燻る夢は熾火となりて
『レストア大陸記』シリーズの番外編ですが、短編としてもお読みいただけるかと思います。
ガタッと派手な音をたてて椅子が倒れた。
立ち上がった男を見上げる女は、狼狽など欠片も見えない落ち着き振りで。男はその様子にますます言いようのない苛立ちを覚える。
「……いい加減意地張んのはやめてくれ」
「意地を張ってるのはあんたじゃない」
ああ言えばこう言う女のいつも通りの反応、しかし今日は我慢できなかった。
女の座る椅子と不自然に離れたテーブルとの間には、目立つ大きな腹が見える。男は思わずテーブルの端を掴む手に力を込めた。
「もう来月には生まれるんだぞ? なのになんでいつまでもっ」
「いつ生まれても関係ない。私はあんたを愛してるけど、今のままのあんたとは結婚したくない」
男が瞠目して口を開くものの、言葉は紡がれず。泣き出しそうにも見える表情でゆっくり口を閉じる。
女はまったく表情を変えず、射抜くように男を見据えていた。
「……レベッカ、どうして……」
暫しの沈黙の後、ようやくそれだけ呟いた男。女は変わらず男を睨んでいたが、やがて小さく息をつく。
「ねぇセーヴル。あんたは本当にこのままでいいの?」
女の茶色の瞳からは、いつもに増して強い意思が見て取れて。
それ以上の言葉を持たない男は、ただ女を見つめて嘆息するしかなかった。
ちょっと頭を冷やしてくる、と言ってセーヴルは外に出た。
「なんだセーヴル、怖い顔して」
「またレベッカと喧嘩したんだろ?」
「うるせぇ」
小さな町の中は知り合いだらけ、普段は親しみからのからかいだとわかる言葉も今はつらく、どこに行っても気など休まらない。
仕方なく近くの大きな宿場町に行くことにしたセーヴル。借りた馬を走らせながらも、心中は様々な思いが浮かんでは消えていく。
―――十四年前。十五歳の時に事故で亡くなった両親の跡を突然継ぐことになり、成人直前から家業の日用品店の店主を務めなければならなくなった。
自身が住む町に日用品店はここ一軒だけ。住民たちの生活を考えると潰すわけにはいかない。信頼できる古参の従業員に継いでほしいと提案したが、年も取りその器でもないからと断られた。
内心進みたいと思っていた道を諦め、両親を慕う従業員たちに助けてもらいながら名ばかりの店長として働き始めた。
一年と少しが経ったころ、町人の伝手で店に勤めに来てくれたのがレベッカだった。明るくさっぱりとした性格とはっきりした物言い、その奥にはいつも優しさがある。そんな彼女に仕事はもちろん精神的にも随分と助けてもらった。
お互いに惹かれ合い、恋仲になった。
それなりの年齢になってからは、何度も何度も結婚を申し出た。しかしレベッカは結婚はしないと頑なに言い張る。
彼女の妊娠がわかってからも、レベッカの返答は変わらなかった。
あんたのことは愛している。だけど今のあんたとは絶対に結婚しない。
子どもができたのだからこれで頷いてくれると思っていたセーヴルは、レベッカの返答に愕然とする。
それから何度も何度も話したが、彼女が何を望んでいるのかわからぬままで。日増しに膨らむ腹を見ていることしかできなかった。
ふたつの街道が交差する位置に作られた宿場町は、夕方前でも既に人々で賑わっていた。
セーヴルが酒でも飲もうと目についた食堂に入ると、中では何やら強い声がする。
目をやると、店員だろう男と少年が話すというには大きな声で言い合っていた。
「だから。子どもには酒は出せないって」
「さっきから成人してるって言ってんだろ」
セーヴルからはその少年のうしろ姿しか見えないが、確かに小柄ではある。
「こんなところをフラフラしてないで。日が暮れる前に帰った帰った」
「フラフラしてんじゃなくて、俺は養成所入りに行くんだよっ」
養成所、の言葉に店員、そしてセーヴルが反応する。
