ファム・ファタール
毒虫はきっと幸せ者だ。
何故なら。
自分がヒトを傷つける為に産み墜ちた生き物だって。
そう気付かずに済むのだから。
羨ましい。妬ましい。悔しい。
切なくて。憎たらしくて。
そんな事を考える私が一番嫌いだ。
よく晴れた休日の朝。
公園で。
楽しそうに遊ぶヒト。ヒト。ヒト。
ああ。いいなぁ。
どうして。
私はいつも、ああじゃないのだろう。
しかしながら、世間での私の評判は、必ずしも悪くはない。
博学才穎とまではいかないが、頭の出来も悪くない。
容姿が整っていて、愛嬌があって。
誰が見ても、私は良い感じだ。
そう。
誰が見ても。
誰もが、私を見る。
私じゃない私を。
彼らが私にそう在れと望むナニカを。
私は、そうやってイイコのレッテルを貼られて、社会に出荷される積み荷だ。
本当は、不良品なのに。
だが。
それだって、私のせいなのだ。
ヒトに、よく思われたい。
よく見られたい。
褒められたい。
褒められたい。
褒められたい。
私は、認められたいのだ。
渇望している。
憎悪している。
私は、私に騙されてくれるヒトに救われ、私に騙されるヒトを蔑んでいる。
見下している。
或いは。
恐れている。
畏れている。
きっと、私じゃなくてもいいのだろう。
誰でも。
都合よくニコニコ笑って。
愛想よくして。
そんな人形をヒトは私に見ているだけだ。
悔しい。悔しい。悔しい。
彼らによって、私はいつも傷つけられる。
心が膿んで、グズグズになって、瘀血がジクジクと溢れ出る。
そして。
その醜い疵を、私は愛する。
私は、私が嫌いだ。
私だけが悪くて、私以外のヒトは全て正しい。
生きてちゃいけない生き物なんだって。
だからこそ。
私は私を憎み、愛する。
この世でたった一人、私だけは、私から逃げられないのだから。
でも。
それは私にとって幸せなことではない。
私が私を愛することが、私を蝕む毒なのだ。
そう。
毒。毒。毒。
私は賢しい毒虫だ。
私が出来損ないの欠陥品だと明らかになってから、私は無駄な努力を沢山した。
なんとか良い大学に入って。
友達をいっぱい作って。
それでも無理だったら、赦してもらえるよね?
私は乞い願っている。
赦されるのを。
或いは。
見捨てられるのを。
多くのヒトが、私に期待する。
私に希望する。
私を殺す。
「岸野さんって」
「岸野さんのおかげで」
「岸野さんにしか頼めないことなんだけど」
現実として、私はイイコのふりをしているだけだ。
どれだけ頑張っても。
蛾は蝶には成れない。
ヒトは勝手に期待をして、勝手に失望する。
私を裏切る。
いや。
私を見ていないのだ。
誰も私を見ない。
本当の私は、気持ち悪くて、最悪だ。
ヒトに執着している。
ヒトに成りたい。
でも。
私を愛したい。
酸っぱい葡萄だ。
手が届かないから、蔑んでいる。
冷笑して。貶めて。
夜になって。
独りぼっちで泣き濡れる時だけ。
私はヒトになる夢を見る。
社会の歪な優しさが凝り固まったような。
地を這う虫を焼き殺す太陽の光。
朝の木漏れ日を浴びて。
私は、私がヒトじゃないことに。
失望し、安堵するのだ。
大学で、彼を見かけた。
依田環。
彼もまた、ただのヒトだ。
きっと。
きっと。きっと。きっと。
私のことなんか、分かってくれない。
そんなことはわかっていた。
だが。
彼は賢い。優しい。そしてかっこいい。
見た目が良い。外面が良い。
私は毒虫だ。愛すべき奇形児だ。
この大学で、この清流で。
私は永くは生きられない。
高望みだったのだろうか?
