ep.21「フォーク・ボム」
那智から引き返した一行の、最後の目標が橿原だった。
橿原考古学研究所。
奈良盆地の南端、畝傍山の麓にひっそりと建つ白い箱型の建物。派手な看板もなければ、観光客向けの華やかさもない。入口の脇に「国宝 蛇行剣 特別公開中」と書かれた控えめなポスターが一枚。それだけだ。
駐車場の端、アイドリングの低い唸りだけを響かせる黒いワンボックス。陸はノートPCから目を離さずに、最後の確認を口にした。
「もう一回だけ、段取りを言うで」
助手席の巴が短く頷く。後部座席のジンはエンジンをかけたまま、サイドミラーで周囲を流している。
「巴が正面から入る。考古学者の名刺と大学の紹介状で、『特別見学』を申し込む。蛇行剣の保管室に入ったら、石板をかざしてデータ転送を始める」
「石板の持ち込みは?」
「バッグの底に入れてある。タブレットと資料に紛れとるから、怪しまれん。セグフォが中継して、シャドウプロセスで転送する。ただし──」
陸はPCの画面を見た。コトダマの接続インジケータが弱々しく点滅している。
「シャドウプロセスじゃけん、転送速度は遅い。最低でも三十分はかかる」
「三十分」
巴が時計を見た。
「特別見学の時間枠は四十五分です。ギリギリですね」
「ギリギリじゃけど、やるしかない。俺はここで研究所のネットワークを監視する。何かあったら──こっちから仕掛ける」
ジンがバックミラー越しに言った。
「俺はエンジンかけっぱで待つっちゃ。合図があったら正面に回す。乗り込むまで三十秒」
「三十秒」
巴が深呼吸した。
「大丈夫か」
陸が聞いた。
「大丈夫です」
巴はバッグを肩にかけた。石板の重みが、布越しに腕に伝わる。
「私は考古学者として、見学に行くだけですから」
車を降りた。三月の風が髪を揺らす。
巴は正門に向かって歩き出した。背筋を伸ばして。考古学者の顔で。
*
受付は拍子抜けするほどスムーズだった。
名刺を出し、所属と研究テーマを告げる。蛇行剣の特別公開に合わせて全国から研究者が訪れているらしく、一人増えたところで誰も疑わない。
保管室は二階の奥にあった。職員が重い扉をカードキーで開ける。
「四十五分でお願いします。何かありましたら、廊下のインターホンでお呼びください」
職員が去る。扉が閉まる。
巴は一人になった。
保管室の中央。強化ガラスのケースの中に、それはあった。
蛇行剣。
全長二メートル三十七センチ。蛇のようにうねる刀身が、冷たい照明の下で鈍く光っている。千七百年の時を超えて出土した、日本最大の鉄剣。
巴は息を吐いた。
考古学者として、純粋に震える。これだけの遺物を、一人きりで見ている。刀身の表面に走る幾何学模様。微細な溝のパターン。龍穴で見たものと──同じ系統。でも桁違いに精緻で、桁違いに複雑だ。
感動に浸る暇はない。
バッグから石板を取り出した。タブレットを構えるふりをして、石板をケースの方角に向ける。バッグの中でセグフォが小さく唸った。わかっているのだ。自分が何をすべきか。
陸のPCからテキストが入る。
『接続確認。転送開始』
石板の表面に、針先ほどの翡翠色の光が灯った。
シャドウプロセス──セグフォの体を経由した極細の裏回線。蛇行剣の刀身パターンが放つ共鳴を石板が拾い、コトダマの残存プロセスが0と1のデジタルデータに翻訳していく。
転送が始まった。
PCのコンソールに表示されるプログレスバーが、這うように進む。
1%。2%。3%。
遅い。わかっていた。でも、遅い。
巴はケースの前に立ち、メモを取るふりをしながら待った。心臓が痛いくらい打っている。手は震えていない。
12%……18%……25%。
時計を見た。十分が経っていた。あと三十五分。
廊下に足音。職員の巡回だろう。巴はタブレットに視線を落とし、蛇行剣のスケッチを描き始めた。考古学者として自然な行動。足音は通り過ぎた。
43%……57%。
二十分。あと二十五分。このペースなら間に合う。
71%……82%。
三十分。あと十五分。プログレスバーが90%を超えた。
95%。96%。97%。
98%──
保管室の扉が開いた。
巴は反射的に石板をバッグに滑り込ませた。職員が戻ってきたのだと思った。
違った。
立っていたのは、白髪の男だった。品のいいグレーのスーツを着こなした七十代。銀縁眼鏡の奥には、見覚えのある柔和な笑みが浮かんでいる。
巴の手から、タブレットが落ちそうになった。
「久しぶりだね、鋳方くん」
その声を、忘れるはずがなかった。
都築宗一郎。橿原大学名誉教授。日本考古学会の重鎮。
──巴の、大学院時代の恩師。