店員が見せたどことなく馬鹿にしたような表情に、気付けばセーヴルは動いていた。
「なんだよ、お前またガキに見えるって言われてんのか?」
軽い口調でそう言い、少年と店員との間に割り込む。
「おとなしく待ってりゃ俺が説明してやるのに。待たせて悪かったなぁ」
驚き見上げる少年にそう言ってから、セーヴルは店員に向き直る。
「ちょっと誤解があったみたいだけど。こいつも嘘はついてないから、出してやってよ」
にこやかにそう言われ、店員は気まずそうに瞬きをしてから軽く頭を下げて戻っていった。
少年に目配せをして、向かいの席に座るセーヴル。水を持ってすぐに戻ってきた店員に注文をしたあと、奥に引っ込んだことを確認してから少年とセーヴルがこそりと言い合う。
「ありがとう……」
「ま、悪ぃけど今日は知人ってことで。一緒に飲んでくれよな」
少年は小柄な上に童顔で、確かにまだ幼さの抜けない風体をしていた。店員が疑うのも無理はないかと思いながら、セーヴルはよろしくなと笑みを見せる。
思ってもない状況ではあったが、今はひとりで飲むより気が紛れていい。
「俺はセーヴル。堅苦しいことはなしで頼むよ」
「こっちもその方が助かる。俺はリー。成人してるのはホントだから」
「疑っちゃいねぇよ」
即答したセーヴルに、リーが嬉しそうに表情を崩した。
「……請負人になりに行くんだってな」
出てきた酒と食事を食べながら、セーヴルが尋ねるともなしに呟く。
依頼を受けて魔物を討伐する請負人組織。リーの言う養成所とは、その請負人になる教育を受けられる場所であり、そこで二年の過程を終えられなければ資格は取れない。
「村にいてもできることあんまねぇからな」
慣れた様子で酒を飲みながら、リーが肩を竦めた。
「こんなナリだけど力だけはあるから。なんとかなるんじゃないかなって」
まだ成人したばかりというリー。その若さゆえまだなんの重荷も柵もないように見え、セーヴルは眩しそうに目を細める。
「……そっか」
リーの行く先にあるものは、あの日の自分が追えなかった夢。
口に出す前に手放した憧れであった。
もちろん今の自分の生き方が間違っているとは思わない。この生き方を選んだからこそ得られるものがあり、感じる幸せがあるのだとわかっている。
だが、それと悔いが残らないことは決して同義ではないのだ。
「……もしかしたら、同業だったのかもしんねぇんだなぁ」
夢を追えるその立場への羨望だったのか。自然と零れた言葉に、リーはぱちくりと瞬きをする。
「同業……って、セーヴルって請負人?」
「いや。なりたかったってだけの話だ」
少し苦さの混ざる笑みを浮かべるセーヴル。じっと見返すリーの眼差しが真剣味を帯びた。
「年齢制限ねぇんだから。今からでもなりゃいいだろ」
「できねぇよ」
そう即答し、セーヴルは己の今の状況を語る。
「店もあるし。何より子どもができたってのに。二年も寮生活の上に旅稼業なんてできるわけねぇだろ」
まるで自分自身に言い聞かせるように、セーヴルはきっぱりと言い切った。
黙って話を聞いていたリーが、不服そうに眉を寄せる。
「相手がそう言ってるなら仕方ねぇかもしんねぇけど」
「いや、レベッカは―――」
答えかけたセーヴルが、ハッと動きを止めた。
昔、それこそ恋人になる前のこと。色々と相談に乗ってくれていたレベッカに、本当は請負人になりたかったのだと話したことがあった。
今は無理でも諦めなくていいんじゃないの、と。あっさりそう返されて驚くと同時に、自分には到底できない柔軟な思考をする彼女を尊敬した。
今では誰よりも近くにいてくれる彼女。
このままでいいのかと、何度も何度も聞かれてきた。その度に頷く自分に、レベッカは段々と苛立ちと悲しみの混ざった顔を見せるようになっていった。
(……もしかして、そういう意味だったのか……?)