また。
蔑まれて。
ヒトを傷つける。ヒトに傷つけられる。
私を奪われる。
殺される。
そんなのは、不平等だ。
私は、蔑まれるべきじゃない。
私が私を蔑むことは赦せても、ヒトに蔑まれることは許せない。
見下されて、客体化される。
容認せらるるものではない。
良く見せたい。良く見られたい。
ヒトは、私にイイコであれと望む。
期待する。利用する。
私だって。
同じことをして、なにが悪いのか。
私は依田環に近寄った。
誘惑して、言い寄って。
オンナの悦びに身悶えする。
仕方がないじゃないか。
依田環。私にとってのイイコ。
そうだ。イイコ。イイコ。イイコ。
私にとって、都合の良い子。
ずるいとか、卑怯だとか。
誰に言われる筋合いもない。
王子の寵愛を望んだシンデレラの姉達は、金の靴に自身の足を合わせようとした。
ある姉は踵を削ぎ。
ある姉は爪先を切り落とした。
彼女らは。
あの毒虫らの物語は。
涙を呑むほど悲劇的で、痛快なほどに喜劇的だ。
ヒトに捉えられ、客体化される。
権利が、自我が。
私が奪われる。殺される。
余りにも馬鹿馬鹿しく。愚かしい。
だが。
何をしようとしたのかは分かる。
彼女らは、ヒトに成りたかったのだ。
私は騙されてあげるつもりはない。
私の人生に王子様は要らない。
依田環。
あなたには。
私だけの金の靴になってもらう。
私を引き立て。私を認めさせる。
私に媚び諂い。私の爪先に口づけをさせる。
舞台装置だ。
私は、あなたを愛玩する。
弄び。悦びに身悶えし。奪い尽くす。
私はあなたを喰らい尽くす。
世にも悍ましい。
毒虫の本懐。
私は。
私は。
私は。
私は愚かしい。
愚かしいほどに寄り掛かっている。
依田環は、良いヒトだった。
私に寄り添い。
私を蔑まず。
私を見ていてくれた。
肯定せず。
否定せず。
色眼鏡で私を見ない。
私に望まない。
彼は、鏡のようなヒトだった。
彼は、しかし、あっという間に私にのめり込んだ。
のめり込んで、私に近付いてきた。
目の前まで来て。
私に口づけをする。
屈辱的な。
彼は腰を屈めて。
私の額に口づけをする。
近付くほど、残酷なまでに浮き彫りになる。
彼は、決して私のところまで降りてこない。
彼はいつも耳元で囁く。
お前は間違ってる。お前は醜い毒虫だ。
そして。
私を愛する。
否定も肯定もない。
私にただ。
事実のみを告げる。
審判されていた。
弄ばれていたのは、私だった。
彼は、いつだって正しい。
必死になって、私を止めようとする。
救おうとする。
賢しげに、見下ろして。
だが、自身の忌まわしき性を。
どうして隠し通すことなど出来ようか?
私は曝け出した。
自身の身体を。
そのグズグズに膿んだ、傷だらけの肢体を。
醜い。醜い。
毒虫の。
ブクブクと肥え太った。
オンナの部分を。
愛されて。愛されて。愛されて。
めちゃくちゃになりたい。
堕ちていきたい。
そうして瘀血に塗れて。
それでも着いてきてくれる虫だけを。
私は愛せるのだから。
求め合い。貪る。
淫らに身を捩り。
涎を垂らして。
悦びに身悶えする。
オンナの悦び。
猥雑なネオンに心を重ねて。
奪い合う。愛し合う。
世にも痛ましい。
毒虫の交尾。
知られすぎた。
そう気付いた時、既に私は取り返しのつかないところまで来ていた。
私は、彼を毒し。
彼に降りてきて欲しかった。
堕ちてきて欲しかった。
あなたにも、惨めな毒虫になって欲しかった。
依田環。
愛している。憎らしいほどに。
