霞さまとぼく2
穏やか日々が続くと思っていた。
だけど現実はそう甘くなかった。
まずぼくが中学3年生になったある日、父が入院した。症状は大した事なかったが、退院してから父さんは仕事を休みがちになり、ついには自主退職した。もちろん退職金などはもらえなかった。
母は働かなくなった父の代わりにパートを掛け持ちして昼夜問わず働き続けた。
ぼくは高校に進学して、すぐに学校に許可を得てアルバイトを始めた。
毎日が目まぐるしく過ぎていく中、ぼくと霞様の距離もだんだんと離れていって、霞様はとうとう姿を見せなくなった。見えなくなった、というほうが正しいかもしれない。霞様の言葉や行動が普通の人と同じように見えていたけど、声が聞こえなくなって、隣を歩いていてもふっと一瞬見えなくなったりして、そしてとうとう霞様はぼくの前から消えてしまった。
その頃家の中もめちゃくちゃで、洗濯機の中に入りっぱなしの洗濯物や、いつ食べたかわからないご飯粒がつきっぱなしの茶碗やお皿がそのままになっていた。母は仕事から帰ってきたらすぐ仮眠をとって、次の仕事に行く。父は一日中お酒を飲み、寝ている。
そんな中家事は誰がするのか。
答えは決まっている。ぼくだ。
勉強と家事とアルバイト。
ぼくの三年間はあっという間に終わってしまった。
そして、卒業式の日。
ぼくは前の日に自分でアイロン掛けした制服に身を包み、寝ている母を起こさないように静かに家を出た。父は起きていたかもしれない。
だけどもう話が通じないのだ。
だから2人に黙って家を出て、学校に向かった。
白い。
目を開けたら白くてぷにぷにした何かの中に閉じ込められていた。
ぷにぷにを押すと心地よい弾力で戻ってくる。
ぼくはなぜかこの得体の知れない物体の中に閉じ込められて、帯のようなもので拘束されながら宙に浮いていた。
『お目覚めですか?』
脳内に直接響き渡る男とも女とも判別し難い声。
『あっ、無理に声を出されなくて結構ですよ。まだ声帯の準備ができておりませんので。まずは内臓系統を確実に組み立ててからのオプションになりますからねぇ』
理解が追いつかないぼくを置いてけぼりにして、ぺらぺらしゃべる続ける声はこんな提案をしてした。
『で、セカンドライフの設計はなされてますか? こんな大人になりたい! とか親はこんな親がいい! とか』
••••••セカンドライフ?
なんだそれと顔をしかめてみると
『あー、もしかして順番待ちせずに特例でいらっしゃった方でしたか。はいはい、たまにいるんですよね。言い方は悪いんですけど順番抜かしというか』と勝手に納得してその声は話を続けた。
『端的にいいますと、あなたは死にました。おぼえていますか? ほとんどの人は記憶とんじゃってますからね、まぁ憶えてない方が大半です。で、だいたい次の世界線を生きるのにけっこう長い時間かかるんですけど、ごく稀に順番すっ飛ばしてきちゃう方がいらっしゃるんです。それをこちらでは順番抜かしといってます』
••••••死んだ? ぼくが?
ぼくは卒業式の日、家を出て学校に向かったんだ。それで?
ぼく、どうしたんだっけ。
君が代を歌っている自分、卒業証書を受け取る自分、たいして悲しくないけどみんなの真似をして泣いてるフリをする自分。
••••••なんでだろう。
どれもこれも他人から聞いた話のような違和感がある。
これは本当に自分が体験した記憶なんだろうか。
困惑している忍を横目に声は勝手に話を進めていく。
『で、あなたの行き先はもう決まってるんですね。これは決定事項です。決まってるが故の順番抜かしです。どなたかがあなたの人生をいじったんでしょうね、これ直すの大変なのわかってないとおもいます。一人の人生をいじると全部狂ってくるんですから。あれですあれあれ。めっっっっちゃボタンの多い服のボタンの掛け違いに最後の最後で気づいて一からやり直すくらい面倒で時間がかかるんです。残業代ほしいです。あなたからいってもらっていいですか?』
狂ったように早口になりながら説明を終わり、なにか質問は? と面倒くさそうに尋ねられた。
聞きたいことはたくさんあったのだけど、何もかも急すぎて事態が把握できない。
とりあえずわかったフリをして頷いた。
『はい、ではこれから二百八十日間ここで過ごしてください。おそらくここは不便はないとは思いますが、予期せぬ出来事があった場合我慢せず頭を下にしてぐいぐいっと穴を抜けてくださいねぇ。あ、けど早すぎるのは禁物ですよー。では次の方が待ってるので』
ぶつっと突然声が聞こえなくなって、それからの間ずっと無音だった。