まだ未練があるのなら、今からでも請負人になればいいと。
遅すぎることはない。門戸は開かれているのだから、あとは心を決めるだけだと。
ずっとそうやって、背中を押してくれていたのだろうか―――。
「……もしそうならさ、その人、あんたのことよっぽど好きなんだな」
自身の整理も兼ねてその心中を吐露したセーヴルに、リーは視線を落として少し笑む。感謝と後悔がないまぜのその表情は今までの彼らしくなく、セーヴルはからかうなよと軽く流すことができなかった。
「何を……」
「自分のせいで夢を諦めたりなんかされて、幸せだとか思えねぇんだろ」
目の前のその姿と、かつての己の姿が重なる。
あの頃の自分とは違って、夢を目指し歩き出したばかりで先の希望に満ちているのだろうと。無意識にリーのことをそう見ていたことに気付いた。
呆然と見返すセーヴルに、落ち着いた声音でリーが続ける。
「俺も小さい時に親を亡くしたから、兄貴と姉貴が育ててくれたけど。兄貴の独立も、姉貴の結婚も、俺がいなけりゃもっと早かったはずなんだよ」
急に大人びたその顔の理由は、続けられた言葉からわかった。
彼、そして彼の兄姉たちもまた、自分と同じように―――否、自分よりも早くから、否応ない選択をしてきたのかもしれない。
見られていることに気付いたリーが、少しバツ悪そうに視線を泳がせる。それでもまだセーヴルに口を開く様子がないことを感じ取ったのか、諦めたようにもう一度セーヴルへと視線を戻した。
「これでよかった、後悔してないって言われても。こっちはこっちでわりきれねぇもんはあるんだ」
言葉から滲んだ思いをごまかすように、先程までより早口で言い切ってから、リーは切り替えるように息をつく。
「……あんたが相手を幸せにしたいって思うのと同じで。相手だってあんたに幸せでいてほしいんだろ」
自分ではない誰かに言い聞かせるようなその言葉は、それでもセーヴルの胸に強く響いた。
呆けたようにリーを凝視していたセーヴルが、やがてゆっくりと息を吐く。
「……ありがとな。なんかちょっと、あいつの気持ちが見えた気がする」
苦笑いを見せるセーヴルに、リーも辞色を和らげる。
「俺はその人のこと知らねぇから、なんとも言えねぇけどさ。それだけ言ってくれる相手なんだから、向き合って話せばいいんじゃねぇのか」
諭すつもりなどない、ただの意見。きっとだからこそ、セーヴルも素直に受け入れることができた。
「ああ。話してみる」
もはや迷いのないその声に、リーが頷きを返す。
「頑張れよ」
早く帰って話してこいと言われ、セーヴルは席を立った。
中座することを謝り、せめて支払いはしていくと申し出ると、じゃあ遠慮なくとリーは笑う。
屈託ないその顔は、最初に見たまだ幼さの残る顔だった。
偶然が重なり、ここでほんの暫く話しただけの相手。しかしその僅かな時間が、この先の自分の人生を変えてしまうかもしれないくらい大きなものとなっていた。
ここだけの縁にしてしまうのが惜しく、せめてと町の名を告げるセーヴル。
「養成所を出たら会いに来てくれ」
「セーヴルが養成所に来なかったらそうするよ」
今年度の受付はもうすぐ締め切り。この先もし請負人になる道を選んだとしても、同じ年に入ることはまず無理だろう。
しかし、それでもいつの日にか。また会える日が来るといい―――。
そう願いながら、セーヴルは食堂をあとにした。
馬を飛ばして町に戻ったセーヴルは、そのままレベッカの下へと向かった。
店に立っていたレベッカは、血相を変えて飛び込んできた挙げ句無言のまま近付いてくるセーヴルに、怒りよりも驚きが勝ったのだろう。動けずに立ち尽くす彼女をセーヴルは勢いのまま抱きしめた。
帰路の間に込み上げてきたレベッカへの想い。
ずっと支え、背を押してくれていたのに、気付けずにいた自分の不甲斐なさ。
大切な彼女に悲しい顔をさせ続けたことへの後悔。
溢れる想いを腕に込める。
「……ごめん、レベッカ。もう一度、話をさせてほしい」
セーヴルの変化はその様子と声音にも現れていたのだろう。暫しの沈黙の後、わかったわ、とレベッカが応じた。
穏やかな声音にほっとしながら解放すると、呆れ顔の笑みを見せられる。
「一体何があったの?」
「それもちゃんと話すよ」
気にせず行ってくればいいと理解ある従業員たちに見送られ、店の二階にある自宅で向き合って座るふたり。
碌に話もせず場を離れたことを謝ってから、セーヴルは町を出てからのことを話した。
「……なりたいなら請負人になればいいんだって。そう言ってくれてたのか?」
「もちろん今でもそう思ってるわよ」
返された言葉にセーヴルは苦笑する。
