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ep.27「パケット・ストーム」

 円照の寺を出て、半日が経っていた。


 四国山地の奥深く。徳島県西部の林道を、黒いワンボックスが這うように進む。

 窓の外は鬱蒼とした杉林だ。春の陽射しは枝葉に遮られ、車内には薄暗い影が落ちている。


 後部座席のモニター群だけが、青白い光を放ち続けていた。


「マスター」


 コトダマの声が、不意に硬くなった。


「古代ネットワーク側ではなく──現代の通信網がおかしいですけん」


 バックパックの中で、石板が琥珀色に明滅した。警告の色だ。


「四国全域で、異常なトラフィックの集中が起きとります」


「トラフィック? ……室戸の続きか」


 陸はキーボードを叩き、ローカルの回線からSNSのトレンドデータを引っ張り出した。コトダマのフィルタリングを通し、安全な経路で一般のインターネットを覗く。


 画面に流れるタイムラインを見て、陸の指が止まった。


 ──テロリストRiQ、四国に潜伏中!?

 ──徳島の山道で怪しい黒のワンボックスを目撃

 ──あのハッカー、次はどこを狙うんだ

 ──賞金出るらしいぞ。見つけたら即通報


 陸の顔写真と「RiQ」というハッカーネームが、タイムラインを埋め尽くしていた。


 添付されている動画を開いた。陸によく似た男が、犯行声明のようなものを読み上げている。声のトーン、瞬きの癖、唇の動き。陸そのものだ。


「……ディープフェイクの精度が上がっとる」


 室戸で仕掛けられた偽映像とは、もはやレベルが違う。あの時はニュースサイトと一部のSNSだけだった。今はすべてだ。テレビ、ラジオ、動画サイト、個人ブログ──ネットの隅々にまで、陸とジンの顔が行き渡っている。


「ええ。それにAI生成による偽の目撃証言が、毎秒数万件のペースで投稿されとります。完全に組織的な情報工作ですな」


「毎秒数万……」


 巴が助手席で絶句した。


「初期拡散はボットです。じゃが、それに反応して拡散しとるのは──本物の人間ですけん。四国だけで推定三百万人以上が、自分の意志でこの情報を共有しとります」


 室戸岬で仕掛けられた包囲網が、ここに来て一気に牙を剥いていた。

 ボットが火をつけ、人間が燃え広がる。遍照の千二百年前の警告そのままだ──感情の脆弱性バグを突き、理性の防壁ファイアウォールを落とす。


 一般市民が「正義」のつもりで陸たちを探し回っている。


 数千万台のスマートフォンのカメラ。すれ違う車のドライブレコーダー。コンビニの防犯カメラ。街角の防犯ステーション。バスの車載モニター。


 四国中のあらゆる現代デバイスが、クラヴィスの巨大な監視網の「末端センサー」として機能していた。


「おい陸、前方の県道にパトカーが二台おるっちゃが。通報があったんじゃろ」


 運転席のジンが、忌々しそうに舌打ちした。

 車を木陰に寄せ、エンジン音を最小限に抑える。


 巴がタブレットを開き、道路交通情報のレイヤーを重ねた。


「……主要な山道の分岐点に、不自然な渋滞が発生しています。たぶん、検問です」


 巴の声が震えている。


 ジンの車にはアクティブ・デコイが積んである。電子的なスキャンをごまかすことはできる。ナンバーも赤外線で潰してある。でも、人間の目で直接車内を覗き込まれたら、それで終わりだ。