拒んでいる。淫らなまでに。
彼の前では。
私はオンナだ。
客体化される。
私は、淫らに媚び諂う、頭を捥がれた蝿だ。
匂い立つ死に体の生魚に群がる。
卑小な銀蝿。
彼は決して共感しない。
私を払いのけることすらしてくれない。
彼に集り、彼から奪おうと。
彼を殺そうと。
私は毒を刺す。
毒。毒。毒。
私だけを愛して。
それでも彼は。
上から見下ろすだけだ。
心配そうな貌をして。
私をいつも失望させる。
恐ろしいことだ。
忌まわしいことだ。
彼がこんなにも愛そうとしてくれているのに。
嗚呼。自家中毒だ。
私は自身の毒に犯されている。
照らされる。
暴かれる。
曝される。
彼の愛が尽きた時。
私は彼の正しさに殺される。
断罪される。糾弾される。
否。否。否。
彼はきっと。
哀しげな貌をして。
私の生から去っていくのだ。
悍ましい。
痛ましい。
私だけが。
いつだって私だけが取り残される。
独りぼっち。
私は、いや、毒虫は。
いつだって独りぼっちだ。
誰からも奪われないためには。
誰とも関わらなければ良い。
私の毒を。
ヒトは嫌う。
だからこそ。
隠してきた。
騙してきた。
私を殺して。
岸野唯愛を喰わせてきた。
可愛いとか。可哀そうとか。
心配だとか。甘えてるとか。
いい加減にしてよ。
お前は私じゃない。
分かったふりをして。
私を何かに当て嵌めて。
結局なにもしてくれない。
なにも。
罰する事も。付き添う事も。
堕ちてきてよ。
私と同じところまで。
シャワーを浴びる。
私は私の身体を撫ぜる。
目を瞑って。
私は私の姿を視る。
グズグズに膿み爛れた傷跡。
身体を捩る度に、ケロイド状に引き攣れた蛞蝓の這いずった跡が、ブチブチと音を立てて毒を出す。
ブクブクと膨れ。今にも弾けんと怒張する。
涙を流したことを認めたくないから、目は潰した。
言い訳や弱音を聞かれたくないから、舌を噛み切った。
そして。
ヒトの罵声ばかり聞こえてきて、何故か其れ等に耳を澄ました。
身体を支えるには足らない、未熟児のようなぷるぷるした手足が。
痣が出来るのにも。
指が千切れるのにもお構いなく。
狂ったように床を。壁を。
世界を叩いている。
私を見てよ。私を見てよ。
でも見ないでよ。怒るなら見ないで。
私の生を。私の性を。
否定しないでよ。
そして、何か言おうとして、私は舌を噛み切ったことを思い出す。
全身の傷口は化膿し。
びっちりと銀蝿が群がっている。
奴らは私の体液に歓喜の涎を垂らして。
私を奪っていく。
私は全身を掻き毟ろうとして。
指が千切れたことに気づく。
私に群がる虫共の顔ぐらい見てやろう。
憎たらしい。悍ましい。忌まわしい。
そして。私はなにも見えないことに気づく。
ブチブチと引き攣れた肌が音を立てて。
ブクブクと膨れ上がる。
一匹の毒虫が爆ぜる。
シャワーを浴び終わると、彼が待っていた。
私はまた。彼を毒する言葉を吐く。
願いを。望みを。救いを。
彼の爪先に口づけをして。
涎を垂らして赦しを乞う。
「私のこと、愛してる?」
違う。本当は。こう言いたかった。
私のこと、愛して。
「え、うん。好きだよ。ずっと言ってるじゃん。」
依田環。
わかりきったことを。
再確認したのだ。
私のことを、好きだって?
嘘ばっかり。
それとも。
本当に分からないのか?
お前は。
私のことを面白がっていただけだった。
賢しげに見下ろして。見下している。
私に教えている。
お前はいつから私の先生になったんだ?