「今でもって」
「あら、嘘じゃないわよ?」
軽い口調は少しでも話しやすいようにとの気遣いだろう。
きっと今までもこんな風に、たくさん気を遣われてきたに違いない。
込み上げる愛しさに、やはり今までの自分の生き方は間違ってなどいなかったのだと確信する。
これだけ大事な人に出逢えた。
それだけでもう十分だと―――。
言うべき言葉を整理して、セーヴルは深く息をついた。
「レベッカ」
改まった声で名を呼ばれ、レベッカも表情を引き締める。
その瞳に不安の色はない。こんな不甲斐ない自分にそれでも向けられたままの信頼に、少しでも応えることができているのだろうか、と。そんなことを今更思う。
「俺はお前を愛してる。だからこのままここで生きていけたらいいと、そう思ってる」
口を開きかけたレベッカを、だけど、と遮る。
「請負人になりたかった。その未練が残ったままだってことも認めるよ」
続けられた言葉に再び口を噤んだレベッカは、じっとセーヴルを見ていた。
言葉がないことを確認してから、セーヴルが更に続ける。
「それでも今の俺が一番望むのは、何よりもお前の幸せだから。レベッカが幸せだって思ってくれるなら、俺だってそれで幸せなんだ」
愛する人が幸せであってくれるならば、燻る夢など天秤にかけるまでもない。
ここで穏やかに暮らしていくことに、なんの不満があるというのだろうか。
思いの丈を込め、見つめるセーヴル。
暫く動きもせずに凝視したあと、レベッカは花が綻ぶように微笑んだ。
「結婚しましょう、セーヴル」
レベッカの口から零れた、何年も何年も待ち望んだ言葉。
とうとう聞くことのできた返事に、セーヴルは喜びのあまり立ち上がる。
「レベッカ……!」
「店は皆と一緒に私が守る。だからあんたは請負人になって」
微笑みはそのままに、見上げるレベッカがそう告げた。
愛しているけど結婚はしない。何度申し込んでもずっとそう返され続けた。そんな彼女がようやく頷いてくれたというのに。
喜びも束の間、冷水を浴びせられたように立ち尽くすセーヴル。
一体何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
「……レベッカ? 何を……」
「そのままの意味よ」
穏やかに微笑んだまま、レベッカはいとおしげに己の腹を撫でる。
「この子ができて……嬉しいけど怖かった。次は私があんたをここへ縛ることになるのかもって」
「縛るなんてそんな―――」
「私にとってはそうなのよ」
言い切り、レベッカは強い意思の籠る眼差しを向けた。
「私はあんたを縛るんじゃなく、帰る場所になりたい」
夢見るような輝きと、焦がれるような強さと。どちらも含んだその声音は、揺れるセーヴルの心を更に揺らす。
「あんたに安心と自由をあげられる、そんな相手になりたいの」
心の奥底まで見透かすようなその瞳は、燻るそれをも見ているようで。
―――間違いだとは思わない。だが、このまま燻り続けることもまた、レベッカには気付かれていたのだろう。
呆然とするセーヴルに、レベッカは席を立ってその隣に立つ。そしてセーヴルの戸惑いごと抱きしめるように、そっとその背に手を回した。
「愛する人が幸せなら自分も幸せ。それは私も一緒なの。あんたには、まだ手に入れていない幸せがあるでしょう?」
諭すようなその声と温もりに、我に返ったセーヴルが首を振る。
「子どもが生まれるのに、そんな勝手なこと―――」
「私の気持ちは話したはずよ? 意気地がないのを私のせいにしないで」
悲痛な声はぴしゃりと跳ね返された。それでも頷くことができないままのセーヴルを、レベッカがぎゅっと抱きしめる。
「私が惚れたのは夢を語るあんたが眩しかったから。店と私の事を考える今のどうしようもないあんただって好きだけど、今のあんたと結婚したら……その気持ちに甘えたら、私は自分が許せなくなる」
想いを託すように、もう一度強くセーヴルを抱きしめてから、レベッカは手を解いて離れた。
「だから行って」
柔らかな笑みを浮かべて見上げるその瞳に涙はなく、ただ穏やかな色が浮かぶだけで。
その意志の固さを見て取り、セーヴルは伸ばしかけた手を引っ込める。
「……俺だって、お前と子どもの傍にいたいんだよ」
「あんたはもう二十九歳でしょ? これ以上後回しにしてどうするの。心が決まったなら動きなさい」
ひとつ年下だというのに、レベッカは昔からいつもこうして姉のように、すぐ尻込みする自分の背を押してくれていた。
支えられ、見守られ。ここまでこられたのだと痛感する。
今度こそためらいなく、セーヴルはもう一度レベッカを抱きしめた。