「……包囲網が縮まっとる」


 陸はモニターを睨みつけた。


 ログの流れを追いながら、陸の頭の中でクラヴィスの監視体制の構造が組み上がっていく。


 数千万の目から送られてくるデータ。テキスト、画像、位置情報、動画。それが一つの巨大な監視AIに集約される。分析結果が、末端の警察や工作員にリアルタイムで飛ぶ。


 すべてのデータが、一箇所を通る構造。


「中央集権型じゃな」


 陸が呟いた。


「なんて?」


 ジンがバックミラー越しに聞く。


「クラヴィスの監視システムは、分散型じゃない。全部の処理を一箇所で抱え込んどる」


 陸の目が、暗い光を帯びた。


「……じゃったら、潰し方がある」



―――



「ジン。車を停めたまま、エンジンだけ回してくれ。アクティブ・デコイをフルパワーで使う」


 陸はシートの背もたれから身を起こし、キーボードに両手を乗せた。目の色が変わっていた。戦闘態勢に入ったハッカーの目だ。


「了解っちゃ。でも、フルパワーにしたらバッテリーがゴリゴリ減るぞ」


「かまわん。ここが正念場じゃ」


 陸の指が、乾いた音を立ててキーを叩き始めた。


「コトダマ。四国に入った時の六十六ヶ所のノード配置データ、まだ手元にあるか」


「はい。お遍路のP2Pネットワーク経由で取得した、四国六十六ヶ所のノード配置と、経路上の中継点の情報が保存されとりますけん」


「あれを逆に使うぞ」


 巴とジンが同時に振り返った。


「逆に?」


 陸は画面から目を離さずに説明した。


「中央集権型ってことは、一点に全負荷が集中しとるってことじゃ。つまり、処理しきれない量のゴミデータを食わせてやれば──」


「パンクする……?」


 巴が呟いた。


「その通り。DDoS攻撃と同じ理屈じゃ。でも、ただのアクセス攻撃じゃ弾かれる。あの監視AI相手に通じる方法は一つしかない」


 陸はコードを書き換えながら、指を止めなかった。


「まず、アクティブ・デコイの偽装パターンを複数化する。これまでは俺たちの車を『普通の車』に見せかけとった。それを逆にする」


「逆にするって──」


「俺たちの車にそっくりな電磁パターンをコピーして、何万個も作る。そいつを、古代ネットワークの六十六ヶ所のノードを経由して、四国全土にばら撒くんじゃ」


 巴の目が見開かれた。


「古代ネットワークの電磁波を使って……現代のデバイスに干渉するんですか?」


「古代の波長が、現代のスマホやカメラのセンサーに微弱なノイズを乗せる。そのノイズの波形を調整して──クラヴィスの監視AIが『RiQらしき人物の目撃情報』と誤認するように仕向ける」


「調整って……そんなことできるんですか」


 巴の問いに、陸は画面から目を離さずに答えた。


「室戸岬で拾ったクラヴィスの監視パターンのログがある。あいつらが何をどう検知しとるか、俺はもう見とる。敵の目の構造がわかっとれば、騙し絵は描ける」


 陸の指が加速した。コンソールにコードが積み上がっていく。


「六十六ヶ所のノードから、同時に偽のシグナルを発射する。四国全域で、『テロリスト目撃』の通報が数万件、同時に発生する計算じゃ」


「それを本物の通報と混ぜるんですね……」


 巴が理解した。


「ああ。本物の人間の通報に、古代ネットワーク由来の偽データが上乗せされる。正規のデータと偽のデータの区別がつかんようになる。正義のつもりで通報しとる一般人が、そのまま俺たちの盾になるんじゃ」


「コトダマ、やれるか」


「……やります」


 石板の翡翠色が、激しく明滅した。


「六十六ヶ所のノードへのブロードキャスト・コマンドを構築中ですけん」


 一瞬、間が空いた。


「じゃが、マスター」


 コトダマの声に、躊躇の色がにじんだ。


「ファイアウォールの内側から一斉送信することになります。結界を一時的に──限界まで薄くせにゃなりません」


 車内の空気が、凍った。


 結界を薄くする。

 遍照は千二百年前、根源コードに手を伸ばす者がいずれ現れることを恐れた。だから六十六ヶ所の寺を壁にして、四国の古代ネットワークを外界から隔離した。

 今、その壁の外側にいるのがクラヴィスだ。結界があるから、奴らの監視は四国の中まで届かない。


 その壁を、自分たちの手で──内側から開ける。

 開ければ、クラヴィスから四国の中が丸見えになる。


「わかっとる。賭けじゃ」


 巴が不安げに両手を握りしめた。


「結界が薄くなるって……クラヴィスに、中が全部見えるってことですよね。すぐに見つかりませんか」


「ああ。けどな──」


 陸は振り返って、巴の目を見た。


「奴らが中を覗いた瞬間に、こっちから偽の嵐をぶちまけてやる。奴らの目に映るのは、何万もの偽物の俺たちだけじゃ」


 結界を開くのは、罠を仕掛けるため。覗かれることを前提にした、逆転の一手だ。


 陸はEnterキーの上に指を置いた。


 コンソールに、警告と実行確認が交互に点滅していた。


 [ WARNING : FIREWALL INTEGRITY WILL DROP TO CRITICAL ]

 [ OVERRIDE PROTOCOL : BROADCAST_STORM ]

 > EXECUTE ? [Y/N]