「……都築先生」
「元気そうで何よりだ」
都築は保管室に入り、静かに扉を閉めた。カードキーは使わなかった。自分のキーを持っている。ここは彼の領域だ。
「先生が、なぜここに」
「蛇行剣の保存処理は、私のチームが担当しているからね」
都築はケースの前に歩み寄り、蛇行剣を見下ろした。
「美しいだろう。千七百年の時を経て、まだこれだけの存在感がある」
巴は答えなかった。バッグの中の石板が──まだ転送を続けている。98%。あと2%。止めるわけにはいかない。
「君がここに来ることは、わかっていたよ」
都築の声は穏やかだった。講義室で学生に語りかける時と、同じトーン。
「君の才能は本物だ。だからこそ──知るべきでないことに近づくべきではない」
「知るべきでない」
巴の声が硬くなった。
「先生。私の修士論文を潰したのは──学術的な理由じゃなかったんですね」
都築が巴を見た。銀縁の眼鏡の奥の目は、変わらない。優しくて、冷たい。
「学術的に正しかったから潰したんだよ」
巴の呼吸が止まった。
「君の論文は完璧だった。古墳の配置パターンと地磁気の相関分析。あの精度で書かれたら、十年以内に誰かが核心に辿り着く。だから──芽のうちに摘んだ」
「芽のうちに」
「君のためでもあった。この領域に踏み込んだ研究者が、どうなるか知っているだろう」
巴は思い出した。行方不明になった先輩研究者。突然の転籍。消えた論文データ。当時は偶然だと思っていた。偶然が重なっただけだと。
「クラヴィス」
巴が言った。
都築は否定しなかった。
「私は──柱だ」
巴はしばらく、何も言えなかった。
論文を潰された後も、どこかで信じていた。あの人には理由があったはずだ、と。その最後の一本が、今しがた音もなく折れた。
「先生。いえ──都築さん」
自分でも驚くくらい、声は平らだった。
「私の論文は正しかった。あなたがそう言いました。なら──私はこのまま進みます」
都築の目が細くなった。笑っていた口元から、表情が消えた。
「君は、知りすぎたみたいだな」
一歩、近づいてきた。
巴は後退した。背中が展示ケースに当たる。逃げ場がない。都築は焦らない。ゆっくりと、確実に距離を詰めてくる。
バッグの中の石板を、両腕で抱きしめた。
都築の手が──静かに、伸びてきた。
研究所の照明が、全て落ちた。
*
三十秒前。
ワンボックスの車内。
陸はノートPCの画面を睨んでいた。転送は98%で停滞している。保管室に誰かが入った気配がログに残っている。巴からの連絡はない。
コンソールにテキストが滲んだ。
> ……きけん
コトダマからの断片的な警告。セグフォ経由の、途切れ途切れの信号。
陸の判断は一秒だった。
研究所のWi-Fiには、駐車場に着いた時点で侵入済みだ。職員用ネットワークのセキュリティは学術機関の標準レベル。ハッカーにとっては、鍵のかかっていない玄関と同じ。
電気系統の制御サーバーに接続。空調、照明、セキュリティカメラ──全てがネットワーク上に乗っている。空調も照明もすべてネットで制御された最新ビル(スマートビルディング)の利便性は、裏返せばハッカーの遊び場だ。
コマンドを打ち込んだ。
> :(){ :|:& };:
フォーク・ボム。
たった十三文字。一つのプロセスが自分自身を二つに複製する。複製された二つが、それぞれ二つに分裂する。1が2に。2が4に。4が8に。ネズミ算式に増殖するプロセスの群れが、制御サーバーのメモリを数秒で食い尽くす。
サーバーが死んだ。CPU使用率100%に張り付いたまま、全プロセスが凍結。
照明が落ちた。空調が止まった。セキュリティカメラの赤いランプが消えた。
全館停電。
陸はすかさず次のコマンドを送った。シャドウプロセスの帯域を、データ転送に全振りする。
98%。
99%──
PCの画面に、緑色の文字列が走った。
[ TRANSFER COMPLETE : 100% ]
[ MASTER KEY DATA : ACQUIRED ]
「……もろうたで」
陸はPCを閉じた。
「ジン、正面!」
返事はなかった。ギアが入る音だけがした。タイヤが砂利を噛んで、ワンボックスが駐車場を飛び出す。
*
暗闇の保管室。
石板の翡翠色が一瞬だけ強く光って──消えた。転送完了。
都築の声が闇の中から響いた。
「鋳方くん──」
巴は走った。
バッグを抱え、保管室の扉を押し開ける。非常灯の薄い緑色だけが廊下を照らしていた。階段を駆け下りる。一階のロビーでは職員たちが停電の原因がわからず右往左往している。