ふざけんなよ。
私は。
私は。
私は。
お前に堕ちてきて欲しかったんだよ。
お前に駄目になって欲しかったの。
最低な。膿血に塗れた。
毒虫に成り下がれよ。お前も。
そうじゃなかったら。
そうじゃなかったら。
私を殺すか、お前が死ねよ。
クソ。クソ。クソ。
何だか泣けてきて。
自分がひどく滑稽な存在に思えた。
目の前の。
オトコの貌をして。
酷く盛り上がって。怒張している。
憎たらしい。
こいつも。
それに悦んでしまう自分も。
頭がぐちゃぐちゃになる。
気持ち悪い。
全部。全部。私の自己満足だ。
自涜。自涜。自涜。
気持ち悪くて、吐き気がする。
私は腕の生傷を掻き毟って。
裸のままでしゃがみこんだ。
彼が近寄って。何か優しい事をいう。
私に寄り添おうとして。抱き上げようとして。
彼の手より先に。
彼の下腹部が私に触れた。
「あっ。ごめん。」
私は身体に溜った瘀血を吐き出そうとして。
お腹に何も入ってないことに気付いた。
「……お腹減った。」
今はただ。
吐き戻すために何か食べたい。
或いはクレオパトラのように。
蛇に噛まれて私は死にたい。
夏にして。彼を離れた。
同じなのだ。
彼はヒトだ。
同仕様もないほど、決定的に。明らかに。
私を見捨てず。私を赦さず。
生殺しにして。賢しげに見下ろしてくる。
彼の、正しい愛し方。
わかったことは、やはり私が悪かったのだ。
私は未来を見ていない。
必ず恨まれ、嫉まれ、蔑まれる。
弄ばれて。苦しみ抜いて。
果てには道端の野菜屑と混ぜられて。
私はひっそりと死に絶える。
当然だ。
毒虫なんだから。
私はいつも乞うている。
生まれ変わって、美しい蝶になりたい。
これまでのことは何かの間違いだったって。
悪い夢だって。そう思いたい。
私は、変わったんだって。
でも本当はわかっている。
とどの詰まり、自傷行為なのだ。
自家中毒。
自身の毒に悶えているだけだ。
私は、これまでの生を蔑んでいる。
突然にして。世の中の真理と出会い。
私が悩んでいたことなんて大したことじゃなかったんだって。
悟った気になりたいだけだ。
私は。
私を嗤う大衆の側に回りたいだけなのだ。
私は、私を否定している。
いつも。最新の私がやってきて。
古い私は無造作に投げ捨てられる。
そんな気持ちの悪い妄想に体を震わせて。
私は独りで毒に酔っている。
依田環は、泣いていた。
彼は、泣いて。泣いて。
泣いて私に赦しを乞うた。
離れてください。別れてください。
あなたみたいな毒虫は。
独りで惨めに死んでください。
泣いて赦しを乞うたのは、私の方だ。
彼の足を舐め。媚び諂い。
彼を脅し。彼を畏れさせた。
傲慢に。全てを懸けて。
私は惨めに彼に追い縋った。
見捨てないで。
見捨てないで。
見捨てないで。
嗚呼。失うと、途端に惜しくなる。
見ていてくれるだけでも。
救われるものがあったなぁ。
何度も死を仄めかしては。
この上なく生きている自分に嗚咽する。
死ぬ気があるか?
違うのだ。
生は、死よりもなお恐ろしい。
張り詰めて。張り詰めて。
引き攣れた傷が体液を滲ませて膨れ上がる。
しかし。
なんという刑罰なのだろう。
私は、私を引き裂くことが出来ない。
怖い。怖い。怖い。
怖くてできないの。
いや違う。
これは言い訳だ。
誰への?
彼、依田環への?
それとも、中学の親友だろうか?
精神的に追い詰められた私を気遣ってくれた、大学のヒト達か?
