理想と現実
チラッとデグランを見て「まあ」と手で口を押さえている。
思いがけず街中でいい男を見つけた……そんな顔をしていた。
セーラはヒロインよね? こんなに惚れっぽかったかしら?
少しイラっとしながら、私は口を開いた。
「好きになったら一直線になる気持ちは理解できます。ですがその令嬢……お名前を既に聞いているのですが、そのニコール侯爵令嬢の胸の内もお聞きになっているのですよね? 婚約者が他の女性と仲良くしていることが、どれだけ辛いか、お話しされたのですよね? それを聞いても、なんとも思わなかったのですか?」
ロイヤルミルクティーを飲んだセーラは、盛大にため息をつく。
「申し訳ないと思っているわよ。でも彼はニコール侯爵令嬢のようなできる女より、わたしみたいな可愛い子が好きだって」
セーラもそうだが、ここは婚約者……第二王子のジョシュも悪いと思った。
だがそれをここで語っても意味がないだろう。
「王族との婚約というのは、貴族同士の婚約より、しがらみが多いものです。本人の意志とは関係なく、進められます。でもこれはある意味、仕方ない部分もあると思うのです」
これについては前世から私が思っていることでもあった。
リアルな歴史がそれを物語っている。
ロマンス小説の世界であれば、王族が愛のために何かしても仕方ないと思えるが、現実でそれをすると……。
「一つの国を、国として成立させ、その頂点に立つ国王の結婚。そこに愛のみを優先させたら、国の崩壊にもつながりかねません。相手が王太子ではなくとも、第二王子であっても、それぐらいの重みのあることなのです。よって王族との婚約の破棄というのは、そう簡単にできるものではありません。それは彼自身が何よりもよく理解していると思います」
そこでセーラは眉をくいっとあげ、こんなことを言う。
「分かっていますってば! そこで私への嫌がらせとか、何か婚約破棄につながることがないか調べているんです!」
まあ、そうするしかないだろう。
婚約破棄妥当の事由がない限り、セーラがジョシュと結ばれることは難しい。
少しアプローチを変えてみようか。
気づけば私は……ニコールの代わりに、なんとかセーラにジョシュを諦めさせたいという気持ちになっていた。
それは多分、私の気質が判官贔屓だからかもしれない。幸薄だったり、悲劇の英雄に、つい同情してしまう。
「仮に婚約破棄が成立した後。あなたにはどんな未来が待っていると思いますか?」
「それは勿論、薔薇色の未来よ! ジョシュと私は真実の愛で結ばれるの」
まだ十代だから。仕方ないと思う。
でも現実は、そんなに甘くはない。
ヒロインであるニコールは、ピンク色の瞳をキラキラと輝かせ、婚約破棄したジョシュと自分が結ばれ、そこに「真実の愛」があると語った。薔薇色の未来が待っていると思っている。
これに水をさすつもりはないのだけど……。
ただ、現実を知らせることにした。
「なるほど。仮に第二王子とあなたが婚約することになったとしましょう。でもそれは始まりに過ぎません。まず、王族との婚約ですから。これぐらいの厚みの婚姻契約書を締結することになります」
私が指でその厚さを示すと、セーラは目を丸くしている。
「当然、その道の弁護士を雇う必要がありますね。さらにその交渉には代理人を立て、早くて数週間、長引いて一ヵ月程、婚姻契約書の用意に時間がかかるでしょう。ご両親にはお金と労力をかけていただくことになります。そしてその間、非公式にあなたやご家族の身辺調査もなされると思います」
セーラはゴクリと唾を呑み、食い入るように私を見ている。
「見事、婚約成立となりますと、王室から各種支度金などをいただくことになり、ご両親は大喜びでしょう。次にあなた自身に、妃教育を受けることが求められます。王室の一員にふさわしくなるよう、教育を受けるのです。それはマナーから始まり、教養、ダンスだけではありません。外交に必要となる外国語の修得、各国の政治や文化についても知る必要があります。それを約五年程かけ、学ぶことになるんですよ」
「そ、そんな! ようやく学校を卒業するんですよ! それなのにまた勉強なんて……しかも外国語って、私は、そんな……」
あまりにも衝撃的だったようで、スツールから立ちあがったセーラに座るようにすすめる。「信じられないわ」と繰り返しながらスツールに座ったセーラに、さらなる事実を告げた。
「大変ですよね。ですが現在の婚約者であるニコール侯爵令嬢は、王立サンフラワー学園に通いながら、この妃教育に取り組んでいるのです」
「え……」
セーラは驚き、固まっている。
「学園から出る宿題や試験をこなすのも大変ですよね。同時進行で、ニコール侯爵令嬢は王宮に通い、妃教育を学んでいるのです。他のご令嬢が街に出てショッピングをしたり、観劇したり、舞踏会へ行っている時。彼女は必要最低限の社交をこなしつつ、学び続けているのです」
自身の焦りを落ち着けようと、セーラはグラスの水を一気に飲み干す。
私はピッチャーを手に、その空になったグラスに水を注ぐ。
「でもニコール侯爵令嬢と違い、あなたは学園卒業後に学べますよね。よかったのではないでしょうか。時間的に余裕ができて。ちなみに妃教育には修了試験もあり、それに合格しないと、結婚はできないそうですよ」
「そんな……。私、学校の成績も、ギリギリなんですよ。お父様が多額の寄付をしてくれて、それで補習や再試験を受けさせてもらい、なんとか進級できたぐらいなんです。その妃教育なんて、そんな、そんな……」