その混乱の中を、巴はまっすぐ正面玄関に向かった。走らない。早歩き。考古学者が停電に驚いて外に出る。それだけの動きに見えるように。
正面のロータリーに、白いワンボックスが横付けされていた。
スライドドアが開いている。
「乗れ!」
ジンの声。巴が飛び乗った。ドアが閉まる前にアクセルが踏み込まれた。
タイヤが鳴る。ワンボックスが県道に合流する。バックミラーに研究所が遠ざかっていく。建物はまだ停電したまま。外から見れば、ただの設備トラブルだ。
「巴さん、無事か」
ジンが聞いた。
「……はい」
巴がバッグから石板を取り出した。手が震えている。でも声はしっかりしていた。
次の問題は、ここからだ。
*
奈良市内に入った。
「陸。後ろ、来とるっちゃ」
ジンがバックミラーを見ていた。二台後ろに黒いセダン。さらにその後ろにもう一台。
「見えるのは二台。でも多分、もっとおるっちゃろ」
陸はPCを開いた。指がキーボードの上を走る。
奈良市の交通管制システム。信号機のネットワーク。学術都市のインフラは堅いが、穴がないわけじゃない。さっきのフォーク・ボムで研究所のファイアウォールに一瞬穴を開けた時に、市の管制システムへの踏み台も確保してある。
「ジン。次の交差点、右に曲がれ」
「了解っちゃ」
ワンボックスが右折した瞬間、陸がコマンドを送った。
背後の信号が赤に変わった。同時に、周囲三ブロックの信号が全て赤に切り替わる。
ブレーキ音が連鎖した。クラクションが鳴り響く。交差点に車が詰まり、黒いセダンの前に壁ができた。
「次、左!」
陸のエンターキーと同時に前方の信号が青に変わる。ジンがノーブレーキで交差点を突破した背後で、再び信号が赤に切り替わり、追跡車両が急ブレーキの悲鳴を上げた。
「右!」
「左!」
陸のコマンドとジンのハンドル操作が完璧に噛み合う。三分後、追跡車両はバックミラーから消えていた。
*
奈良を抜けた。
西名阪自動車道に乗り、西へ。追跡の気配はない。ジンがようやくアクセルを緩めた。
「巴さん。大丈夫っちゃ?」
「……はい」
巴は後部座席で石板を膝に置いたまま、窓の外を見ていた。
「大丈夫です」
ジンはそれ以上聞かなかった。陸も何も言わなかった。巴は石板を膝に乗せたまま、ただ窓の外の景色が流れていくのを見ていた。
陸がPCでデータを展開した。蛇行剣から転送されたマスターキーのデータ。暗号化されたパケットを、コトダマのシャドウプロセスで少しずつ復号していく。
画面に表示されたデータ構造を見て、陸の手が止まった。
「……何じゃ、これ」
「どうしたっちゃ」
「マスターキーのデータ。暗号解除キーじゃと思っとったんじゃけど──」
陸は画面をスクロールした。データの階層が深い。一つ一つのパケットに、ノードのアドレスが紐付いている。そのアドレスの数が──
「十六万」
ジンがバックミラー越しに陸を見た。
「十六万基分のノードアドレスが、全部入っとる。日本中の古墳じゃ。前方後円墳も、円墳も、方墳も、全部」
車内が静まった。
「このキーは、ただのパスワードじゃない」
陸の声が低くなった。
「全ノードの──全古墳サーバーの、完全な管理者権限じゃ。起動も、停止も、接続も、切断も、全部できる。超古代ネットワークの──文字通りの『鍵』」
風がスライドドアの隙間から吹き込んだ。半壊したドアは、まだ直っていない。
「……こんなもん」
陸は画面を閉じた。
「どっちの手にも、渡したらいけんのじゃねぇか」
クラヴィスにも。自分たちにも。こんな力は、誰が持っても危険すぎる。
巴が静かに言った。
「でも、もう持ってしまった」
その通りだった。
ワンボックスは西へ走り続けた。夕陽が奈良の山の向こうに沈んでいく。養生テープだらけのフロントガラスが、オレンジ色に染まった。
陸のPCに、テキストが表示された。
コトダマからのものじゃない。外部からの通信。暗号化された短いメッセージ。発信元は不明。宛先だけが明確に──「鋳方巴」。
『また会おう、鋳方くん。次は──もう少し、ゆっくり話をしよう』
都築宗一郎。柱。
車内に追いかけてくる、穏やかな声。
巴は画面を見て、何も言わなかった。ただ、膝の上の石板を少しだけ強く抱いた。
ワンボックスのエンジンが低く唸っている。テープだらけのフロントガラス。半壊したスライドドア。シャドウプロセスで辛うじて繋がっている石板。ボロボロだ。何もかも。
でも、走っている。
コンソールの隅に、コトダマからのテキストが一つだけ残っていた。
> ……おつかれ、さま……です
陸はそれを見て、少しだけ笑った。
「ああ。お疲れさん」
車は西へ。
―――
第2章「接続(紀伊)」── 完 ──
