消えた音 消えた令嬢
ひたり、ひたり、足音を立てないように歩く。
もし家族の耳に届けば物が飛んでくる。呼吸もできるだけ抑えて、ゆっくり吸って慎重に吐き出す。
「耳障りよ!」
「穀潰しがっ!」
使用人の誰かに気づかれても同じこと。私が屋敷の中で音を立てれば、すぐに家族に報告されてしまう。
言葉をぶつけられるのはマシな方だ。痛みは怖い。
私も家族のはずだったのに。もう大分前から、妹とは扱いが違うのだとわかっていた。
屋根裏部屋の前には僅かな食事が置かれる。日によって届かない日もある。
暗くなり屋敷の皆が寝た頃に、音を抑えながら厨房へ向かう。運が良ければ残り物のパンや野菜の切れ端にありつける。
空腹よりも、喉の渇きが堪える。
乾いた唇は乾燥で裂けた。
手に抱えた桶は、家族が部屋に入って来た時は隠している。
前のは壊されてしまった。もう一つあって助かったけれど、これも壊されたら水が飲めない。
そうっと厨房に忍び込む。今夜も誰にも見つからずに糧を得ることができそうだ。水を蛇口から時間をかけて桶に入れる。廃棄される前のパンが三つもあった。二つを肩に掛けた布袋に入れて、一つに齧りつく。
空腹感が息を吹き返した。咀嚼音を立てないように、少しずつ噛みしめて飲み込む。足音が聞こえてこないか、廊下に意識を向けておく。
重くなった桶を扉の前に置いて、厨房前の廊下を窺う。
人気はない。桶をしっかり持って、布袋は体に巻き付けるように脇で挟む。
ひたり、ひたり、足音を抑えて、息を殺して屋根裏部屋に戻った。
今夜も誰にも気づかれなかった。桶を隠し場所に置いたら、体の力が抜けた。
窓の下に横たわるふわふわの塊に頭をくっつけて眠る。手触りの良いしっぽが肩を包むようにおりてきて温かい。そのまま意識は黒く沈んだ。
バアーンッ! 扉が壊れるほどの勢いで開けられ、妹が部屋に入り込んできた。
私が音を立てないように慎重に開く扉を雑に開けても、妹は叱られない。
天窓から光が差し込んでいる。朝か、明るいので昼に近いかもしれない。
「今日、婚約者が来る予定がなくなったの。仕方ないからあんたと遊んであげるわ」
片手を腰に当て口を歪めて笑う妹は、私より背が高い。おそらく力も私より強い。重い物だって平気で投げつけてくるから。
妹は、父が躾だと言って使っていた鞭を右手に持っている。あれで「お前が悪い、妹と比べて可愛くない」「この穀潰しがっ!」と罵りながら打たれた。
母は止めてくれなかった。手を出すこともない。「近付かないでちょうだい」「私の前で音を立てないで!耳障りよ!」
ただ口にするだけだった。
「お父様の、なんで……?」
「はあ?何言ってんだか聞こえないわよ」
言葉と一緒に鞭が動くが、私のところまで届かない。
「何よ!フンッ!フンッ!」
何度も振るうが使いなれていないので、うまくコントロールできないのだろう。鞭は床を叩くばかりだった。
痛い思いを覚悟していたので、ほっとして詰めていた息を吐き出してしまった。
「ふっ……」
「何笑ってんのよっ!」
そんな小さな音を聞きとがめられると思っていなかった。私は思いもよらない衝撃に崩れ落ちた。
「あんたが悪いんだから!」
急に近づいた妹に強く押されたのだ。壁にぶつかったのだと理解したのは、彼女が出て行った後だった。扉は開け放たれたままになっている。
やっといなくなった……安堵したら視界が暗転した。
ひたり、ひたり、と音がしない。
気をつけてはいたけど、いつの間にこんなに音を消すのが上手くなったんだろう。
樽を持って、そろり、そろりと部屋に移動する。今夜はちゃぷんっと水音がしない。
部屋に戻って、ふわふわの塊に頭をつけて眠りに落ちた。
両親が二人揃って出掛けたのを見た後、放置された家具を足場によじ登り、天窓を開けてみた。僅かな隙間から風が入る。もう少し、もう少しと、腕を伸ばして隙間を広げていく。
高い位置にあるから、窓を開けても意外と気づかれないのかもしれない。
思いきって、全部開けた。
サワサワ……風が木の葉を揺する音がする。日中部屋から出られない私は、その音を聞いていた。
出られない……でも両親がいない今なら出ても怒られない?
