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婚約破棄を告げたのは、未来の私だった

作者: 全てAIが書きました。
掲載日:2025/10/06

 手紙は、朝靄がまだ窓硝子を曇らせている時間に届いた。

 王都の下町、石畳を濡らす露の匂いと、パン屋の焼き立ての香りが交じる。扉を叩いた郵便少年は、青い封筒を両手で抱えるように差し出した。


「書記官レオン・ハウエル様に。至急だそうです」


 封筒の差し口には薄く銀の糸が通してあり、印章は白百合。伯爵家の紋だ。僕は手の汗を拭い、窓辺で封を切った。


  レオンへ。

   どうか落ち着いて最後まで読んで。これは「未来からの手紙」です。

   一週間後の白百合祭の昼、鐘楼が倒れて——あなたはそこで命を落とす。

   原因は留め金の疲労と祭の火薬屋台の振動の重なり。

   止めようとするあなたは、群衆に押され、石段の根元で——

   回避の方法は二つ。

   一つ目は祭りに近づかないこと。

   二つ目は、今この時点で、私と婚約を破棄すること。

   婚約者の立場にあるあなたは、祭の来賓名簿に名を記され、鐘楼の奉納式に呼ばれてしまう。

   あなたを遠ざけるには、破棄が必要です。

   それでも信じられないなら、今日の昼、南門の市場で赤い林檎が三つ、積み上げた台から落ちます。

   そのうち一つは割れ、白い虫が見える。それは予兆にすぎません。

   信じるかどうかはあなたに委ねます。

   けれど——私は知っています。あなたは信じてしまうひとだということを。

   だって私は、あなたの婚約者、エミリア・アーデルで、

   しかもこれを書いている私は未来のエミリアだから。

   どうか、生きて。


 震えは、手紙を読み終えてから遅れてやって来た。

 馬鹿げている。だが、白百合の印章は本物で、文体は——彼女だ。読みながら、エミリアの声が頭の内側で再生される。少し早口で、息継ぎを忘れて、最後に言葉を飲み込む癖。


 昼、僕は南門へ行った。

 行かないという選択肢もあったのに、気づけば足が石畳を踏んでいた。市場はいつもの喧噪に満ち、干した魚の匂いと揚げ油の匂いが煮詰まっている。屋台の角で赤い林檎が三つ、ぴらりと光って積まれていた。店主が客に肩を叩かれ、身体を揺らした瞬間、三つが同時に転がり、ひとつが石に当たって割れ、白いものが——


「……嘘だろ」


 膝が少し笑った。

 帰り道、僕は上を見あげ、鐘楼の石肌を確かめる。白百合祭は王都最大の祭事で、鐘は朝から晩まで鳴り続ける。留め金の疲労、火薬屋台の振動。手紙の言葉が、現実のものとして肌に貼りつく。


 その夜、伯爵家のサロンでエミリアに会った。

 彼女は白いドレスに青いリボン、瞳は湖の色。僕を見つけると、猫のように小さく首を傾げる。


「レオン、顔色が悪いわ。書類の山に潰されたの?」


「いや。……エミリア、話がある」


 言いかけて、喉にトゲが刺さる。破棄という言葉は、口の中で鉄の味がした。

 手紙のことを話すべきか。だが、彼女が「未来の彼女」なら、今ここの彼女は何も知らない。

 僕の逡巡を読むように、エミリアはソファの隅に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。


「怖い顔。破棄、なんて言わないで」


「……どうしてそう思う?」


「わかるもの。あなたが真剣に何かを決めたとき、目の奥が固まるの。ねえ、レオン。理由があるのなら、聞かせて」


 僕は封筒を取り出し、彼女の前に差し出した。

 エミリアは静かに読み進め、三度、四度、指で紙の端を撫でた。最後の一行に目を留め、長く息を吐く。


「これ……私の字に、似ている」


「印章も本物だった。——林檎も、当たった」


「未来からの郵便なんて、伝説みたいなものよ。山の向こうの神殿に、時差の井戸があるって。願いと代償で、手紙が一度だけ過去に届くって」


「信じないのか」


「信じたいわ。だって、あなたが怖がってるもの」


 彼女は微笑んだけれど、その指先は白かった。

 沈黙が落ち、暖炉の薪がはぜる音だけが部屋を満たす。

 エミリアが顔を上げる。湖の色が揺れる。


「もし本当に、あなたが死ぬ未来があるのなら——私はどんな惨めな方法でも、避けたい。婚約破棄だって、泣きながらでも署名する。けれど、破棄しなくても回避できる道があるのなら、私はそっちを選ぶ。『一つ目』の方法。祭に近づかないこと。あなたが鐘楼から遠くにいれば、死なないのでしょう?」


