剣豪(仮)
時は江戸中期。
天下泰平の世とはいえ、剣の道に生きる者にとってその研鑽に終わりはない。
今日まみえる二人の剣士は、まさにその頂に立つ者たちであった。
一人は「 剣聖 」と称される老境の達人、東雲幻舟
その剣はすでに神域に達し、呼吸するが如く自然にして、見る者をして畏敬の念を抱かせる。
無駄な動きは一切なく、ただそこに立つだけで周囲の空気が張り詰めるような存在感を放つ。
齢七十を過ぎ、その肉体には時間の痕跡が刻まれているものの、瞳の奥に宿る光は未だ衰えを知らぬ剣気の輝きだった。
対するは、「 剣鬼 」の異名をとる若き天才、藤堂宗次
齢三十に満たないにもかかわらず、その剣は理不尽なまでの速度と精度を誇り、数多の道場破りを成し遂げてきた。
彼の剣は、常識の範疇を超えた予測不能な軌跡を描き、対峙する者に悪夢を見せる。
その鋭い眼光は獲物を狙う猛禽のごとく、東雲幻舟を射抜かんと定まっていた。
場所は人里離れた山中の古刹。
静寂に包まれたその庭園は、まるで二人だけの舞台装置のようであった。
降り注ぐ木漏れ日が微かに舞う塵を照らし、張り詰めた空気を視覚的に演出している。
二人は約3.5間( 約6メートル )の距離を置いて相対していた。
互いに柄に手をかけ微動だにしない。
いや、微動だにできない――と言った方が正しいだろう。
この一瞬が何時間にも、あるいは永遠にも感じられるような――極限の静寂が空間を支配していた。
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最初に動いたのは東雲幻舟の目であった。
微かに――本当に微かに、その視線が藤堂宗次の右手の指先に向けられた。
その刹那、宗次の脳裏には幻舟の抜き打ちの一閃が鮮明に描かれた。
まるでスローモーションの映像を見るように、刀身が鞘を離れ切っ先が自身の喉元に迫る。
宗次は無意識のうちに喉に力を込める。
しかしそれはあくまで幻影。
幻舟の視線はすでに元の位置に戻っていた。
『 ・・・恐れ入った 』
宗次は心の内で呟いた。
幻舟は僅かな視線の動きだけで、宗次に対し、自身の最も得意とする技の残像を見せたのだ。
それは相手の意識の隙間に侵入し揺さぶりをかける――まさに達人の技であった。
宗次もまた応じるように、僅かに足の重心を移した。
その僅かな動きに、幻舟の五感は研ぎ澄まされる。
宗次の足の裏から伝わる微細な重心移動、足裏と地面の摩擦音、そして何よりも、宗次の『 気 』の動きを、幻舟は全身で感じ取ろうとする。
幻舟の脳内では、宗次が繰り出すであろう無数の斬撃が、立体的に――そして高速にシミュレートされる。
袈裟斬り、胴斬り、突き、逆袈裟・・・どの技がどのタイミングで繰り出されるのか。
幻舟はその全てに対応するべく、自身の身体と心を準備する。
時間がひたすらに流れていく。
しかしそれは決して退屈な時間ではなかった。
むしろ互いの意識がぶつかり合い火花を散らす――激烈な戦いが繰り広げられていた。
幻舟は自身の呼吸を極限まで深く、そして穏やかに保っていた。肺から吸い込まれる空気が、全身の細胞に行き渡り、研ぎ澄まされた感覚を一層鋭敏にする。彼の意識は、庭の鳥のさえずり、風が木々を揺らす音、遠くで聞こえる水の流れる音、その全てを取り込みながらも――中心は常に宗次に向けられていた。
宗次は、幻舟のあまりにも揺るぎない『 静 』の構えに焦燥を感じ始めていた。
彼の剣は、相手の隙を突き常識を破る速度で仕留めることを得意とする。しかし幻舟には、その隙が全く見当たらない。まるで、そこに存在する全てが完璧に調和しているかのように一点の曇りもない。
宗次は敢えて自身の気を高めた。
殺気――、と呼ぶにはあまりにも純粋な、相手を斬るという「 意思 」の奔流が、幻舟へと向かって放たれる。
しかし幻舟の身体は、その殺気をまるで風のように受け流す。
