ヴァレリー・ジーン・ソラナスによろしく
大きな愛が人間を救うのと同じく、巨大な憎しみがヒトを虜にすることがある。
ヴァレリー・ジーン・ソラナスは今でも、世界で最も有名なミサンドリストだ。私は彼女の亡くなった後に生まれ、しかし彼女の信奉者たちによって語り継がれたヴァレリーの姿を未だに学ぶことができる。
彼女の周りにいる男は、ヴァレリーの言によればどいつもこいつもろくな男ではなかった。
性的虐待をはたらいた父、両親が離婚した後に母と再婚した男もろくな男ではなかったし、祖父はアルコール依存症の疑いがあった……等々。
彼女自身が統合失調症と診断された事を差し引いても、ヴァレリーの男性に対する憎しみは、その人生の根底にずっと火の河のように流れていて、その熱量は彼女を常に走らせ続けた。彼女のことをフェミニストであるという人もいるが、その対象が何であれ、悪の撃滅に躍起になることは思想ではなくてヘイトでしかない。良くてアートか。どちらにせよ社会の中にヴァレリーの言動を受け入れる余地というのは全く存在し得なかった。
だが、もしその言動をーーすなわち、憎しみに満ち満ちたような人生のすべてを、腑分けして何がしかの平等への希求を見出すことが出来るなら。それは意味があることだと思う。
面倒を乗り越えてでも、アンディ・ウォーホルへ放たれた弾丸の以前に、何か望むものがヴァレリーにあって、それが成らなかったことが憎しみの根源であったと言えるなら。
それはこの世に溢れる様々なヘイトを、無神経に封殺するのではなく、敵を殴って回る理論武装の鎧の上から、「それをするのはなぜ?」と訊ける土壌を育むと思うのだ。
尤もそんな余裕を保てる時間は人生の中でごく短い。そんな効率の悪いことをするくらいなら、ヴァレリーを犯罪者で根拠の無い憎しみに狂った病人と糾弾してしまうことのほうがはるかに労力は少なく済むだろう。だから無駄だと知りつつ、この筆を執る。傲慢な事を言っていいなら、これもまたアートだ。
ヴァレリー・ソラナスはこれもよく知られたことであるが、同性愛者だった。そして残っている写真からしてもかなり早い段階から、自身により男性的なジェンダーを志向していた。私が『Up your ass』の内容に触れたのは大学時代だったが、その戯曲は単に女性に訪れる悲劇……つまりは、セックスするならば挿入を受ける側であることの、明確な否定だった。未熟なティーンズ的な感性だと一蹴してしまったジェームズ・ハーディングの評価は、率直に言っていいなら、あまりに読む側の労力を厭っていると思う。
女性に生まれたならば、生理学的に、パートナーとのセックスは受け入れる側にならざるを得ない。その一点だけは絶対に、能動的な意志で変えること能わざる現実だ。いろんな手段があるでしょうという意見もあるとは思う。だが、実はその手段の先に自己の連続性はかなり乏しいのだ様々なアイテムは愛しあう肌の感覚を明確に伝えてはくれないし、手術での身体適合は必ずそこで自身の身体に対する認識の断絶を生む。
生まれた姿のまま、好きな相手と納得するかたちで触れ合いたい。それは誰もが望むことだが、ことヴァレリーの抱いた欲求と現実はあまりにも乖離しすぎていた。女性のままでは受け入れる側になるしかなく、ペニスがないがゆえにヴァレリーの望む愛情は生まれてから死ぬまで絶対に与えられなかったのである。
一応断っておくがヴァレリー・ソラナスは別にトランスジェンダーではない。そこがヴァレリーの常軌を逸した熱量の源泉であったろう。女性に生まれた自身に愛着があるにもかかわらず、自身の望むセックスは男性としてのそれであった。この乖離こそがヴァレリーの強烈なバイタリティほ根源であり、最後には彼女自身の心も破壊せしめた。
『Up your ass』に描かれたものは、社会へのメッセージではない。女に生まれながら男性としての性交を望むヴァレリー自身の、自棄っぱち混じりの絶望感だ。私はそれを子供じみているとは思わない。ないものねだりだとも思わない。そういう悲劇は数の多少はともあれ確かに存在し、むしろ少ないからこそ、正常な社会無限に無視され続ける。ヴァレリーはこう言いたかったのだ。ただ、「無視をしないで」と。
我々の生きる社会は、今のところ多様性を謳ってはいて、あらゆるジェンダー、あらゆる嗜好について真面目に考えている……ように見える。しかし実際には、その多様性のグラデーションを実現、維持できるほどの労力を絶対に捻出し得ない。女性として生まれたけれど性的には男性として誰かを愛したいことも、その逆も、あるいはここに書かれないあらゆる愛のかたちも、社会としていちいちそのことを真面目に考えるだけの余力を持たない。事によっては当事者すらも、自身の抱くものについて真面目に考えてなどいなかったりする。
ヴァレリー・ソラナスの一見無軌道な暴走は、実は単なるミサンドリーではない。生まれ持った欲求が本当の意味では満たされないことを、薄々察してしまったからの自棄っぱち混じりの絶望感だ。
彼女は復讐として、その絶望を公平に、世界の全てに与えてやろうと企てた。彼女の代表作となってしまった『男性根絶協会マニフェスト』とは、彼女が「全く真面目に考えたもの」と述べた通り、 自身と自身に対する社会の接し方の鏡写しなのだ。社会はヴァレリーを拒絶した。その特異性を決して真面目に捉えようとはしなかったし、ヴァレリーを受け容れてやれる容量がそも社会には存在しなかったのだ。だからヴァレリーは、男性の根絶などという突飛な内容を大真面目に書くしかなくなった。自分がされてきたことを証明するために。
さて、ではこの先、ヴァレリーのような人間を我々の社会は許容しうるのだろうか?結論から言えばそれは否だと思う。個人間の問題として、同じ痛みを抱える人間同士で共感しあうことはできるかも知れないが、それが限界だ。昔も今も、社会は一定の型の内側にいる人間しか考慮し得ない。すなわち、生産活動に従事でき、次世代を産み育てることができる人間のことしか、社会は本当の意味では考慮し得ない。
それでも、第二、第三のヴァレリー・ソラナスが生まれるとしたら?自ら生まれ持った性とは別のジェンダー、別のセックスを望む人間がこれからも生まれるとしたら?
その先は、これを言わねばならぬのは心底情けないことだと思うが、もう社会における配慮は諦め、個人間で解決するしかないのだ。
ネットスラングでわかりやすく言えば「棲み分け」だ。何のコンテンツであれ、他者の迷惑になる可能性があるならばそれを話す場所は選べとなるように、「生き方」や「ジェンダー」もまた、コンテンツ化して棲み分けするしかないのだ。
それは分断ではなくて、エチケット、公衆衛生に近い。公共の福祉が個人の権利を制限しうるように。
そして多数派の我々はせめてもの礼儀として、忘れないことだ。ヴァレリー・ソラナスを目の見えぬ場所に遠ざけていればこそ、私達は安心して社会で生きられる。そこに無辜の人など決していない。我々は全て、一人残らず、狭量の咎を負うべき出来損ないなのだ。




