絶品スペアリブ
「あの娘は、婚約者がいる男性に言い寄る自分が、いかに浅はかであるか気づくことができるようになるわけだ。それは今、薄々分かっている状態とは比べ物にならない。羞恥すべきことを自身がしていると自覚するんだ。それでもなお、婚約者がいる男性を選ぶのか。それを見てみたいと思ったんだよ、私は」
「な、なるほど……。それは……そうですよね。……でもわざわざそのために、彼女に付き合うなんて……」
するとイエール氏はフッと笑い、紅茶を口に運ぶ。
「私はお人好しではない。だからこそ、対価も受け取るつもりだ。普通なら、あんな娘の個人授業なんて受け持たない。よってたっぷりいただくつもりさ。お金をいただけて、個人的な興味も満たされる。それに越したことはない」
イエール氏のこの言葉にはもう、ビックリするしかない。
でも彼が個人授業をすることで、この乙女ゲームの世界のエンディングが大きく変わるかもしれなかった。どんな風に変わるのか。それを見たい……という気持ちにもなっている。
「本当はここのカフェで個人授業ができたらと思うが、さすがに五席しかないのに、二席も占拠するわけにはいかないからな。おそらくあの娘の屋敷で行うことになるだろう。そうなるとこのカフェに顔を出す頻度も減るかもしれないが……。まあ、どうなるか、共に見守ってくれたまえ」
イエール氏はそう言って笑うと、席を立ったが……。
「そろそろ夜の営業に入るんだろう? たまには一杯飲んでもいいだろうと思っていた。片付けとオープン準備を手伝おう。一杯ご馳走してもらえないか?」
今日は、ロゼッタは画材屋の閉店作業もあるので、顔を出す予定がなかった。
イエール氏が片付けと夜営業の準備を手伝ってくれるのは……願ったり、叶ったりだ!
「イエール様、それはとてもありがたい申し出です。デグラン様、どうですか?」
「ああ、男手はあるに越したことがないからな。それに今日は絶品スペアリブがある」
そう、そうなのだ!
デグランは、ブラックシロップこと黒蜜をつかい、スペアリブを漬け込んでいた。いつもは蜂蜜を使うが、そこを黒蜜で代用したのだ。それをこの後、焼いてまかないとして出すつもりでいた。
私がこのことを話すとイエール氏は大喜びで、スツールを倉庫へ運んでくれる。デグランはティーアーンを片付けていた。私は洗い物をすすめる。
スペアリブと言えば、私の前世知識ではオーブン料理だった。だがここにオーブンはない。そこでデグランはフライパンで調理するという。
ということですべてが終わると。
デグランはフライパンを使い、器用にスペアリブに火を通す。
それは長年の調理の勘だと思う。オリーブオイルを適量フライパンに加え、まずは表を焼いて行く。焼き色がいい塩梅についたら、ひっくり返すのだが……それは完璧なタイミングでなされる。焦げはなく、香ばしい匂いを辺りに漂わせるいい焼き具合。
「これは……一杯飲んでから帰ることを決めた自分を褒めたくなるな」
再び定位置に座り、腕をカウンターにのせたイエール氏は、鼻をくんくんさせ、相好を崩している。イエール氏がこんな表情をするのは驚きだ。でもそれだけこのスペアリブから食欲をそそる香りが放たれているということでもある。
余分な油を取り除き、スペアリブを手早く返すと、タレを流し込む。さらに弱火にしてじっくり煮込んでいく。タレが焦げないよう、火加減に注意し、そして――。
全員のグラスにワインを注ぎ、完成したスペアリブが登場だ。
「これは本当に食欲をそそる香りだ。ここは乾杯でいいのかな?」
イエール氏がワイングラスを手に持つ。頷いたデグランと私もグラスを掲げる。
「ではイエール先生、お願いします」
デグランに振られたイエール氏は一呼吸置いて、そして軽やかに告げる。
「乾杯」「「乾杯!」」
まずは赤ワインを一口。
すかさずデグランが、ワインについて説明してくれる。
「この赤ワインはよく熟したブドウを使っている。香りも味わいも、とても芳醇。スペアリブの濃厚なソースとあわせても、引けを取らないだろう。ブラックシロップの香ばしさとワインのフルーティーな香りとのマリアージュも絶妙なはずだ。それを確認するには……実践あるのみ。食べよう!」
デグランの言葉通りで、ワインの後に頬張ったスペアリブは……最高! このワインとスペアリブの相性は抜群だった。何よりもスペアリブはフライパンで作ったとは思えない程、ジューシーで脂の旨味が詰まっている。さらにふっくらと柔らかく、ホロホロと骨から肉が離れていく。
「これは……おい、デグランくん、君は本当にただのパブリック・ハウスの店主なのか!? このクオリティの料理を出せるなら……王都で一、二を争うレストランのシェフになれるぞ。いや、これなら……」
デグランの経歴を知らないイエール氏は、あまりの美味しさに、目を白黒させていた。
しかもスペアリブが美味しいので、飲んでいるワインも進んでいる。
結局イエール氏は、まかないを食べ終え、赤ワインを飲み終わっても、帰る気分にはならなかったようだ。そのまま「ザ シークレット」のオープン時間になると、客として残り、もう少しお酒を楽しむと言う。
一方の私は、この絶品スペアリブをロゼッタにも楽しんでもらいたいと思った。そこで画材屋の二階の自宅へ、お裾分けとして届けることにした。まかないのお裾分けではなく、ブラックシロップを使った肉料理の試作品だからとデグランを説得して。
器に盛りつけたスペアリブは籠にいれ、通りを足早に画材屋を目指す。
自宅には教師をしているロゼッタの母親も帰宅しており、三人でワイン一杯分おしゃべりをして過ごした。その後は、ほろ酔い気分で馬車に乗り、屋敷へ戻った。