きっと、どれもその通りなのだろう。
だが。だが。だが。
ずうっと。私を見てくれた。
私を見捨てず。私を赦さず。
遠くからじっと見ているだけ。
そうだ。
私は罰されたかった。
或いは。
おかしくなって欲しかった。
見捨てて欲しかった。
なのに。
一緒に来て欲しかったの。
私は大人じゃない。
私は子供なの。
私は幼くて、また悪いことしちゃったの。
私を叱って。私を赦して。
私に触れてよ。
私だけを助けてよ。
こっちへ来てよ。
お母さん。
大学から駅までの上り坂。
私は半ば立ち直り、大学のヒト達と帰路についていた。
道の端。夏の濃い影が、タイルを蒼色に染めている。
どろりと、濃い草の匂いが立ち込める、ささくれだったタイルの縁に。
一匹の毒虫が潰れて死んでいた。
頭が潰れ。
躰は何やら、まごまごと身動ぎして居る。
蟻が、狂ったように群がって。
のたうち回る毒虫を、巣へとぐいぐい運んでいく。
地面に縋りついた、節だった足が。
千切れて跡を残していった。
「え…気持ち悪い。」
ヒトが、それを蔑む。
私も、毒虫を蔑んだ。
そして密かに。
その毒虫を羨んだのだ。
経験には貴賎がない。
詭弁だ。私は独りごつ。
私は。
貪られることにした。
私を分け与え、彼らが望む部位を分け与える。
私はどんどん引き千切られ。
グズグズに膿み爛れ。
次第に形が変わってくる。
望むことを、望まれた私を、切り分ける。
イイコであれと望まれた。
ワルイコであれと望まれた。
だが、本当は分かっている。
馬鹿な娘であれと望まれたのだ。
味見をし。口に合えば、舌鼓を打つ。
私を振り回して、弄んで。
最後にはそっぽを向いて去っていく。
「そこで寝転んでよ。」
「色々してやったのに。」
「苦しい?」
「誰にも言うなよ。」
「もっと強く握ってみてよ。」
「変わってくれないなら、もう終わりだよ。」
「こんなことしたことある?」
「生理はもう来た?」
「上手だね。」
「いい加減にしてくれないか?」
「これ履いてみて。」
「こっちに突き出してよ。」
「出会わなきゃよかったな。」
「飲み込んでよ。」
「初めてしたの、いつ?」
「意外と大丈夫そう。」
「感じる?」
「ゴム取って。」
「ちょっと落ち着け。」
「内緒だよ。」
「やべ、出ちゃった。」
「おい。口答えすんなよ。」
奪われて。殺される。
毒虫の死骸。
こんなの。自己陶酔だ。
気持ち悪いのは。
私だけだ。
何者でもなく。
何者にもなれない。ならない。
怠惰で。臆病。
傷ついて。傷つける。
ヒトを振り回して。甘えて。
追い縋って。駄々をこねる。
そして最後には、泣いて赦しを乞う。
そんな惨めな私に酔っている。
私はまた。
独りで鼻息を荒くして。
艶めいた吐息を吐き。
興奮冷めやらぬままに。
私の芯に触れ。
弄くり。
愛撫し。
ますます悦びに身を捩らせ。
歓喜の波に包まれんとするその瞬間。
ふと気づく。
私は。
特別じゃない。
ヒト並に落ち零れ。ヒト並に性格が悪く。
ヒト並に他人を疑い。ヒト並に打たれ弱い。
自分を特別な殻で守って。
柔らかい部分に触れられる事を畏れている。
毒虫だなんて。
なんという愚かしさなのだろう。
ヒト並に人生に向き合うことすら出来ない。
私は弱虫だ。
なんの絵にもならない。
なんの悲劇も、喜劇もない。
ただの。
ありふれた負け犬。
自分を傷つけて。加工して。
おかしくなれば。
何者かに生まれ変われるとでも思っていたのか?
私は。
ずうっと私だった。
これからもそうだ。
ヒトより少し生き辛くて。
ヒトより少し幸せが少ない。
ヒトのことが妬ましくて堪らないくせに。
意地を張って冷笑した。
なんの努力もしなかった分際で。
甘い果実だけを乞い願った。
そうやって狙い澄ましたようにヒトの同情に巣を張る。
卑小で傲慢な弱虫が私だった。
きっと。私は大人になることができないだろう。
畏れている。怯えている。
誰も責任を取ってくれなくなって。
本当にヒトから見放される。
放逐されて。
いずれ見向きもされなくなって。
それでも死んだように生き続ける。
ヒトを羨んで。
酸っぱい葡萄だ。
本当の。
本当の。
本当のところ。