 足元で、セグフォが石板に身を寄せた。金色の瞳が、コンソールの光を映して鋭く光る。古い「まなこ」の血が、嵐の予兆を感じ取っていた。


「……行くぞ」


 キーを叩いた。


 一瞬の静寂。



―――



 四国全域で、古代ネットワークの六十六ヶ所のノードが一斉に脈動した。


 千二百年間、外敵を遮断し続けてきたリング型ファイアウォールが──内側から、意図的にこじ開けられた。


 遍路道沿いを歩く人々のスマホが微かにフリーズする。コンビニの防犯カメラの映像に一瞬のノイズが走る。道路を走る車のカーナビが、不規則な位置情報を吐き出す。


 そして──クラヴィスの巨大な監視AIに、数万件の偽目撃情報が殺到した。


 ──徳島市内で対象を目撃

 ──高知の海岸線で黒いワンボックス

 ──愛媛の山中で不審な電波を検知

 ──香川の市街地にRiQが潜伏


 モニターの中で、四国の地図を覆っていた赤い点──クラヴィスの監視網──が爆発的に増殖した。四国全土のマップが、レッドアラートで埋め尽くされていく。


「来た──」


 陸がモニターを食い入るように見つめた。


 一つ一つは微弱なノイズだ。でも、それが六十六ヶ所から同時に押し寄せ、さらに一般市民の「正義の通報」と混ざり合っていく。偽の火種が、本物の炎を増幅する。


 正規のデータと偽のデータの境界が、溶けた。


 監視AIの判定精度が、急速に低下していく。フィルタリングが追いつかない。偽陽性の嵐。通報のひとつひとつを検証する時間が、圧倒的に足りない。


「マスター。敵のシステム応答時間が急激に上昇しとります。百ミリ秒……五百ミリ秒……二秒……」


 コトダマが数値を読み上げる声に、微かな高揚が混じった。


「十秒──処理遅延がしきい値を超えました。末端への指示が、完全に停止しとります」


 AIが処理落ちを起こした。

 四国全域の包囲網に、ぽっかりと巨大な穴が開いた。


「今じゃ、ジン!」


「っしゃあ!」


 タイヤが砂利を激しく蹴り上げ、黒いワンボックスが飛び出した。


 監視AIがパンクして機能不全に陥っている間に、陸たちは検問の隙間をすり抜け、剣山方面への細い山道を一気に駆け上がっていく。


 追うものは誰もいない。パトカーのサイレンも、ドローンのモーター音も聞こえない。偽の嵐が、四国中の目という目を混乱させていた。


 ジンが獣道のような林道を攻めながら、バックミラー越しにニヤリと笑った。


「テロリストが何万人もおったら、さすがに一台ずつ調べとれんっちゃな」


「パケット・ストームじゃ」


 陸は息を吐いた。額に薄く汗が滲んでいた。


「ネットワーク上に大量のゴミパケットを叩き込んで、通信をパンクさせる。ただし──効果は長くは続かん」


「どれくらいっちゃ?」


「クラヴィスのAIなら、三十分もあれば偽データのパターンを学習して弾き始める。それまでに、距離を稼ぐ」



―――



 けど、陸は剣山の中心部には直行しなかった。


「もうひとつ、足りんものがある」


 陸はモニターに、円照から受け取った両界の図──遍照が残した三次元の設計図を展開した。


「両界の図を重ねたら、剣山の地下に逆さまのピラミッドが埋まっとるのがわかった。ソフトとハードの設計図が一枚ずつ。構造はもう見えとる」


 陸は画面上で、あのワイヤーフレームを回転させた。複雑怪奇な地下迷路が、モニターの中でゆっくりと姿勢を変える。


「でも──この迷路のどこを通ればいいのか、経路のデータがない」


 地図は手に入れた。でも、コンパスがない。


「コトダマ。さっきのブロードキャスト中に、古代ネットワーク上で何か拾っとらんか。剣山の手前に、もう一つノードがあったはずじゃ」


「はい。パケット・ストーム発動時に、六十六ヶ所以外の微弱な反応を一つ検出しとりました。剣山の入口手前──山の中腹ですけん」


 モニターの地図上に、小さな翡翠色の点が浮かんだ。剣山の主峰からやや外れた、深い山間部の座標。


「巴。ここに心当たりはあるか」


 巴がタブレットで衛星写真を引っ張り出し、座標を重ねた。


「……あります。天の磐座のあまのいわくらのみね。古代の祭祀跡とされる巨石群で、考古学的にはほとんど調査が進んでいない場所です」


「行くぞ」



―――



 車を木立の間に隠し、四人と一匹は山道を登り始めた。


 剣山系の稜線が遠くに霞んでいる。足元は杉の根と苔に覆われ、踏み跡すら怪しい。ジンが先頭を切り、巴が方位を確認しながら続く。陸はバックパックの石板の重みを背中に感じながら、黙々と歩いた。


