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「湊ー! あんまり遅くならないようにねー!」
「分かってるってー!」
母親の声に、少女は走りながら返事を返す。なだらかな坂道を下りながら、少女は息を切らし港を目指していた。
そこはとある県にある小さな島、那太ノ島。海に囲まれ、波音と海鳥の鳴き声が響き渡る島。本島とは少し離れ、行き来するための定期船は一日に四回だけ。目立つ店もコンビニもない、平穏な漁村があるだけの島だった。
少女の名前は柚原奏。その島で民宿「那太ノ宿」を営む夫婦の一人娘である。歳は十七になり、高校は本島にあるため、毎朝毎晩定期船に乗り通学している。
「あら奏ちゃん、お出掛け?」
「そうだよ! ちょっと本島に買い物!」
「定期船に乗り遅れないようにね」
「うん! ありがとう!」
港沿いの道を走る彼女に、作業する老婆は顔を緩めながら話しかける。それを嫌な顔一つもせずに返事をする彼女は、天真爛漫という言葉がよく似合っていた。
その島の平均年齢は高い。大半の世帯は漁業で生計を立てているが、若い者は皆島を離れ就職しており、島の人口五六十人中およそ六割が高齢者となっている。それも仕方がないのかもしれない。島には楽しみとなりえる施設などはなく、ただ山と海がすぐ近くにあるだけであり、退屈とも思える場所だった。
だが、湊は那太ノ島が好きだった。
山からの風は新鮮で清々しく、海からの風は磯の香りを運んでくる。山は四季折々の姿を写し、海は時に穏やかに、時に荒れながら、自然そのものの姿を現しているかのようだった。
幼い頃にこの島に移り住んだ彼女にとって、この那太ノ島は故郷だった。島の自然に触れながら成長した彼女は、両親はもちろん、町の全ての大人から大切に育てられた。つまりは、彼女にとって、この島そのものが家族のようなものだった。
港に着いた彼女は、定期船を待つ。定期船と言っても、見た目はただの漁船であり、操舵手も年配の男性だった。
船の時間まではまだ少しあった。彼女は携帯電話を取りだし、メールを打ち始める。携帯電話は、彼女が高校入学の時に両親が購入したもので、島の外にいる高校の友人との唯一の連絡手段だった。今日は高校は休み。本島の商店街で友人と遊ぶ予定だった。
メールでやり取りしながら、彼女は眼前に広がる海原に目をやる。遠くには本島が見え、その両サイドには水平線の轍があった。風は彼女の肩までの髪を靡かせ、目を閉じれば空を飛んでいるようにも思えた。
「……いい天気だな」
そう呟くと、彼女の顔には笑みが浮かぶ。そして遠くから近付く定期船に向かい、大きく手を振った。
――――――――――
「――千佳ー!」
本島に渡った彼女は、近くの駅にいた少女に手を振った。彼女は湊の高校の同級生である。湊と千佳は、中学時代からの友人であり、親友と呼び合える仲だった。
湊の声に気付いた千佳は、元気に手を振り返す。
「湊ー! 早かったね!」
千佳の声を受けながら、湊は彼女に駆け寄る。息を切らして千佳の前に着いた湊は、千佳に笑顔を見せた。
「うん! 定期船のおじちゃんが急いでくれたんだ!」
「あんまり急がせると、船が沈んじゃうよ?」
「もう……そんなことなったら大変だよ……」
千佳の“いじわる”に、湊は眉をハの字にしながら困り顔を見せた。もちろん千佳は、湊がそんな顔になることを予想していた。だからこそ、自分の想像通りの反応を示した湊がとても可愛く思え、声を出して笑った。
「ハハハ! とりあえず行こっか」
千佳の声に、湊は先程までの顔を笑顔に一変させ、歩く彼女に続いた。
二人はまずバスに乗る。目的地である商店街は、駅から少し離れたところにあった。バスに揺られながら、湊は外の景色を眺めていた。日はまだ低く、朝の光景が広がる。人々は活気に溢れ、建ち並ぶ建物の影を歩いていた。それは島では見ることの出来ない光景。忙しく歩く人々の姿は、未だに慣れることはない。見る分はいいだろうが、とてもああしてせわしなく過ごすのは難しいだろう。湊は、漠然とそう思っていた。
「――そういえばさ」
外を見ていた湊に、千佳は声をかける。顔を見せた湊に、千佳は意地悪そうな笑みを浮かべた。
「C組の西田くん、知ってる?」
「西田くん? ……ううん、知らない
「西田くんね、どうやら湊のことが好きみたいだよ?」
「ええ!? 何で!?」
「何でって言われてもねぇ……でも西田くん、カッコイイじゃん。女子に人気だよ?」
「そうなの?」
「そうそう。だからさ、付き合っちゃえば?」
千佳はニヤリと笑いながら湊に顔を近付けた。湊はというと、顔を赤くしながら首を横に振る。
「い、いいよぉ……私は西田くんのことよく知らないし……」
湊の言葉に、千佳は残念そうに首を振る。
「……はぁ。湊ってホントもったいないよね……」
「な、何が?」
「湊さ、自分が思ってる何倍も可愛いんだよ? しかも明るいし話しやすいし、湊のこと好きな男子はいっぱいいるんだよ?