その淀みのない受け流し方に、宗次はさらに舌を巻く。
通常の剣士であれば、この殺気に萎縮するか、あるいは反射的に動いてしまうだろう。
しかし幻舟は、一切の動揺を見せない。
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幻舟の脳裏では、宗次の『 殺気 』が具体的な斬撃の形となって現れる。
それはまるで目に見えるかのように、宗次の周囲に無数の光の筋となって迸る。
幻舟はそれらの光の筋を、一つ一つ丁寧に目で追う。
その軌道、速度、そして到達点を瞬時に計算し、自身の刀で防ぐ、あるいは紙一重でかわすイメージを繰り返す。
宗次の剣は、幻舟の持つ古流の理合から逸脱した破格の斬撃を繰り出す。
しかし幻舟は、その破格の斬撃をも自身の長年の修練で培われた「 読み 」と「 予測 」によって、完全に捕捉していた。
『 この若者の剣はまるで奔流のようだ。しかしその奔流にも必ず源がある。その源を断てば、流れは止まる 』
幻舟は、宗次の剣の「 核 」を捉えようとしていた。
それは宗次の意識の深淵に潜む、彼が最も頼りとする技、あるいは思考の癖、あるいは彼自身の肉体的な限界、その全てを含んだ「 急所 」であった。
宗次もまた、幻舟の脳内で繰り広げられる自身の技の「 解体 」に気づいていた。
幻舟の静止した姿から放たれる――研ぎ澄まされた『 眼 』が、宗次の剣の全てを見透かそうとしていることを感じていた。
宗次はあえて奇策を試みた。
彼は刀を構えたまま、左手で帯を締める仕草をした。
その瞬間――、幻舟の意識は僅かに、本当に僅かに、その左手の動きに向けられた。
その刹那――、宗次はまるで爆発するかのような速度で腰を落とし、地を這うような抜き打ちの斬撃を放った!
それは剣道においてタブーとされる不意打ちにも近い奇襲であった。
しかし幻舟は、この奇襲を予期していたかのようにすでに柄を握りしめ、腰をわずかにひねっていた。
宗次の刀が、幻舟の足元をかすめ土を巻き上げていく。
その一瞬の間に、幻舟の切っ先は――すでに宗次の喉元に突きつけられていた。
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「 ――参りました 」
宗次は刀を下ろし、深々と頭を下げた。
幻舟もまた、静かに刀を鞘に納めた。
勝敗は、一合も交えずに決着がついた。
しかしその間に繰り広げられた戦いは、実際の斬り合いよりも遥かに濃密で、そして激烈なものであった。
互いの脳裏で、数多の斬撃と数多の防壁が激しくぶつかり合い、互いの精神力と読み合いが極限まで研ぎ澄まされた。
幻舟は、宗次の奇襲の動きの奥に潜む「 意図 」を読み取り、それに対する最善の対応を瞬時に導き出した。
それは長年の修練で培われた経験と、全てを悟るような境地からくる「 直感 」のなせる業であった。
宗次もまた、自身の最も得意とする奇襲が幻舟には全く通じないことを悟った。
彼の剣は常に相手の予測を上回り、その意表を突くことで優位を築いてきた。
しかし幻舟の剣は、その予測の範疇を遥かに超えていた。
「 素晴らしい剣だ、藤堂殿 」
東雲幻舟は静かに言った。その声には一切の感情の揺れがなく、ただ純粋な称賛の念だけが込められていた。
「 いえ、東雲先生の剣は、もはや人智を超えた領域にございます。私がおよばぬ―― 」
藤堂宗次は尊敬の念を込めて答えた。
彼の顔には敗北の悔しさよりも、新たな高みに触れた喜びが浮かんでいた。
互いの間に再び静寂が訪れる。
しかしその静寂は、もはや張り詰めたものではなく、清々しい空気で満たされていた。
二人の剣士は互いの剣の道に敬意を払い、そしてそれぞれの道をさらに深めていくことを、その静かな佇まいの中で誓い合うかのように――そこに立ち尽くしていた。