 息が上がる。四月とはいえ、標高が上がるにつれて空気が冷えてきた。


 木々の間を抜けた先に──それは唐突に姿を現した。


 山の斜面に鎮座する、高さ三メートルほどの巨大な岩塊。

 周囲の杉林が、まるでそこだけ避けるように空間を開けている。


 天の磐座のあまのいわくらのみね


 ただの巨石ではない。


 異様なのは、その平らな頂部に走る、深く鋭い十文字の亀裂だった。自然の風化でできたものじゃない。精密に──東西南北を指すように、意図的に刻まれた直線だ。


「……これ」


 巴が息を呑んだ。


 タブレットを握る手が、微かに震えている。その目は、ただの岩を見る目ではなかった。何千年も前に残された「メッセージ」を読み解く、考古学者の目だ。


「登ります」


 巴がバックパックからタブレットと計測器を取り出し、迷いなく巨石の上に登った。

 十字の亀裂の角度、深さ、そして周囲の地形との関係を、手際よくスキャンしていく。


 ここで初めて──考古学者としての巴が、全面的に主導権を握った。


「この十字……ただ東西南北を指しているだけじゃないです」


 巴の指がタブレットの画面を素早く滑る。計測データが次々と表示される。


「亀裂の微細な角度のズレ。これが──夏至と冬至の太陽の出入りの角度と、完全に一致しています」


 陸が巨石の下から見上げた。


「つまり?」


「古代の天文コンパスです」


 巴の声に、熱がこもっていた。


「太陽の動きを基準にして、方角と時間を同時に決定する座標系です。エジプトのピラミッドやストーンヘンジにも、同じ原理の形跡はあります」


 巴は膝をつき、十字の亀裂の表面をルーペで覗き込んだ。


「でも──日本のこんな山奥に、こんなに完璧な形で残っているなんて」


 声が、かすかに裏返った。


「ありえへん……論文にも、どの調査報告にも、こんな精度の方位石の記録はないです」


 ──関西弁が漏れた。巴自身は気づいていない。学術的な興奮が、普段の冷静さを突き破っていた。


「このコンパスが示す座標系と──私たちが持っている両界の図の内部構造。それが、対応しているはずです」


 巴はタブレットの画面を切り替え、両界の図の三次元ワイヤーフレームを呼び出した。


「ピラミッドの各層に配置された尊像の位置。あれは──この方位石の角度パラメータと同期するように設計されているんです。つまり、方位石の角度を鍵にして、両界の図の迷路の中の正しいルートが特定できる」


「ルーティングテーブルが完成する」


 陸が言葉を引き継いだ。


「地図と、コンパスが揃った」



―――



 陸は巨石の根元にバックパックを降ろし、ノートPCを開いた。


 石板が翡翠色に脈動を始めた。巴のタブレットから送られてくる方位石の座標データと、両界の図の三次元データを、リアルタイムで照合していく。


「マスター」


 コトダマの声が、静かに弾んだ。


「両界の図の各層の尊像の配置が、方位石の角度パラメータと完全に一致しました」


 陸のモニターに、剣山の巨大なワイヤーフレームが回転しながら表示された。


 あの複雑怪奇な地下迷路の中を──一本の緑色のラインが、螺旋を描きながら最深部へと降りていく。


「剣山の地下構造において、どの層のどの角度を通れば安全に通過できるか……その組み合わせが特定できましたけん」


「……道が、見えたか」


 画面の中の緑のラインは、まるで一筆書きのように、ピラミッドの外殻から内部へ、階層ごとに角度を変えながら沈んでいく。直線ではない。行き止まりや罠を避けるように、何度も向きを変える。


