げ出して横になった。
「た、助けてくれ!」
ほっと息をつくのもつかの間、ゲスターの声に俺は荷車を振り返る。
茂みの中から三頭のビルドウルフが荷車に向かって歩を進めていた。
『たくさんでいどうする』
油断していた。シルヴィアはちゃんと教えてくれていたのに。
「ア、アルフレットさん」
荷車の側で腰を抜かして座り込むゲスターの横に駆け寄る。
ゲスターは、俺の足にしがみつき、ガタガタと震えていた。
この人はやっぱり魔物討伐には向いていなかったのだろう。
荒れた呼吸を整えた俺は前方からにじり寄るビルドウルフに剣を向ける。
さて、どうするべきか。なんとか一匹は始末したが、こう数が多いと少し苦しい。どうにかして一匹づつ相手にできればいいが。
「危ない!」
ゲスターが俺の背後を指差して叫んだ。
反射的に振り向くと、さっき倒したはずのビルドウルフが俺に飛び掛かっていた。
間に合わない。
唾液の糸を引く口から突き出た牙がすぐ目の前に迫っていた。目を伏して、右腕をビルドウルフに突き出す。腕は食いちぎられるかもしれないが頭部への攻撃は避ける事ができるはず。
…… やってくるはずの痛みは無かった。
変わりに、ビルドウルフの首だけが俺の腕に当たり、鮮血を撒き散らしながら、地面を転がっていく。
血煙の向こうでは、首から先を失った胴体が、ドサリと地面に倒れ、血だまりに沈む。
「エン、ビアスタン、ドゥ、ミニヨン」
声のする方を見上げる。
荷車の上、マントを纏ったその人は血に濡れた細い剣を揺らしていた。
声と言葉からシルの町で出会った女性に間違いない。
フードを脱いだ女性は、侮蔑するような目で俺達を睨み付けていた。
思い出したように吹き抜けた風が梢を揺らし、彼女の黄金色の長い髪をサラサラと舞い踊らせる。
年の頃は十代半ば。異様に飛び出した細長い両耳、切れ長の双眸に輝く沈んだような青い瞳、そして、黄金色の髪を束ねる銀色の輪状の髪留めが目に止まる。
髪留めから伸びた赤色の幅広いリボンが風に揺れていた。
この世の物と思えない美しさ、もはや高圧的とさえ思える壮麗さに、俺とゲスターは自分達の置かれている状況を忘れて彼女に見入る。
「リュケ、アンドロセブテイシア、フェロン!」
血液を振り払うように刀を震わせた彼女の怒号に、ビルドウルフ達は、後ずさりをはじめていた。
「フェロン!」
更に掛けられた怒号に、ビルドウルフ達は一斉に茂みの中に消えていった。
「た、助かった」
ゲスターは、全身の力が抜けたように荷車にもたれかかり空を見上げる。
俺は吸い寄せられるように彼女の方へ歩く。
「助けていただきありがとうございました」
頭を下げ、見上げると、彼女はまた俺を汚れた物でも見るように顔をしかめる。
「姫様〜」
後方から声が聞こえた。 見ると、シルの町で俺がぶつかった巨大トカゲが、こちらにゆっくりと近づいてきていた。
声の主はその横を歩く白髪の老人だった。
「姫様、急に走り出されると、もう……」
俺とゲスターの姿を見た老人は慌てて口をつぐむ。
老人とスリカの姿を見た女性は、フードを被り直し、荷車の上から地面に飛び降りた。
「お嬢様、これは一体」
杖を突き歩み寄った老人は、地面に横たわるビルドウルフの胴体を見て言う。
女性は身を屈めて老人の耳元に口を寄せると、俺には聞こえない声で何か語りかけていた。
「それは…… ううむ」
彼女の言葉を聞き唸った老人は頷くと、片足を引きずりながら、俺とゲスターの前に立つ。
「この度は御災難でしたな」
「いえ、こちらこそ、危ないところを助けて頂いて」
ゲスターは改まって頭を下げた。
「ところで今、あなたがたが見られた事は、一切言外無用でお願いしたい」
そう言って老人は深々と頭を下げる。
俺とゲスターは顔を見合わせるが、同時に頷く。
「それはもう。その通りに」
ゲスターの言葉を聞いた老人は安堵したようにしわだらけの顔に笑みを浮かべ、女性の元に戻っていく。
「ご老人、足を怪我しておられるのですか」
布を巻いた左足を引きずり、杖をつく姿に俺は思わず声をかけた。
「おい」
ゲスターが俺を睨みながら小声で言った。
シルの町で彼に言われた事は覚えている。しかし、命を助けて貰った以上、これでさよならはどうだろうか。
「実は、足をくじきましてな。お嬢様の案内として随行を申し出ましたが、おもわず足を引っ張ってしまいました。いや情けない」
それでシルの町から俺達と同じ時間がかかったのだろう。
「あの動物に乗れば」
俺は女性の側に立つ、鱗に覆われた生物を指差す。その背中には華麗な装飾を施された鞍が乗せられていた。
「滅相もない。これはお嬢様の……」
老人は慌てて両手を振る。
俺はゲスターの顔を見た。深いため息をついた彼は諦めたように何度も頷いて言う。
「御老人、乗り心地は保証出来ませんが、私の荷車でよければ」
「いや、しかし……」
老人はゲスターと女性の顔を交互に見る。
腕を組んだ女性が頷いていた。
「では、お言葉に甘えて。よろしくお願いします」
俺とゲスターは早速荷車の上の荷物を整理する。
ちなみに、転がっていたビルドウルフの死体は革袋に入れ、積み荷の一つに加えている。肉は食用に向かないが、毛皮は結構高く売れるらしい。
積み荷を整理していた俺は、その一番奥に布を掛けて置かれた大きな荷物を見つけた。布をめくりあげると、木製の檻の中、体を丸め、怯えるように俺を見る鳥が入っていた。
コーキーだった。
「私はフルクと申します。ピグリアム地方から来ました。いやあ、実際のところホトホト困っておりましてな。本当に助かります」
荷車の上から手を伸ばす俺にフルク老人が言う。
「目的地は皇都ですか」
荷車に乗ったフルクは、足を延ばして積み荷を背もたれにして腰を下ろした。
「まあ、そんなところです」
フルクが安堵の息をついた事を確認した俺は荷車を飛び降りた。
「あの人は?」
巨大トカゲに跨がった女性は、すでに荷車の前にあり、前方を眺めていた。
「ピグリアムの地方領主の御令嬢様、イリス様でございます」
俺は頷くと、ウロスの手綱を握るゲスターに出発の合図を送る。
まあ、ただのお嬢様ではない事は分かる。
荷車からリグレットの剣を降ろした俺は、その鞘を握り締め、荷車の後を歩きはじめた。