本当にいいのだろうか、と。
腕の中の愛しい存在を確かめながら、セーヴルは考える。
レベッカが自分の夢を優先してこんなことを言っているのではないことは、自分にだってわかっている。
しかしおそらく、彼女自身にも迷いはあった。だからこそ、こうしてあとがなくなってからの決断となったのだろう。
それだけ自分と離れがたく思ってくれていたのかと嬉しくなると同時に、これからのことを思うと寂しくなる。
揺らぐ気持ちがないわけではない。
本当にいいのかと迷う気持ちももちろんある。
しかしそれでも、もう進む道は決めていた。
「……一度入ると、二年は碌に帰れねぇぞ」
「知ってるわよ」
そっと、セーヴルの背に腕が回された。
「……この子がいるから、あんたは絶対に私のところに帰ってくるでしょう?」
「子どもがいてもいなくても、俺がいたいのはお前の傍だ」
間髪入れずの返答に、レベッカはくすりと笑う。
「だから大丈夫。心配はしても、不安にはならないから」
見上げて微笑むレベッカはどこか晴れやかな顔で。申し訳なさとそれを上回る愛しさを込め、セーヴルは唇を重ねた。
ゆっくりと唇が離れてから、見つめ合い笑い合う。互いにぎゅっと抱きしめたあと、どちらからともなく腕を緩めた。
「さぁ、急いで準備をしないとね」
唐突なレベッカの声に、セーヴルはきょとんと彼女を見返した。
「レベッカ?」
「養成所の受付期間はまだあるでしょ?」
「いや、もうすぐ生まれるんだぞ? 俺は落ち着いてから来年にって……」
何を言われているのかを理解したセーヴルの慌て振りとは対照的に、レベッカは落ち着いた様子でばかねと笑う。
「今年じゃないと、その人はいないじゃない」
瞠目して声を失うセーヴル。穏やかな笑みのまま、レベッカは両手でセーヴルの頬を包んだ。
「私たちの恩人なんだから! この縁を逃してどうするの」
わかってるわよね、と。かけられる無言の圧。
どうしてここまで自分の思いを汲み取ってくれるのかと、嬉しい反面照れ臭さと申し訳なさが込み上げる。
「……私からもお礼を言いたいから。養成所を出たら連れてくるのよ」
その気持ちすらわかっているのだと言わんばかりに退路を断たれて。
「……ああ……。約束する」
もはや礼を言うことしかできないセーヴルは、せめてもとレベッカを抱きしめた。
数日後、レベッカと従業員たちに見送られ、セーヴルは生まれ故郷をあとにした。
待ち受けるのは二年の養成所生活、そしてその後の旅稼業。年齢も間違いなく周りより飛び抜けて上だろう。
残していくのは身重のレベッカ、突然店長交代となった店と対応に奔走する従業員。
あちらにもこちらにも心配事など山積みで。本当によかったのかと、これからも何度だって思うのだろうが。
それでも、背を押し送り出してくれたレベッカに愛想を尽かされないように。残る後悔はあったとしても、この選択が間違いだったとは思わないために。
ただ懸命に、やれることをするしかない。
そう心に誓い、セーヴルは夢を叶える一歩を踏み出した。
お読みくださりありがとうございます。
出逢いにより変わる、かつての選択の是非。
たとえ後悔が残っても、間違いではなかったといえるならば。
いい人生を送ってきたのだといえるのではないでしょうか。
レストアからお越しの皆様へ。
初投稿から三年ですありがとう、ということで。
どうにも需要はなさそうな(笑)、セーヴルの番外編です。
思った以上に長くなってしまったので、以下カットされたエピソードです。
このあと無事にリーと同期となったセーヴル。養成所生活は二の月から。説明や体力測定を経て、本格的に訓練が始まるとなったその時、レベッカの体調が悪化したと連絡が入ります。
来年に再入所することは断ったため、自力での体力向上と座学の習得を条件に、子どもが生まれるまでの一時帰宅を許可されます。
レベッカが無事に男児を出産したのを見届けてから養成所に戻ったセーヴルは、リー、そしてアーキスの手を借りながら、同期に馴染み、遅れを取り戻していきます。
以前の短編『今ここに差す光』はセーヴルが一時帰宅中のエピソード。
小柄なことに加え、場違いなおっさんと最初から仲がよかったことも、リーが目をつけられた理由のひとつ。
例の喧嘩相手が「逃げたんじゃねぇか?」と笑ったこともまた、喧嘩の理由になっています。
リーは語らぬその理由は、アーキスづてにセーヴルも知るところとなりましたが。
オトナなセーヴルは例の彼を上手く懐柔し、その後の和解にも一役買ったとかなんとか。
リーがセーヴルの妻と顔見知りの理由。
それをようやく書くことができて嬉しいです。