しかし不思議だな。
イエール氏は何を言うのだろう。
そう思ったら……。
「初恋が壊れるより、美しい思い出のままがいい? 駆け落ちしたってどうせ上手くいかない? 愛のない政略結婚をする。結婚後、旦那は女遊びを続けても、子供ができればなんとかなる――まさかそんなアドバイスを、ナタリー嬢は本気でしているのか? それが君の本音なのか?」
これはもうぐうの音も出ない。
なぜならこれが最善だとは、私はこれぽっちも思っていないのだから。
「それは……」
「違うのだろう?」
「!」
ズバリの指摘に私は黙り込む。
イエール氏は紅茶を口に運び、一口飲むと、話を再開させた。
「ナタリー嬢、君とは出会ってまだ日が浅いし、深い会話を交わしたわけではない。それでも私は君の働きぶりと、接客態度を毎日見てきた。これまで沢山の恋愛相談に乗っている。その時のアドバイスは、実に論理的で納得のいくものだった。人間の感情という不確かなものを扱いながらも、一理ありと思わせるもの」
そこで一息ついたイエール氏は厳しい顔つきになる。
「だが、今のアドバイスはなんだ! ナタリー嬢。全然君らしくない。本音を隠し、当たり障りのないことばかり、並べていると思う。いつもの君がするアドバイスとは、全く違う」
これは図星なので、何も言えない。
「ナタリー嬢、君がこちらの令嬢と同じ立場だったら、初恋を思い出に、愛のない結婚をするのかね? 甲斐性のない、しょうもない旦那の浮気を許し、その男の子どもを生むつもりなのか?」
「イエール先生、そう責めないでください。きっとナタリーお嬢さんにも、事情があるのでしょう。……ナタリーお嬢さん、こちらの令嬢へのアドバイスとしてではなく、君の本音を話してみるのはどうだろう?」
デグランがイエール氏に「待った」をかけ、私が弁明できるようにしてくれた。
もうこの騎士のようなデグランの行動には、感動してしまう。
そうなのだ。
アドバイスとして話すことはできない。でも本音としてなら、いくらでも話せると思った。
「ありがとうございます、デグラン様。イエール先生、そしてご令嬢。今から話すことは、アドバイスではなく、私自身の話です。よって参考には、まったくならないかもしれません。それでもよろしいでしょうか?」
令嬢はこくりと頷き、イエール氏は「ああ、それこそ望むところだよ」と笑顔になる。
そういえばイエール氏は、ここへ来たばかりの時は、頬がこけていた。
でも今は頬の窪みがなくなり、顔つきが柔和になった。
ひょろっと痩せ過ぎて、怖い印象もあったのに。でも顔つきが変わったせいで、キツイ言葉を言われたはずだが、私はそこまで傷ついていなかった。むしろ――指摘してもらえて良かった、と感じている。
「実は私、伯爵家の令嬢です。年齢は二十なので当然ですが、縁談話が出ています。ですが両親が持って来る縁談相手は、すべて家同士の利益につながるか、政治的にうまみがあるか、そんな基準で選ばれた相手ばかりです。とても『分かりました』と首を縦にふることができません」
この話を誰かにするのは、初めてのこと。
デグランは勿論、バートンも驚いた表情で、私の話を聞いている。
令嬢はパンケーキを食べ、紅茶を飲み、おっとりとした顔のまま話を聞き続けていた。
イエール氏は紅茶を飲みつつ、表情を変えることなく、話を聞いている。
「持ち込まれた縁談話を断り続ける――そんなことを繰り返していれば、いずれ私は、両親から勘当されるかもしれない。そうなった時、一人でも生きて行けるように。少しずつでもお金を稼ぐ方法を手に入れたいと思い、このカフェを始めたのです。つまり私は、政略結婚をするつもりはありません。そうなるぐらいなら、親に勘当されても、一人で生きて行く覚悟をしたのです」
遂に全てを話してしまったと思うが、後悔はない。むしろスッキリしていた。
すると突然、拍手が聞こえ、驚いてしまう。
しかも拍手をしているのは、イエール氏だ。
「素晴らしい。満点だ。これぞ、ナタリー嬢だな。君らしい行動力だ。これは誰もが真似できることではない。よってその行動は、参考にはできないだろう。同じように何か事業を始め、成功する保証はない。だがその思考方法は、間違っていない。役立つだろう。精神的に自立する。自分は、自分の意志でここに立っている。それを自覚できているか、できていないかで、世界は大きく変わる」
「自分の中で軸となる考えがあり、そこがぶれなければ、自身の周囲で起きる出来事に、翻弄されないで済む――ということですか?」
デグランが問いかけると、「そうだ」とイエール氏は頷く。