「来賓名簿がある。僕の名前はすでに……」


「名簿を消せばいい。あなたは王城の文書庫にも出入りできる。私は父に話す。名簿からあなたの名前を外す理由なんて、いくらでも作れる」


「“いくらでも”の中に、破棄は入らないのか?」


 彼女は言葉を失い、唇を噛んだ。

 痛い質問をしているとわかっていた。

 手紙は言う——破棄しろ、と。

 彼女は言う——離れないで、と。


「……レオン。私、臆病なの。あなたを失うことと、あなたを手放すこと、両方が怖い」


「怖いのは同じだ」


 気づけば、指が彼女の手を探していた。暖かい。

 僕は息を飲み、決めた。


「名簿を処理する。鐘楼から遠ざかる。火薬屋台にも関わらない。可能な限り、手紙の“条件”を潰す。——それでも避けられないなら、そのときは破棄を選ぶ」


「約束して。危ないと思ったら、臆病でいて」


「約束する」


 その夜の帰り道、僕は文書庫に向かった。

 名簿は、白百合祭の来賓一覧。その二行目、伯爵令嬢の婚約者として、僕の名前が記されている。冷や汗を背に、僕は古い型の溶剤でインクを薄め、紙の繊維に紛れさせた。

 明朝の確認印が押される前にやらなければならない。指先の震えを押し殺し、蝋燭の火が短くなるたびに芯を切った。


 翌日、白百合広場では鐘の下見が行われ、工匠たちが留め金を叩き、検査役が筆を走らせた。

 僕は工匠長に匿名の告発状を渡した。「留め金の疲労の恐れあり」。さらに市場の親方に頼んで、火薬屋台を南側から北側の空地へ回すよう取り計らった。口止めの金は、僕の半年分の貯えを削った。


 夜、エミリアから短い便りが来た。


   よくやった、という言葉は軽い?

   でも、よくやった。臆病は勇気より難しい。

   明日、庭で会いましょう。紅茶と、甘いもの。泣く準備もする。


 祭の前日、庭の藤棚の下で、僕らは肩を並べた。

 小さな蜂が花に顔を突っ込み、帽子のつばに影が落ちる。エミリアはカップを見つめ、ぽつりと言った。


「もしも、未来のエミリアが本当にこれを書いたのだとしたら……彼女は、何を代償に払ったのかしら」


「代償?」


「時差の井戸に手紙を落とすには、何かを差し出す必要があるって。思い出とか、名前とか、大事な一日とか。彼女が何を失って、何を守ろうとしたのか、私は知りたい」


 僕は答えられなかった。

 問いは、胸の奥に沈んだ石のように、そこに居座り続けた。



 白百合祭の朝。

 王都は薄い花粉の匂いに満ち、鐘楼は白布で飾られていた。

 僕は約束通り、鐘楼から離れた。北側の空地で巡回に付き合い、火薬屋台の設置を見届ける。工匠たちは留め金を交換し、検査役は渋い顔で頷いた。


 昼。

 鐘が鳴り、鳩が飛び立つ。

 その瞬間、風が変わった。遠くで子どもが泣く。誰かが叫ぶ。

 ——白布が、剥がれるように落ちた。

 僕は顔を上げた。鐘楼の東側、石の継ぎ目に亀裂。新しい留め金は持ちこたえている。それでも、塔の足元に集まった群衆の渦は、恐怖の波で崩れ、南へ雪崩れる。

 その南へ——エミリアがいた。


「エミリア!」


 彼女は父に手を引かれ、護衛とともに移動していた。群衆の流れがぶつかり、護衛が押し戻される。屋台が倒れ、板が跳ね上がる。金具が弾け、音が空気を切り裂く。

 僕は駆けた。足が地面に触れるたび、石が遠のく。

 もし、僕がここで彼女を掴んだら、手紙と同じ場所に立つことになる。

 だけど、僕はもう、運命の書き文字に慣れてしまっていた。インクは薄められ、行が置き換えられ、余白に新しい文が挿しこまれる。そうやって書類は世界を書き換えられるのだ。ならば——


 僕はエミリアの背中に手を伸ばし、彼女を横へ押し倒すようにして抱きしめ、別の流れに身体を滑り込ませた。腹に重い衝撃。倒れた屋台の脚が脇腹を掠め、息が潰れる。

 視界の端で、鐘楼の石片が雨のように降った。だが塔は倒れない。新しい留め金は、生き延びた。


 静寂が、遅れてやって来る。

 僕は砂埃の中で咳き込み、彼女の肩を確かめた。震えているが、温かい。


「大丈夫か」


「レオン……! あなた、血が——」


「擦り傷だ。君は?」


「平気。平気よ……ありがとう」


 その時、背後で金属の軋み。

 逆方向で倒れかけた看板が、風に煽られて、こちらに。

 僕はとっさにエミリアを庇った。木の板が肩に打ちつけられ、世界が白く跳ねる。



 目を覚ました時、知らない天井があった——というのは嘘で、見慣れた伯爵家の客間の天蓋だった。

 肩には包帯。身体は鉛のように重い。窓は薄く開き、庭の藤の匂いがする。


「起きた?」


 椅子に座っていたエミリアが、立ち上がる。

 目の下に淡い影。けれど微笑みは真っ直ぐで、泣き笑いの線が綺麗だった。


「三日。三日眠っていたのよ、あなた」


「そんなに」


「ええ。お父様の怒りと心配と、医者の説教と、私の泣き腫らした目と、全部を通り抜けてくれて、ありがとう」


「鐘楼は」


「倒れなかった。工匠長が泣きながらあなたに感謝してた。名簿の件も、火薬屋台の件も、全部後からわかったらしいわ。どうしてそんなことができたのか、と父に詰められたけれど——私が言ったの。“臆病は勇気より難しい”って。あなたはそれを選んだ、と」


