序
それは夜深い時間だった。夜の底にある室内では、まるで獣のような視線を放つ彼がいた。電気も付けずに立つ彼の手には鈍く光る包丁が……それを見つめながら、彼はそれまでの毎日を振り返っていた。目を閉じれば思い返すのは、苦痛以外の何物でもない日々だった。
(……よし)
静かに一人決意を固めると、彼は廊下を歩き出した。静まり返った室内に、床が軋む音がやけに大きく聞こえた。外から車が通る音がする度に、彼の体は小さく震える。鼓動の音は激しく、息も荒い。その音で奴が目覚めないかという漠然とした不安もあった。神経質なほど、彼は音を最小限に抑えながら歩いていく。
やがて、彼は一つの襖の前に立った。それまで片手で力なく持っていた包丁を胸の前に移動させ、先程とは違い力強く両手で持ち替える。刃先は小刻みに震えている。――いや、震えているのは彼の手……それも違う。彼の体全体が震えていた。油断すれば口からは歯が当たる音が出る。彼は必死に口を閉じ、音が出ないようにしていた。
震える手を一本外し、襖に手をかける。ゆっくりと引けば、擦れる音を出しながら襖は開かれた。
中は暗闇に包まれている。彼の耳には、自分の心臓の鼓動だけが大きく響いていた。俄然大きくなる息を飲み込み、彼は部屋に脚を踏み入れる。
その部屋は空き缶や食べかすが散乱し、卑猥な本も無造作に広げられ放置されていた。部屋の中心には布団が引かれ、そこには大イビキをかきながら眠る中年の男性。顔は仄かに赤く染まり、吐く息には酒臭が漂う。白いTシャツは腹部が大きく収縮していて、よほど熟睡してるようだ。だが、どうも眠りが深すぎるとも思える。それもそうだろう。その日の酒に、彼は睡眠薬を入れていた。ちょっとやそっとでは起きるはずもない。
男性の眠る姿を見た彼の胸には、数多くの思い出が甦る。一度目を閉じると、吐き気を覚える程、彼の心は黒く染まった。
(父さん……)
一度ぶれ始めた決意は、奮い立たせた心で再び硬く、そして重く持ち直した。 気が付けば、彼の吐息は凄まじい程に荒れていたが、もはや彼はそれに気付けない。
そして目を開くと同時に、彼は手にした包丁を逆手にして力強く握り締め、熟睡する男性のすぐ横に移動する。
彼は男性を見下した。もはや、彼の心に迷いはなかった。
そして、静寂と鼾が入り交じる中、彼は勢いよく包丁を振りかざした―――