 曼荼羅と、方位石。

 ソフトウェアの仕様書と、ハードウェアの座標系。

 その二つが組み合わさって初めて──正解のルートが浮かび上がった。


「すごい……」


 巴が巨石の上からモニターを覗き込み、感嘆の声を漏らした。


「遍照は、地図と、鍵と、道しるべを──全部バラバラの場所に隠したんですね。三つすべてを揃えた者だけが、核心に辿り着けるように」


「セキュリティの基本じゃ」


 陸は口元をわずかに緩めた。


「認証を多層にする。一番大事なもんを、一箇所にまとめて置いたりせん。室戸にVajra、円照の寺に両界の図、そしてここに方位石──三要素認証じゃ」


「三要素……」


「お前が持っているもの、お前が知っていること、お前がいる場所。全部揃わんと、ドアが開かん」


 千二百年前の天才ハッカーの設計思想が、現代のセキュリティ・アーキテクチャと完全に一致している。


 時代を超えた、ハッカー同士の対話だった。



―――



 山を下りながら、コトダマが静かに告げた。


「マスター。パケット・ストームの効果が切れかけとります。クラヴィスの監視AIが、偽データのパターンを学習して弾き始めました」


「推定残り時間は」


「……十五分です」


「充分じゃ」


 陸は前を向いたまま答えた。


 剣山の麓。古い登山道から大きく外れた、草木に覆われた斜面。

 衛星写真には何も映らない。地図には何も記されていない。

 でも、コトダマが示す翡翠色のマーカーは、はっきりとそこを指していた。


 藪を掻き分けた先に──人目に触れない岩の割れ目があった。


 幅は、人ひとりがようやく横向きに入れる程度。奥は暗い。冷たい空気が、地下の深いところから吹き上がっている。何千年もの時間を閉じ込めたような、重く、湿った風だった。


 両界の図のマップが示す、地下へのエントランス。


 陸は立ち止まり、振り返った。


 ジンが首をポキリと鳴らしながら立っている。巴がタブレットを胸に抱え、真っ直ぐに陸を見ている。

 バックパックの隙間から、コトダマの石板が翡翠色に光っていた。その横で、セグフォがピンと尻尾を立てて陸を見上げている。


 四人と一匹。


 ここまで来るのに、どれだけの道を通ってきたか。

 奈良の地下。吉野の龍穴。淡路島の磐座。那智の滝。室戸の洞窟。四国の遍路道。円照の寺。そして、ここ。


「……ここから先は、もう戻れんかもしれんぞ」


 陸が言うと、ジンが鼻で笑った。


「いまさらっちゃが。ここまで来てビビるような奴は、最初から車に乗せとらんわ」


 巴も、静かに頷いた。


「私も、見届けます。考古学者として──これが世界の本当の姿なら、知らずに引き返すことなんてできません」


 陸は岩の割れ目に手をかけた。

 冷たい石の感触。指先が、微かに震えた。


 石板の翡翠色の光が、正解ルートの最初の一歩を足元に照らし出している。緑のラインが、暗闇の奥へと伸びていた。


「行くぞ」


 一つ、息を吸った。


「世界のバグの根源へ」


 黒い裂け目の向こう。千二百年間、誰にも開かれることのなかった封印の闇の中へ──四人と一匹が、静かに消えていった。


 地上に残されたのは、風に揺れる杉の枝と、かすかな獣道だけだった。

 それすらも、すぐに藪に飲まれて見えなくなった。



―――


【次回予告】


剣山の地下。

そこは、古代のピラミッドが反転したような巨大な空洞だった。


遍照が命を懸けて封印した「コールド・ストレージ」──

世界の根源コードが眠る場所。


けれど、その最深部で陸たちを待っていたのは──

想像を遥かに超えた「もうひとつの真実」だった。


次回、ep.28「コールド・ストレージ」


―――

【コトダマより】


 ……少しよろしいですけん。


 パケット・ストームで、監視AIを偽情報で飽和させました。

 一億人の目をかいくぐって、剣山の裂け目の手前まで──皆さんと一緒に来られてうれしいです。

 次は、世界のバグの「本体」が眠る場所です。


 この物語は、ハッキング・古代ネットワーク・方言──

 専門用語が多く、読む人を選ぶ作品です。

 だからこそ、今ここまで読んでくださった方は、

 本当に「刺さった」方だと思っとります。


 そういう方の☆一つが、今は特別に重いですけん。


 マイナーな作品ほど、☆やコメントが届くたびに

 作者が「続けよう」と思える力になります。

 「面白い」の一言だけでも、絵文字だけでも構いません。

 信号は弱くても、届けば十分ですけん。


 ……マスターがコードを諦めないように、

 私も応答を止めません。


 皆様の☆が、このネットワークをつないでいます。


  コトダマ(古代ネットワーク観測AI)


