001.海の話
大陸からの留学生であるというそいつはいつも笑っていたので、銀茂はどうもそれが気に食わなかった。
しかし、銀茂以上にそいつを嫌悪していたであろう学友たちは、或る日酷くそいつを痛めつけたらしい。
学友たちに取り囲まれ、膝をついたそいつのわなないた唇から滴る赤い血を見て、銀茂ははっとした。
そして何だか酷くショックを受けて、銀茂はつい「君たち、やめ給えよ」と口を挟んだ。
銀茂は素行こそ不良であったが、成績優秀で、運動神経もよく、身体も大きかったので周囲から一目置かれる存在であった。
周囲は銀茂がそいつをよく思っていないだろうということを薄々勘付いていたようだったけれど、銀茂がそいつへのいじめ行為を咎めたことにより、少しばつが悪そうな顔をしつつもそれに応じた。
蜘蛛の子を散らしたように走り去っていく学友たちを尻目に、膝をついたままのそいつの肩に手を置き、大丈夫か、と銀茂は問うた。
そいつは何とも言い難い目で銀茂を見上げ、口元の血を拳でぐいと拭いながら「うん、ありがとう」と言った。
「ええと、何だ。貴様……シロ、オト……」
そいつの名前は確か白音郎と言ったが、フリガナが分からず銀茂は慌てる。
誰もそいつの名前を呼んだことを聞いたことがなかったからだ。
そんな銀茂に、そいつは少し笑みを浮かべながら「バヤランという名前なんだよ。白、音、郎と書いて、バヤラン」と答えた。
「バヤラン?珍奇な名だな」
「ああ。唐土の方の生まれでね。珍奇な名だろう、君らにとっては」
「ふうん。ひょっとして西藏とか、そこいらの辺の出身か?」
「うん、まあ。そうだね」
白音郎は親指の腹で唇を拭った。
男のくせに、白音郎の伏せがちな睫毛があまりに長く、銀茂は少しぎょっとする。
しかし、銀茂は頭を振ってそんな思いをかき消すかのように大きな声で言った。
「うーん、呼びにくい!なあ、貴様、これからはシロでいいだろう。俺の名にも銀がついていることだし、貴様はシロだ!銀と白で、よかろう」
なんてセンスがいいのだろう、俺って……と銀茂が悦に入っているのを見て、白音郎はクスクスと笑う。
「うん、いいよ。なんだっていいんだ、名前なんて」
「自分の名前に誇りがないのか、貴様は」
自分で言い出したくせに、銀茂はそんなことを言う。
失礼な銀茂にも、白音郎は笑っていた。
「別にどう呼ばれたって本質は変わらないんだから、いいんだよ。僕が僕であることには、変わりないんだから……」
白音郎はそう言って、膝をパンパンと払いながら恥ずかしそうに笑った。
「汚れちゃった」
それが、銀茂と白音郎が初めてまともに話をしたきっかけだった。
それから銀茂と白音郎は何故か仲良しになった。
仲良しというよりは、銀茂が不思議な庇護欲というか、こいつは俺が守ってやらないと、という、親分が子分を庇うような気持ちになったからである。
銀茂は、白音郎のことをちいと可笑しいと思っていた。
仕方あるまい、こいつは大陸の人間なのだ。
この島国の気風と会わなくったって、当たり前なのだ……。
だから、こいつがこの国に早く馴染めるように、この俺が導いてやらねばなるまい!と密かに決意していたのである。
銀茂と白音郎の奇妙な二人組に、周囲は気味悪がった。
全寮制の男子校であるこの学校に長く在籍したせいで、銀茂が男色趣味に走って女のような顔をした白音郎とデキてしまったのだ……という噂まで流れるほどだった。
もちろん、銀茂はそんな風聞を流布した輩を片っ端からシバき倒したので、噂の火はすぐに消し止められた。
白音郎はそんな噂を聞いて笑い転げていたが、銀茂は冗談じゃないわい、と怒り心頭であった。
「たしかに……シロ!貴様はナヨナヨしすぎだ。もう少し身体を鍛えたらどうだ?貴様が変にナヨナヨしすぎてるから、妙な噂が立つ!」
「僕が体を鍛えたところで、噂にならない道理はないよ。放っておけば、みんなすぐに飽きるさ」
白音郎はいつも、みんなとは違った。
白音郎は自分たちよりは年齢が上だという噂もあったので、そのせいかもしれない。
「銀茂は、いい人だね」
「ん?何をわかりきったことを今更」
「うん、そうだね。銀茂はいい人だ。わかりきったことさ」
白音郎はそれきりもう何も言わなかったので、自分への賛辞をもう少し聞いていたかった銀茂はちぇっと舌打ちした。
それでも、白音郎は笑っているだけだった。
ある日、銀茂はどうしても夜釣りに行きたかった。
聞くところによると、今スズキやメバルが大漁らしかったからである。
悪友たちに夜釣りに行かないかと持ちかけても、皆寮を抜け出してまで夜釣りに行きたい者はいないようだった。