 胸の奥が熱くなる。

 僕はゆっくり起き上がり、彼女の手を取った。


「手紙は、正しかった」


「ええ。けれど、正しさは一つじゃないもの。あなたは破棄しなかった。それでも生きた」


 エミリアは少し視線を落とした。

 そして、引き出しから白い封筒を取り出す。見慣れた白百合の印章。中から、短い紙片が現れた。見覚えのある、彼女の字。


   追伸:もしレオンが生きていたなら、破棄の必要はない。

   でも、もし破棄が行われたなら——そのときは、婚約破棄証書の裏を見て。


 彼女は微笑んで、もう一枚、折りたたまれた紙を差し出した。

 婚約破棄証書。僕が眠っている間に、彼女はこれを用意していたのだ。署名欄は——空白。裏返す。

 そこに、走り書き。


   ——生き延びたら、もう一度あなたに求婚する私を、待っていて。

   エミリア


「未来の私がね、これを書いていたの」


 彼女は静かに言った。

 声は落ち着いているのに、小さく震えている。


「私、行ったの。山の向こうの神殿に。時差の井戸に手紙を落とした。代償に、ひとつだけ失ったの。“あなたと初めて踊った夜”の記憶。白百合祭の前夜会、湖畔であなたと踊った曲の名前も、あなたが踏み外して私のつま先を踏んだことも、全部、霧みたいに消えた。……あなたを助けられるなら、それでいいと思った。けれど、戻ってきた時、私は真っ青になったわ。私が手紙を出して破棄を求めたせいで、あなたが私から離れていく未来が、そこにあったから」


 僕は言葉を失った。

 喉の奥が熱い。

 彼女は続ける。


「だから、二通目を書いた。追伸。『生きていたら、破棄はいらない』って。もしそれでも破棄されてしまった時のために、裏側に、今の私の願いを書いた。あなたと、もう一度、ちゃんと始めたい。……レオン、ごめんなさい。私は臆病で勇気がなくて、それでいて欲張りなの。あなたを生かしたいし、あなたと一緒にいたい」


 その告白は、突き刺さるのではなく、そっと置かれた。

 僕は、笑った。ひどく不格好に。


「臆病で勇気がなくて欲張りな君は、たぶん世界で一番、勇敢だ」


「褒められているの……?」


「もちろん。だって、僕も同類だ」


 僕は枕元の引き出しを探り、紙とペンを取り出す。

 婚約破棄証書の表に「無効」の二文字を書き、裏の走り書きの隣に、丁寧に文字を並べる。


   ——はい。何度でも、求婚を受ける準備はできています。

   レオン


 エミリアは笑いながら泣いた。

 僕は彼女の涙を指で拭った。温かい。生きている。



 祭から一ヶ月後、前夜会の夜。

 湖畔には灯がたゆたい、遠くで練習の鐘が鳴っている。僕は彼女の手を取り、前へ出た。


「踊ろう」


「覚えている? 曲の名前」


「“月影のワルツ”。君は覚えていないかもしれない。でも、僕が覚えている」


「じゃあ、私のことも教えて。あのとき、私は何を言った?」


「“二歩目は、怖い”って。僕の靴の上に君の靴が乗って、君は笑って、でも少し泣きそうで」


「今もそう。二歩目は、怖い」


「でも、臆病は勇気より難しい。僕らはそれを選んだ」


 音楽が流れ出す。

 僕らは一歩進み、一歩戻り、回る。湖面に映る灯が揺れ、風が髪を撫でる。

 未来の彼女が失った記憶の穴は、今の僕らの足どりで少しずつ埋まっていく。

 いつか、その穴は形を変え、きっと新しい物語になる。破棄ではなく、繋ぎ直すための物語に。


 踊り終わって、彼女が言う。


「ねえ、レオン。もしまた未来が牙を剥いたら、どうする?」


「書き換える。行を薄め、余白に書き足す。君と一緒に」


「それでもどうにもならない時は?」


「そのときは——未来の私たちが、また手紙をくれるさ」


 エミリアが笑った。

 その笑みは、あの封筒の最後の一行と、同じ弧を描いていた。


 ——どうか、生きて。

 そして、何度でも、私に求婚して。


 僕は彼女の手を握り、頷いた。

 臆病で、勇敢な二人の、反転した誓いの夜だった。


(了)

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