「ぶれずに生きることは、難しいだろう。だがそれができれば、無駄に感情に流されず、冷静に対処できるはずだ。ある哲学者はこう説いている。『人は抵抗することで、主体性を取り戻すことができる。その自我の意識が、幸福につながる』と。どうだろう、ご令嬢、伝わっただろうか?」
おっとりした表情のまま、パンケーキを食べ終えた令嬢は、ナプキンで丁寧に口元を拭いていた。この令嬢に、今のイエール氏の言葉、伝わったのかと思ったら……。
「このパンケーキ、大変美味しかったです。……まるで王宮で開催されるお茶会で出されるレベルでした。ごちそうさまです」
そう言ってデグランに微笑んだ。
「ただこれは、伝統的なパンケーキとは異なります。きっとこのパンケーキを考案されたのは……ナタリーさん、いえ、シルバーストーン伯爵令嬢、あなたなのでしょうね。さすがですね、このカフェを自ら経営しようと考えられただけありますわ」
驚いた。ナタリーという名前と伯爵家という情報だけで、私がシルバーストーン伯爵家の人間だと分かるなんて! 高位貴族は、多くの貴族の名前をインプットしていると聞いたことがある。それだけの社交能力が求められるからだ。そうだとしても、十五歳なのに! それに数が少ない公爵家とは違う。伯爵家の数は、それなりにある。さらに嫡男長女でもなく、次女の私のことまで、覚えているなんて。しかもこんなにおっとりとしているのに。すごいわ。
「イエール先生の言う哲学者が、どなたかは分からないですが、いい言葉だと思いますわ。まさにシルバーストーン伯爵令嬢の生き方を、表現しているようですもの。わたくしなりに、学ぶことができたと思いますわ」
そう言うと令嬢は、私とイエール氏に、順番に優雅に頭を下げる。
咄嗟に私はカウンターの中でカーテシーをして、イエール氏は自身の胸に手を添え、お辞儀をした。
「そしてわたくし、こちらのカフェへ来て、心底良かったと思いました。皆様の話を自分なりにじっくり考え、今後の行動にいかしていきたいと思います。残念ながら今日はもう、帰らなくてはならないのですが、また遊びに来てもいいかしら?」
そう言いながら令嬢がスツールから立つと、カランコロンと音がして、向かいの店にいた二人の護衛騎士と侍女が店内に入ってきた。
「もちろんです。お気に召していただけたなら、光栄です」
すると令嬢は「ふふ。ありがとうございます」と微笑み、侍女に声をかけた。
そしてカチンと音がして、カウンターに置かれたのは、これまた金貨!
「わたくし、普段、あまりお金を持ち歩かないの。スリが怖いでしょう。ですからこれでしばらく、よろしいかしら?」
つまりイエール氏と同じ。先払いしておくから、これで保つ間はよろしくね、ということだ。
「も、勿論です! ぜひまたいらしてください」
「ええ、気に入りましたから。今度はお友達やお兄様も連れてきますわ」
「はい! お待ちしています!」
令嬢は完璧なカーテシーをして、前後を護衛騎士に守られ、侍女と並んで店から出て行った。
「ナタリーお嬢さん、おめでとう! 常連さんができましたね」
バートンがカウンターから出て来て、空になったお皿を片付けながらウィンクする。
本当に。
常連さんがつくことはありがたい!
彼女が常連さんになってくれたのは、彼のおかげでもある。
そこで私はイエール氏に御礼の言葉を伝えた。
「イエール先生、私が間違った道を進みそうになったところ、ストップをかけてくださり、ありがとうございます」
「まあ、そこの功績は私だろう。だが君に本音を話すように告げたのは、彼だ」
イエール氏の目線が、バートンから受け取ったお皿を洗うデグランに向けられる。
確かにそうだ。
デグランが、アドバイスとしてではなく、本音を話すよう、すすめてくれたのだ。
「彼は……本当にただの調理スタッフなのか? 洞察力が優れているし、場の状況の見極めも完璧だ。なんというか大勢を従え、指示を出せる立場で仕事をしていた人間に思えるが」
「イエール先生は、すっかり人間観察ができるようになりましたね」
「! そうだな。このカフェに来るようになってから、ナタリー嬢のことは勿論、あのデグランくんのことも、バートンくんのことも。ロゼッタ嬢のことも。どんな人間なのか、知りたいと思えるようになった。……不思議と屋敷で何かと私にまとわりつく爺やのことも……最近は気になる」
あれだけ他者に関心はないと言っていたのに。
「しかし不思議だな。私などより他者への関心がナタリー嬢は強いはずなのに。デグランくんに対して知らんぷりとは」