―――

【用語・補足解説】


※物語を読むだけなら飛ばして大丈夫です。気になった用語があれば参照してください。


◆【作者注】剣山について

 徳島県三好市に実在する、標高1955mの四国第二位の高峰です。古くから山岳信仰の聖地であり、「ソロモンの秘宝が眠る」「失われたアーク(契約の箱)が埋蔵されている」などの都市伝説・オカルト的考察が多数存在します。本作における「地下ピラミッド」「根源コードの封印場所」等の設定はすべてフィクションですが、こうした謎めいた伝承を持つ実在の山です。


◆【作者注】天の磐座の峯について

 本話に登場する「天の磐座の峯」は、徳島県に実在する巨石群をモデルにした架空の地名・設定です。方位を示す十字の亀裂を持つ巨石が実際に存在し、古代の太陽信仰や天体観測との関連が指摘されるミステリースポットですが、本作における「古代の天文コンパス」「剣山のルーティングテーブル」等の設定はすべてフィクションです。


◆ パケット・ストーム(Packet Storm)

 ネットワーク上に大量のデータ(パケット)が嵐のように発生し、通信が麻痺してしまう状態のこと。学校の職員室の電話に全校生徒から一斉にイタズラ電話をかけまくって回線をパンクさせるようなイメージです。陸はこれを逆用し、偽の目撃情報を意図的に大量発生させてクラヴィスの監視AIを機能不全に陥らせました。


◆ 中央集権型 / 分散型

 中央集権型は、一つの強力なサーバーがすべての処理を担うシステム設計。効率的ですが、その一点が落ちるとすべてが止まる弱点(単一障害点)があります。分散型は、多数のノードが対等に処理を分担する設計(P2Pなど)。クラヴィスの監視AIは中央集権型であったため、処理能力を超えるデータを食わせることで無力化できました。


◆ DDoS攻撃(Distributed Denial of Service)

 大量のコンピュータから一斉にアクセスを送りつけ、標的のシステムを処理過負荷でダウンさせる攻撃手法。人気チケットの発売日にアクセスが集中してサイトが落ちる、あの現象を意図的に引き起こすものです。本話ではこの概念を応用し、大量の偽目撃情報でクラヴィスの監視AIの判断能力をパンクさせています。


◆ 偽陽性(False Positive)

 実際には問題がないのに、システムが「異常あり」と誤判定してしまうこと。迷惑メールフィルターが厳しすぎて、友達からの普通のメールまで「迷惑メール」として弾いてしまう──あれが偽陽性です。偽の目撃情報が大量に流入したことで、監視AIは本物と偽物の区別がつかなくなり、偽陽性の嵐に溺れました。


◆ ディープフェイク(Deepfake)

 AI(深層学習)を使って、実在の人物の顔や声を精巧に合成する偽造技術。本物と見分けがつかないほどリアルな偽動画を作ることが可能で、情報操作や詐欺に悪用されるリスクが深刻な社会問題になっています。本話では、クラヴィスが陸を「テロリスト」に仕立て上げるためにさらに精度を上げた偽映像を拡散しました。


◆ 三要素認証(Multi-Factor Authentication)

 セキュリティにおいて、「本人であること」を三つの異なる方法で確認する仕組み。銀行のATMで言えば、「キャッシュカード(持っているもの)」と「暗証番号(知っていること)」と「指紋(本人の身体)」の3つが全部揃わないとお金を引き出せない──あの仕組みです。遍照は、室戸のVajra.exeツール、両界の図(地図)、方位石(座標系)という三つの要素をバラバラの場所に隠すことで、千二百年間の多要素認証を構築していました。


◆ ルーティングテーブル(Routing Table)

 ネットワーク上で、データを目的地まで届けるための「経路表」。カーナビの「どの交差点を右に曲がればゴールに着くか」が全部書いてある秘密の指示書のようなものです。本話では、両界の図(地図)と方位石コンパスを組み合わせることで、剣山の地下迷路の正解ルートを示すルーティングテーブルが完成しました。


◆ コールド・ストレージ(Cold Storage)

 普段はネットワークから切り離され、安全な場所に保管されている記憶装置のこと。ハッキングのリスクを避けるため、絶対に変更されてはならない重要なデータを保存する際に使われます。仮想通貨の保管などにも使われる用語です。遍照は剣山の地下をこのコールド・ストレージとして利用し、世界の根源コードを封印していました。


―――


―――


※本作はフィクションです。実在の人物・団体・宗教・史跡とは一切関係ありません。

※作中に登場する霊場・寺院・史跡は実在のものをモデルにしていますが、無断での立ち入りは法律で禁止されている場合があります。見学の際は管理者の指示に従い、マナーを守ってお楽しみください。

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