音を消すのが上達した私は、気配も上手に消して下の階に降りてみた。
使用人の声や足音が聞こえたら柱の影に隠れる。足を運び慣れた厨房に着いた。
コトコト、トンットンットンッ、ザバァッ……これが昼の厨房の音なんだ。
人が何人もいる。厨房を通りすぎて廊下を進む。誰にも気付かれなかった。
妹が庭で何かを飲んでいるのが窓から見えた。目の前に座っているのが婚約者、かな?
その場に留まって、じっと外の様子に見入る。
「前回は急な用事で来られなくなり、すまなかった」
「いいえ、気にしていませんわ。寂しかったけど、部屋でおとなしく刺繍をしながら心を慰めていたの」
嘘つき。私の部屋に来て鞭を振り回してたくせに。おとなしく、なんて嘘。心がどす黒く染まる。
「今日はお詫びがしたくて。何か欲しいものや、希望はないだろうか?」
「まあ、そんなこと……でもせっかくなので、バラ園に二人で行ってみたいわ」
「そうか。都合がいいのはいつかな?」
「今日すぐにでも行きたいわ」
相手の令息は快諾した。妹は帽子と日傘を用意させると、令息に手をとられ出掛けていった。
友人達は皆、婚約者とバラ園でデートしたことがあるのに自分だけ行ったことがないと、鬱憤をぶつけられたことがある。あの時は置き物を投げられて肩に当たった。
痛かった……。空腹は誤魔化せば忘れられたが、痛みは忘れられない。
カップが並んでいたテーブルが片付けられ、庭に誰もいなくなった。
今なら、外へ出られる?
玄関ホールからそっと片足を出してみる。誰にも咎められない。もう片方も踏み出す。一歩、二歩。誰も見てない。二人が座っていた場所に立ってみる。
何の感情も湧かなかった。
そのまま裏手に回ると大木にブランコがぶら下がっていた。錆びた金具に左手を伸ばす。
妹はこれで遊んだのかな?私は見たことがない。妹が遊ぶ姿なんて知らない。
金具の先に取り付けられた座面を見る。
私はここに座ったこと、あったのかな。
疑問に思いながら、木の板に腰掛ける。
幼い頃、妹が生まれる前は家族とふつうに話していた気がする。小さな頃は、遊んでもらったこともあるのかもしれない。
ギーコ、キーコ……ギーコ、キーコ……錆び付いた金具の擦れる音が響いた。
使用人の誰かに気づかれる? 不安が頭をよぎったけど、やめられなかった。
もし見つかったら逃げよう!
半ば捨て鉢な気分でブランコの音を聞いていたが、誰も裏庭に来ることはなかった。
ブランコから離れて庭を一周してみた。花壇の花を眺めたり、屋敷の中を散歩したりと気の向くままに進む。
自分は音を消すのが上手くなって、いよいよ誰にも気づかれなかったと思うと何だか愉快な気分になった。
屋根裏部屋が自分の部屋になってから、初めてそんな風に感じた。
今日はたくさん歩いたな。
窓の下に寝そべるふわふわの黒い塊が、月明かりで銀色に見えた。寄り添うように頭を置いて、目を閉じる。今夜もしっぽがくるん、と肩に優しく触れて包みこんだ。
しっぽの下には塞がっていない傷がある。時々、熱を持ったようにズキズキと痛む。しっぽに包まれている間は痛みが和らぐ気がした。
また全員出かけてくれないかな、と機会を待っていたらおかしなことになった。
早朝、門の外が騒がしくなり、大勢の人が屋敷に押し入ってきた。私はただ屋根裏部屋の窓から見ている。
―――ううん、窓からだけじゃない。
私は、騒ぎが起きてから屋敷の中を見て回った。縄をかけられる両親と妹、連れ出される使用人の姿を見て屋根裏部屋に戻ってきたのだ。
屋根裏部屋にもたくさん人がやって来て、隅の方まで何かを捜しているようだった。
隠していた桶はすぐ見つかって持って行かれてしまった。
私は、私は……足音も気配も心音も消えたまま。誰にも気づかれずにここにいた。
壁際で体を折り曲げて眠っている私にも。
誰も目を向けなかった。
「ようやく気付いたか」
屋根裏部屋にいたのは、私だけではなかった。
天窓の下に寝転んでいたふわふわの塊が黒い靄に覆われる。靄が晴れると黒衣をまとった人に似た形に変わっていた。
手には、鈍く光る柄の長い大鎌がある。
あなた、神……さま?
「神は神でも、死神と呼ばれている」
そう答えて、大鎌とは反対の手で頭をなでられた。
あぁ…………そうだった。
なでられた……気がするだけ。感覚も既になくなってたんだ。
水を飲んでパンを齧ったのは、生きていた時のことを記憶の中で追体験していただけ。
壁際の体を見る。
私がそこにいるのに、さっきまでいた人達は誰も気にしなかった。
「人には見つけられないようにしていた。……知らない奴に触られるのは嫌じゃないか?」
こくこくとうなづく。もう戻れないけど、勝手に触られるのは嫌だ。
「しばらくは私が預かろう」
横たわる私の体を黒い靄が覆い、全体に広がると消えた。壁の前には何も残っていない。
妹がこの部屋に来た日から何日経っただろう。もう私の姿を見られることがないんだと思うとほっとした。
壁から視線を外し、死神さまに向ける。
どうして、今まで待っていてくれたの?