たまに膜の向こうから音楽が聞こえてきたり、男女の蹴った蹴らない論争に巻き込まれたりしてゆったりとした日々を過ごした。
そしてぼくはそんな穏やかで満ち足りた時間を過ごすことで、忍という名前をすっかり忘れてしまった。
「しのーーん。こっちにおいで、父さんのところへおいで!」
真新しい靴を左右逆に履いて、よちよち歩きをしている男の子の前にいるのは、溌剌として元気に満ち溢れた男の人だ。
その人の後ろでは、日傘をさしてにこにことしている愛らしい顔の女の人もいる。
きっと3人家族なんだろう。
男の子はよちよち歩きのまま、もう少しのところでバランスを崩して顔から地面に倒れてしまった。
父親が慌てて近寄り、母親も日傘を放り投げてひらひらしたスカートが土に汚れるのも構わずに男の子を抱き起こした。
「紫音、紫音。大丈夫? お鼻赤くなっちゃったねぇ」
「紫音、よくここまで歩けたな。大したもんだ」
「••••••なにが大したもんだ、よ! ほら! みてよ! 紫音のお鼻真っ赤になっちゃったじゃない! 鼻が折れてたらどうしよう••••••」
「いやいや、ごめんって。褒めるほうが先かとおもってさ、お前いつも悪い方に考えすぎなんだよ。もっと気楽に考えろって••••••。いっ••••••痛い痛い!髪の毛引っ張るなよ!」
紫音と呼ばれた男の子は、不思議そうに言い合いに発展した二人を見つめた後、思い出したように大声を出して泣き出した。
そうだ、鼻から地面に着地して痛くないわけがない。痛いから泣いた。それでしか感情を表現できる術を持っていないからだ。
ぼろぼろと大粒の涙をこぼす紫音の隣ではおろおろする両親がいて、どこにでもいる家族のなんてことのない風景がそこに広がっていた。
次に目を開けるとその日は紫音の入園式だった。真剣な表情で一眼レフを構える父親からは、息子の晴れ姿を一瞬たりとも見逃したくはないという必死さで溢れていた。反面隣にいる淡い桜色の着物の母親は紫音をみて穏やかに微笑んでいる。こっそり手を振る母親の袖がひらひら舞う。
ひらひらを目で追っていると目が回ってきそうだ。
今度は初めての参観日。
父親は仕事らしい。
絵本のページをめくるように、家族の思い出が次から次へと脳に流れ込んでくる。
これはいったい何の映像だろう。こんな人たち知らないのに。他人の幸せを見せつけられている気がして少しだけ寂しくなった。
死ぬ(?)前は学生らしいことができずにいたけど、まあしょうがないよなって自分に言い聞かせていた。進学という選択肢は最初からなく、卒業したら三交代制の自動車工場への就職が決まっていたし、何より早く働いて稼ぎたかった。工場勤務は夜勤もあるし、高卒にしては給料が他の企業よりも高かったのが決め手だった。
幸せ、というなら呑気で過ごせていた中学生までだろう。毎日なにも考えずに生きていた。考えることはあったけど深刻な悩みではなく、掃いて捨てるほどどうでもいい悩みだった。
周りには優しい両親と、家を守ってくれる霞様がいた。
••••••霞様?
霞様っていったいなんだ?
なにを当然のように両親とその霞様を同列で扱う?
思い出そうと記憶の中を探るけど、探せば探すほど輪郭がぼやけてはっきりと像を結ばない映像ばかり再生される。
そのうちぼんやりと浮かんできた情景に、なぜか心が揺さぶられるような心地になる。
悲しいのか嬉しいのかわからない。ただ目頭が熱くなる。
ここはどこだろう。
縁側のある小さい部屋だ。
驚いたことにシャボン玉のような物体がそこかしこにプカプカ浮かんでいる。異様な光景だが、月明かりに照らされてどこか幻想的でもある。ここは本当にこの世なのだろうかという疑問さえ頭を横切った。
儚く奇妙で、それでいて狂気的な美しさ。
その世界の中心で聡明そうな男の子がひとり本を読んでいた。机に置いたスタンドライトの明かりは男の子の横顔に影を作っている。
この男の子はぼくだ。直感でぼくはその男の子を自分だと悟った。
『ぼく』は読んでいた本から顔を上げて無数のシャボン玉に向かって霞様と呼んだ。飴を口に含んでいるような甘く頼りない声。たぶん『ぼく』にとって霞様はそういう存在なのだ。際限なく全身全霊で縋れる存在。
フワフワ浮かんでいたシャボン玉が声に反応して一つにかたまり、人型になった。
その人型はとてつもなく冷淡で恐ろしいくらい目見麗しかった。
霞様と呼ばれた人型は、冷淡さを瞬時に捨てて柔和な笑みを浮かべ、振り向いた。
『なんじゃ? 忍よ』
忍って誰だ?
ぼくは、紫音だ。