「根性なしどもめ」
銀茂はすっかり拗ねてしまって、寮の自室の寝台で不貞寝していた。
そんな銀茂を見て、同室の学友が神妙な顔付きで言った。
「銀茂よォ、お前にはちゃぁーんと付き合ってくれる奴がいるじゃあないか」
「ン?」
「シロだよ!あいつ、お前の頼みを断った試しがないだろう」
「おおっ!妙案だな!」
銀茂はたちまち寝台から飛び起きて、いそいそと夜釣りの準備をし始めた。
そんな銀茂を見て、同室の学友ときたら「見回りが来たらちゃんと誤魔化しておいてやるから、君、俺にもちゃんと分け前をくれよ」とちゃっかりしているのであった。
銀茂は部屋の窓からこっそり抜け出して、二つ隣の部屋の窓をコンコンと叩いた。
白音郎は人数にあぶれて一人部屋だったので、口裏を合わせる同室の学友がいないということはなんとも気楽なものだった。
白音郎はカーテンを開いて、丸い目をして銀茂を見る。
すぐに窓を開いて、きみ、危ないよと銀茂に渋い顔をした。
「二階くらいから落ちたって捻挫くらいで済む!さぁ白音郎くん、君も早く準備をし給え」
銀茂は含み笑いをして、きょとんとしている白音郎を押しのけて一旦室内に入った。
「シロ、貴様は素行がいいから、夜中の見回りに遭ったことなんてなかろう」
「うん、ないね」
寝台のシーツをひっぺがし、引き出しの中から替えのシーツまで取り出している銀茂を見つめながら、白音郎はふつうに答えた。
「おい、今から夜釣りに行くから付き合え」
「ええ?今から?」
「アホ!夜釣りは夜に行くから夜釣りなのだ。放課後に釣りに行ったって夜釣りになんてなるか」
そういう意味で言ったんじゃないんだけど……という言葉は白音郎の口の中にとどまった。
銀茂には何を言っても無駄なのである。
銀茂は二階の窓から降りるためにシーツをつなぎ合わせてロープを作ろうとしているらしかった。
白音郎はフゥと少しだけため息をついたが、銀茂のしたいようにさせてやるのであった。
「まっ……ったく釣れん」
「そのようだね」
もう随分、銀茂は海に釣り糸を垂らしていた。
それなのに、スズキやメバルどころかゴンズイですら釣れない。
銀茂は段々イライラしてきて、さっきから貧乏ゆすりまでしている。
白音郎は大人しくとなりに腰掛けて、そんな銀茂を見ていた。
「今日は満月だから、きっと魚たちも月を見ながら宴会しているのさ」
「ハァ~~ッ!?魚が宴会なんかしてたまるか。本当に貴様は珍奇なことを言うなぁ。くそ、それにしても一匹も釣れないなんて本当に腹の立つ」
銀茂の苛立ちは最高潮に達しているようだった。
しかし、そんな中で白音郎はぽつりと呟いた。
「ねえ、同学の人たちが言っていたけれど、銀茂のご先祖様は亀を助けたんだっけね」
「ああ?あぁー……貴様も聞いたのか。俺のひいひいひいひいじい様くらいの人が、亀だか蟹だかを助けたっていうのはじい様に聞いたな。どっからそんな与太話が漏れたんだか」
白音郎はじいと銀茂を見つめた。
そんな白音郎の視線を感じて、銀茂はぎょっとしてたじろいだ。
白音郎の薄青い目が、月の光を受けて不思議にきらめいていたからである。
「な、なんだよ。気色悪いな。そんなにじいっと見つめるなよ」
「ふふ」
白音郎は小さく笑うと、銀茂から目をそらして、そして凪いだ海面に視線を移した。
「銀茂、もう宴会が終わったようだよ」
「は?……ん?おお?おおーっ!きたきた!」
白音郎が不可解なことを言ったような気がしたが、それからというもの今までの不漁がまるで嘘のように銀茂の竿にはたくさんの魚がかかり、それに夢中になって銀茂はすっかり忘れてしまったのであった。
次の日、隠れて寮の裏で魚を焼いて食っていた銀茂他数名は、寮監にバレて寮中の廊下と窓を掃除させられる羽目になってしまった。
特に首謀者である銀茂には他の者より多くの掃除を命じられることとなり、銀茂は歯軋りをしながら掃除をしていた。
「銀茂」
「ああ!?……なんだ、シロか」
頭に三角巾を被せられ、マスクをして埃取りで高所の埃を落としていた銀茂は誰に対しても攻撃的になっていたが、後ろに立っていたのが白音郎だったのでハァとため息をついた。
「くそ、貴様も魚を食いにきてりゃよかったんだ。素行のいいおぼっちゃんめ」
「あはは」
白音郎は笑いながら、ねぇ銀茂、また夜釣りに行こうねと言った。
銀茂はうーんと悩み、頭をぼりぼり掻いてから、まぁしょうがねえーな、たまにだぞ、そん時はお前も一緒に寮監に怒られるんだぞ、と言って、白音郎の返事も待たずにまた掃除を始めたのだった。