私が本当に望んでいたのは。
乞うていたのは。
私は。
自分のあるがままでも愛されたかっただけなのだ。
それが。それだけが。
私の、たった一つの高望みだった。
逃げて。怯えて。傷つける。
今までそうしてきた。
これからもそうするだろう。
私は。
小手先であれこれと策を弄する。
必死になって自分を騙して。
私は変わったと、唾を飛ばして言い張っている。
だが。だが。だが。
実のところは。
私は私が変わってしまうのが恐ろしいのだ。
投薬。
行動認知科学。
カウンセリング。
支援制度。
本当に変わりたければ、変わる方法はいくらでもある。
そうか。
依田環は。
ずうっと私に手を差し伸べてくれていたのかもしれない。
彼の手を。
私は取れなかった。
私は。
惨めで卑小な毒虫だから。
キイキイと甲高い虫の鳴き声が。
夏の薄明かりに溶けて消えていった。
夜になって。
独りぼっちで泣き濡れる時だけ。
私はヒトになる夢を見る。
アパートの一室。
雑多な家具と、散らかった部屋。
生活感に溢れ、ぬるい室温に汗ばむ。
要領よく家事をこなせない私のせいで、洗濯物も洗い物も溜まりっぱなしだ。
娘を連れてスーパーで買い物することもままならない。
そもそも。目を離せない。
簡単に死ぬ生き物。
弱いくせに。厚かましい。
ぎゃあぎゃあと喚き。
私を呼びつける。
苗字を奪われ。
■■ちゃんのママと言われるようになった。
名前で呼ばれることすらなくなった。
自分のアイデンティティーが完全に失われる。
扇風機が、ギリギリと狂ったように回っている。
ポットに沸かしたお湯が、ゴポゴポと音を立てた。
ゴミ箱ははちきれんばかりにゴミが詰め込まれ、横に倒れてしまっていた。
そのゴミに塗れて。
一匹の毒虫が姿を出す。
嗚呼。ニュースで見た。
最近、急に繁殖しているとか。
噛まれたら。
呼吸困難。最悪死に至ることも。
私は半狂乱になって、殆ど反射的に子供を抱き上げた。
言葉の習得が遅く。
意思疎通も出来ているのか分からない。
ヒトの出来損ない。
なのに。
生物の本能によるものなのだろうか。
我が子が。こんなにも、愛おしい。
その時。
やぁう、やゆ。
なにか、言葉を喋ろうとした?
私は半ばぎょっとして、半ば狂喜した。
私だけが立ち会える。
この奇跡の瞬間に。
さぁ。なんて言うんだ。なんて。
あ、あぷ。
急がなくていいのよ。
ゆっくり。落ち着いて。
幸せだ。こんなにも報われる。
私の苦しい毎日が。
ぱ。ぱぱ。
は?
パパって言ったのか?こいつ。
瞬間。
腸が煮えくり返り。
私の心が憎悪に染まる。
お前も私を選ばないのか。
狂おしいほどに。
ポットの音が大きく聞こえて、もう頭が変になりそうだった。
ぱぱ。ぱぱ。
そう言って。無邪気に嗤う。
ゴポゴポ。ゴポゴポ。
私は。
ポットを手に取った。
目が覚める。
夏の日差しは強く。
私は嫌に汗ばんでいた。
そうか。
恐ろしいほどに。
私は冷静だった。
私は。同じ円の上を。
ずうっと行き来しているだけなのだ。
かんたんなことだった。
私は賢しいが、決して大人には成れない。
私はオンナだが、決して女性には成れない。
私は卑しい虫だが、決してヒトには成れない。
私の生き方がわかってしまった。
私の役割は。
淫らなオンナ、ファム・ファタールだ。
「ファム・ファタール」完
大学の友人、依田くんと呑んでいた時のことだ。
彼がくだを巻いて言う話が、殊の外面白かった為か、僕はその岸野さんに少し興味が湧いた。
とは言っても、僕は実のところ、岸野さんが苦手で、あまり好き好んで話したい相手ではない。
ただ。
こう言う、つまらない輩の、孤独を拗らせた自家中毒が、僕は三度の飯より大好きなのだ。
その夜。
僕は家に帰って、夜通し一枚の絵を描いた。
薄闇の中で、惨たらしく身を捩り。
膿み爛れた傷口を殊更に広げて見せつける。
淫蕩に身悶えする一匹の毒虫の痴態を。
思うに。
自ずから見た悲劇は、人から見た喜劇だ。
実に愉快。痛快。
本当に愚かしくて、味が濃くて良い。
こういう手合が、僕の人生に愉しみをくれる。
いやはや。全く持って岸野さん。
馬鹿でいてくれて、ありがとう。
君は本当に、最高に最低だな。