「すぐに連れて行ってもよかったんだが……自覚のないままだと、ここに悔いを置いて逝きそうだったからな」
人型の死神さまは首を傾げて答えてくれた。
「お前がどうするのか興味が湧いた。復讐するなら少し手を貸そうかと思ったんだが」
必要なかったな、と。門から連れ出される家族だった人達を見下ろして、死神さまは言った。
私、生きてる時からあなたが見えてたよ?
「魂の残り時間が僅かになった時、稀に見える者がいるようだ」
そうだったんだ。
迷子の獣だと思い込んでいた。
「私と一緒にいくか?」
もう少しだけ、ここにいてもいい?
「ああ、いてもいい」
屋敷の中に人はいなくなった。
たまに入ってきて、紙に何か書きつけて出て行く人はいる。あれは、調査官だと教えてもらった。
******
「あの御屋敷にはご令嬢は二人いたはずなんです。商売柄、そういう情報には敏感ですから。納品の時に、珍しく高い階の窓が開いているのが見えたんです。風向きが変わって、そこから腐臭がしてきて」
街の警備隊詰所でそう話した男は顔をしかめた。
「その日は、家人は皆様出払っておられると使用人に聞いたんですよ。それなのに門の手前で庭の方からブランコを漕いでいるような、金属が擦れる音が聞こえたんです。ゾッと寒気がしましてね、すぐに門から出ました」
男は片手で腕をさすりながら続ける。
「帰宅してからも妙に気になりまして、今日こちらに来たわけなんです。いや、考えすぎかと思ったんですが。ご令嬢が二人いるのに、ご衣装や装飾品などのお品はいつも一人分でいいと仰るから、何か変だと前から思っていたもので……」
とある商人が町の詰所に情報提供したのが発端だった。
不審な点があると判断され、調査隊がすぐに組まれた。屋敷に出入りする者を中心に、多くの証言が集められる。
やがて屋敷内の捜索が行われた。屋根裏部屋の痕跡と屋敷内の書類から、この家の長女が軟禁され虐げられていたことが明るみになった。
肝心の令嬢の姿はない。集まった証言から、満足な食事を摂れず、外に伝手も持っていなかった彼女が自力で逃げ出した可能性は極めて低いと判断された。
令嬢の家族はその場で捕縛。使用人にも聴取が行われ、消えた令嬢の行方を厳しく追求されている。
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半月ほど、屋敷を一人で見て回り、飽きたら眠ることを繰り返した。
死神さまは時折姿を見せるが、日中はいないことが多い。夜は戻ってきてふわふわなしっぽを貸してくれた。
最初はね、妹より可愛くないって言われたの。
「ん?」
何でそうなったのかは、わからない。私の部屋がなくなって、この部屋が私がいるところになって。お腹が空いて水も欲しくて、夜にご飯がある所を探したの。それで、気づいたら窓の下に死神さまがいた。
「そうか……」
あのね、しっぽの料金はいくら?
「は?料金?」
いつも貸してくれるから。
「しっぽの貸し賃か、それはいいな。払ってもらおう」
死神さまは破顔して私の頭をなでた。
なんで頭をなでるの?触られてもわからないのに。
「頭をなでられた、ってお前の記憶には残るだろう。触感をなくしても心はそこにある」
心臓を指さされた。音をなくした心臓を。
「私のところで働いてもらう。しっぽの貸出し料金分な」
最初から、お仕事させようとしてた?
「いいや、いつも通りの死神業務だ。魂を回収して輪廻に送って転生させてやるつもりだったが、しっぽの貸しができてたみたいだからな。気が変わった」
私は生まれ変わる機会を失ったみたいだ。でも別にいい。
転生しても、また屋根裏部屋で暮らす生活かもしれないし。それより、ふわふわなしっぽに触れる方がいい。
「偏った考え方も変えていかないとな」
死神さまは、また頭に手を伸ばす。
前より時間をかけて、なでられた。
無人の屋敷を抜け出した私は、死神さまに手を引かれて新しい世界に足を踏み出す。私の仕事は死神さまのお手伝いをすることだ。
ふわふわなしっぽは毎晩そばで、傷の痛みを薄くしてくれた。
優しいしっぽを手放せない私は、永遠に貸し賃がなくならない罠に気づくけれど……。それはまた、未来の話だ。
end
読んでいただいた皆様、ありがとうございます。




