第3話 復讐の宴
湿った洞窟の冷気が、レオンの荒い息遣いと混じり合う。泥にまみれ、かつての輝かしい黄金の加護を完全に失い、ただの無力な男へと成り下がったレオンが、狂乱の形相で叫んだ。
「貴様……! エリスを、俺の愛するエリスを、その汚らわしい手で犯しやがって!!」
それは、自らの傲慢さが招いた破滅を認められず、かといって現実から逃れることもできぬ、あまりにも滑稽な「被害者」の断末魔だった。
自分の不徳によって加護を失い、すべてを失ったというのに、彼は未だに、エリスを自分だけの所有物だと錯覚している。
その根底にあるのは愛情ではない。ただの執着、あるいは自分という虚像を支えるための「持ち物」への固執に過ぎない。
「愛? レオン、勘違いするな。お前が彼女に与えていたのは愛じゃない。支配という名の鎖だ。お前の加護という毒で彼女の心を取り込み、自分を崇めさせることだけが、お前の目的だったんだろう?」
俺はエリスを背後に庇うように立ち、レオンの剣先――かつて神聖な光を放っていた聖剣は、今や錆びつき、刃こぼれして折れかかっている聖剣を見据えた。
エリスは俺の背後で、ただ虚ろな瞳のまま呼吸を繰り返している。彼女の心はすでに、かつて勇者として君臨したレオンに対する恐怖と、俺が夜な夜な怨撃によって植え付けた、抗いがたい支配の楔によって塗りつぶされていた。
「だまれ、だまれ、だまれ! この泥棒め! 貴様のような下劣な武闘家に、高潔なエリスは渡さん!……もし、俺の手でこれ以上エリスを汚せぬというのなら、せめて地獄の道連れにしてやるッ!!」
レオンが獣のように吠えた。もはや理性など欠片もない。彼はかつての輝きを失った眼差しで、ただ純粋な殺意をエリスへと向ける。
幼馴染として笑い合い、肩を並べて戦場を駆け抜けたあの頃の面影は、どこを探しても見当たらない。そこにあるのは、どこまでも情けない、自分の思い通りにならない現実への醜悪な憎悪だけだ。
「やめろぉぉぉッ!」
レオンがエリスの首元に指をかけ、引き裂こうと突進した。
その瞬間――。
俺の脳内から、すべての感情が削ぎ落とされた。ただ、淡々とした殺意だけが研ぎ澄まされる。
俺は躊躇わず、音速を超える速度で右拳を叩き込んだ。
――パァァァン!!
乾いた破裂音が、遅れて地下の空間に響き渡る。レオンの身体が空中に舞い上がるよりも早く、俺の指先が彼の生命線に触れる。怨撃の力が、彼の肉体と精神の繋がりを内側から崩壊させていく。
「が、は……っ!?」
レオンが目を見開く。致命的な一撃を一度で与えるような甘い真似はしない。俺は彼の肩と肘、膝の関節を力任せに極め、地面に無様に這いつくばらせた。
かつて王都の人々から喝采を浴び、民衆の頂点に立っていた勇者の姿は、今の彼には微塵も感じられない。そこにいるのは、踏みつければ簡単に潰れる、ただの醜い虫けらに過ぎない。
「エリス、見ていろ。これが、お前が愛した英雄の最期だ。よく目に焼き付けておけ」
俺はエリスの顔を強制的に持ち上げ、レオンの方へ向けさせた。尊厳など、とっくに彼自身の手で踏み砕かれている。俺は容赦なく、レオンの顔面を拳で何度も、何度も踏みつけた。
鼻が折れ、歯が砕け、彼の勇者としてのアイデンティティが、洞窟の泥の中に、取り返しのつかない形で埋まっていく。
「や、やめ……ゼノ……っ、レオン……ッ!」
エリスが悲鳴を上げる。しかし、それは助命嘆願ではない。かつて彼女が追い求めていた、強くて輝かしい偶像が、あまりにも無様に泥にまみれ、破壊されていく様を目撃したことによる、精神的な瓦解の産声だ。
「お前がエリスを殺そうとした瞬間、お前の存在価値はゼロになったんだ。勇者? 神の加護? 笑わせるな。俺の拳の前では、そんなものはただの紙切れ同然だ」
俺は力なく地を這うレオンの首を掴み、そのまま空中に持ち上げた。彼の視界がかすみ、呼吸が断絶の音を立てる。
かつてのエリスとの思い出が、走馬灯のように頭をよぎったことだろう。だが、それはもう、俺という「侵略者」によって全て塗り替えられ、汚された記憶に過ぎない。
俺の怨念で色濃く染まった彼の思い出は、彼を安らぎへと導くのではなく、さらなる絶望の深淵へと突き落とすための毒だ。
俺は拳に最後の一撃を込めた。
これまで積もりに積もった憤怒、屈辱、そして愛した者への裏切り、そのすべてをこの一点に凝縮させる。
「せめて、最期くらいは惨めな雑魚として死んでくれよ。それが、俺たちの幼馴染としての最後の情けだ」
轟音と共に、レオンの肉体は物理的に、そして概念的に霧散した。
――パァァァァァン!!
尊厳などという立派な言葉さえ不要なほどの、完全なる蹂躙。そこに残ったのは、舞い上がる惨めな埃と、洞窟を支配する冷え切った沈黙だけだった。
俺はゆっくりと振り返り、震えながらその場にへたり込んでいるエリスの前に膝をついた。彼女の瞳には、死んだレオンの影はもうない。
ただ、彼を殺した俺への、異常なまでの服従と執着だけが、昏く澱んでいた。
「終わったぞ、エリス。……もう誰にも邪魔されない。誰も、お前を連れ去ることはできない」
俺は彼女の冷たい頬に手を触れる。彼女は震えながらも、俺の手のひらに頬をすり寄せた。
レオンという呪縛が消え去った世界。俺たちの前には、何もない荒野が広がっている。だが、それは俺にとっては自由なキャンバスだった。
「さあ、これから二人で、新しい世界を作ろうか。……この地獄の底から、俺たちだけの楽園をな」
復讐の宴は終わったが俺の執着は、まだ終わらない。エリスを完全に俺のものにし、この歪んだ世界そのものを俺の手の中に収めるまで、俺の戦いは続いていく。
俺は立ち上がり、エリスの手を取った。
振り返ることなく、俺たちはダンジョンの深淵から歩み去る。その足音だけが、虚ろな通路に寂しく、そして力強く響き渡っていた。