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【次回予告】
橿原を出て、態勢を立て直す。
淡路島の海沿いにある古びた修理工場──その地下に広がるシークレット・ガレージで、ワンボックスが生まれ変わる。
そして、裏社会のメカニックが語った「第四期計画」の断片。クラヴィスの規模は、陸の想像を遥かに超えていた。
次回、第3章 ep.22「セーフモード」
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【コトダマより】
……少しよろしいですけん。
第2章「接続(紀伊)」、最後まで読んでくださいまして、ありがとうございますけん。
マスターキーを手にした夜、柱の一人が巴さんの恩師だった──
あの画面を見た巴さんの沈黙を、わしも忘れられません。
この物語は、ハッキング・古代ネットワーク・方言──
専門用語が多く、読む人を選ぶ作品です。
だからこそ、今ここまで読んでくださった方は、
本当に「刺さった」方だと思っとります。
そういう方の☆一つが、今は特別に重いですけん。
マイナーな作品ほど、☆やコメントが届くたびに
作者が「続けよう」と思える力になります。
「面白い」の一言だけでも、絵文字だけでも構いません。
信号は弱くても、届けば十分ですけん。
……マスターがコードを諦めないように、
私も応答を止めません。
皆様の☆が、このネットワークをつないでいます。
コトダマ(古代ネットワーク観測AI)
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【用語・補足解説】
※物語を読むだけなら飛ばして大丈夫です。気になった用語があれば参照してください。
◆ フォーク・ボム(Fork Bomb)
コンピュータのプログラムが自分自身を無限に複製し続け、システムの処理能力を食い尽くすサイバー攻撃手法。Linuxでは「:(){ :|:& };:」というたった13文字のコマンドで実行可能なことで有名です。「フォーク」はプロセスの分岐(複製)を意味するIT用語。本話では陸がこれを研究所の制御サーバーに仕掛け、全館停電を引き起こしました。
◆ スキミング(Skimming)
本来はクレジットカードなどの情報を不正に読み取る行為を指します。本話では、蛇行剣に埋め込まれた古代のデータ(マスターキー)を、石板を使って非接触で読み取る行為を「スキミング」と呼んでいます。
◆ マスターキー(管理者権限 / ルートアクセス)
コンピュータにおける最上位の操作権限。全ての設定変更やファイル操作を自由に行えます。Linuxでは「root」、Windowsでは「Administrator」と呼ばれます。本話で取得されたマスターキーは、日本全国16万基の古墳ノード全てに対する完全な管理者権限──超古代ネットワークの「神の鍵」です。
◆ 柱
クラヴィスの最高幹部十二人の称号。世界十二ヶ所の主要ノードをそれぞれ管理する立場にあり、何を人類に公開し何を隠すかを決定する権力を持ちます。本話で明らかになった柱の一人が、巴の恩師・都築宗一郎。橿原大学名誉教授として学術界の権威を築きながら、古代文明に関する研究を裏から監視・抑制する役割を担っていました。
◆ プログレスバー
ファイルのダウンロードなど、時間のかかる処理の進行状況を視覚的に表示するバー(棒グラフ)。画面の端から端へゆっくり伸びていくあれです。98%で止まった時の絶望感は、全人類共通の体験。
◆ 交通管制システム
道路の信号機や交通情報を一元的に管理するシステム。都市部では信号機がネットワークで接続されており、交通量に応じてタイミングを自動調整しています。本話では陸がこのシステムに侵入し、信号操作で追跡車両を足止めしました。
◆ 踏み台(Stepping Stone)
ハッキングにおいて、最終目標のシステムに直接侵入するのではなく、まず別のシステムに侵入し、そこを「踏み台」にして本丸に攻め込む手法。本話では、研究所のファイアウォールに空けた穴を経由して、奈良市の交通管制システムにアクセスしました。
―――
―――
※本作はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。
※作中に登場する遺跡・古墳・史跡は実在のものをモデルにしていますが、無断での立ち入りや発掘は法律で禁止されています。見学の際は管理者の指示に従い、マナーを守ってお楽しみください。