なのに肝心の湊はこの調子だし……高校生活は三年間しかないんだよ? もっと青春を謳歌しなくちゃ!」
千佳はやや大袈裟にジェスチャーしながら湊に話した。
彼女が言う通り、湊は学校で人気のある女子だった。活発で明るく、誰にでも隔たりなく接する。その顔も可愛らしく、温厚な性格も合わさり男子から告白されるのもしばしば。
だが彼女自身、誰かを好きになることはなかった。島では常に自然体でいて、誰とでも家族のように話す。それが彼女という人格を整形したのだが、その反動もあった。彼女は、誰かに特別な感情を抱けなかった。
もちろんそれは彼女の良さでもある。だからこそ、友人である千佳は歯痒いところもあった。
「そんなこと言われても……」
何だか責められてる心境になった湊は、すっかり落ち込んでしまっていた。
そんな彼女を見た千佳は、やれやれといった顔で彼女の頭に優しく触れる。
「……あのね、私は別に湊を責めてるわけじゃないんだよ? ただ、いつになったら胸がときめくのかなって心配なだけ」
「うん……」
「まあいいや。この話はこれでおしまい。
――そういえばさ、今から行く商店街に、すんごく美味しいご飯が食べれる喫茶店があるらしいよ?」
「喫茶店?」
「そうそう。毎日行列が出来てるんだって。しかも、そこの店員さんが凄く美人らしいよ? 雑誌に書いてあった。そこ行ってみない?」
「――うん! 行く!」
湊はすぐに元気になった。美味しい料理の店というのは、彼女の興味を存分に引き立てる。それを知る千佳は、少あ安堵した。
そんな二人を乗せたバスは、揺れながら商店街に向かっていった。
――――――――――
夕暮れ時、商店街を歩き回った後、湊は千佳と別れた。そして港で定期船を待つ。
とても充実した一日だった。友人と思う存分話し、行きたいところに行き、色々なものを見て回った。
水平線の上には、赤く丸い太陽がゆっくりと揺れていた。海鳥はまるで仲間に巣に帰る時間を知らせるかのように鳴いている。海面は静かに揺れ、防波堤に打ち付ける波の音は、子守唄のように優しく耳に入ってきていた。
ふと、彼女はある人影を見つけた。それはとても若い男性だった。彼女と同い年くらいだろうか。その時間の港には、普通釣りをする人がいるくらいだ。だが彼は釣竿は持っていないようだった。ジーパンにパーカーという簡単な服に、大きなスポーツバッグを肩にかけ、港に佇んでいた。遠巻きにしか見えないが、どこか表情が暗い。何か思い詰めたように遠い目をする彼の表情は、湊がこれまで見たこともない顔だった。
(あれ、誰だろ……島に渡る人なのかな?)
その港にいるということは、定期船を待っているということ。彼が島の人ではないことはすぐに分かった。かといって、旅行者とも思えない。何しろ彼くらいの年の男性が好きそうな施設なんてないからだ。そんな彼の姿は、湊にとって、まさに未知の存在だった。
やがて定期船が港に着く。乗り込んだ湊は、密かに視線だけを後ろに送った。やはりその少年は、定期船に乗り込んでいた。
船に揺られながら、湊は少年の方に度々視線を送る。時折彼と目が合うが、その度に顔を逸らしていた。
いつもなら定期船の操舵手の男性と雑談をするのだが、知らない少年がいるためか、会話もなく船は進む。心なしか、操舵手の男性もやり辛そうにしていた。
表情に影を落とす少年と、無垢に不思議そうな顔をする少女。
二人を乗せた船は、海を渡る。
その先にある島は、どこか寂しげに夕焼け色に染まっていた。