華佗れ!
「お久しぶりでございますな。荀彧さま」
「ああ。意外に清々しい顔をしているな。膝は治ったのか」
「完治はしておりませんが、私は医者でありますから。何とかなるもんですね」
薄汚れた俺の顔をなぜか目を細めて見ている。微笑だろうか。眩しいのだろうか。
「それで、何か用だと呼ばれたのだが?」
「荀彧さまのお手を煩わせることでもありませんが、割れた膝の治療に十分な栄養が必要でしてね。肉や魚、豆類などのたんぱく質を食事に増やしていただきたいのです」
「そうか。お前は当たり前に生きようとしているのだな」
「死ぬまでは生きております。ならば、より良く生きるのです。それが命でありましょう」
「そうだな。ああ。そうだ」
うなずきながらも、なぜか荀彧殿の目じりに涙が光った。
そうか、曹操の具合が悪いのだな。間近に死を迎える人が居るのは辛いだろう。
辛いのはもちろん本人ではあるが、近しい人もまた同じく辛いのだ。いや、死ぬ側は病との戦いだが、残された方は死に向かう彼の人と、その死後の戦いもあるのだ。
「痛みはありますか?」
名は入れずに聞く。
「ああ。痛みが辛いようだ。時折錯乱することもある。ずいぶんと、おやつれになってしまった」
荀彧殿は手を後ろで組み背中を向けている。
少し上を見ているのは空だろうか。
俺はドクターバッグから薬瓶を取り出した。
モルヒネだ。1800年に発見されたモルヒネが入っていた。
皮下注射ではなく、経口の鎮静催眠薬だ。俺の時代だってない。ラベルを見た時には驚いたものだ。
背を向けている荀彧の手に瓶を滑り込ませた。
「これは痛みを取り除き、催眠効果があります。最後の時が苦しむようでしたら、薬を水と一緒に飲ませてください。6時間おきに2錠で良いでしょう。
良いですか、最後の時です。お間違いのないように」
後ろを向いたまま、荀彧は瓶を手の中で転がしていた。
柵から離れると同時に瓶を懐に入れた。
「食事の件は改善しよう」
そう言って歩き去った。
その夜から食事は酒付きで豪華になり、牢屋番と一緒に相伴しながら食べて飲んだ。
2ケ月後の事だった。
城の鐘が鳴り響いた。
あれは何かと聞いたら、崩御だと牢屋番は泣きながら言った。
そうか。
逝ったか。
お疲れ様。曹操。
翌日、白い布のたなびく中、白い衣に身を包んだ荀彧が来て牢屋を開けた。
「お前が生き延びたな」
「はい」
「彼のお方は、苦しまずに逝った」
「そうですか。良かったです」
「良かったと言うのか。思うのか?理不尽に膝を割られて半年も牢屋に入れられていたのだぞ」
「死に逝く人というのは我が儘になりますからね」
「っふふ。それが、お前の答えか。罪咎なきお前に無用の罰を与えたことを詫びる」
浅く頭を下げられる。
ゆっくりと牢の外に出た。歩ける。なんて人の身体とは強靭でしなやかなのだろう。
「これを持って行け。薬代だ」
片手で持つには重い布袋はヂャリと金属同士のこすれる音がした。懐に入れる。
「ありがとうございます。それでは、お元気で」
俺はドクターバッグを持って外に出た。
城のいたるところに白い布が風に揺れている。
その中を歩き、門も開けられ外に出た。
悲しみに暮れる町を顔をあげて歩く。
悲しいか。悲しくはない。憎いか。憎くはない。だって、曹操は生きたかったのだ。
「よう。おつかれさん」
聞いたことのある声だな。振り返ると華佗だった。
ちょっとムカついた。
「普通に痛てぇじゃねぇか。膝割られたんだぞ。牢屋に半年入れられたんだぞ」
「悪い悪い。その割には肌艶良いし、歩けているじゃんよ」
「医者だからな。粘土で固めてサポーターを作ったよ。後は牢屋番と仲良くなって食事を改善してもらった」
「なかなか上手くやったじゃないか」
「そうか?華佗としては足りなかったんじゃないか?」
「いやいや、十分、十二分さ」
「そうかね。ドジ踏んだから牢屋に入れられたんだろ」
「その場で死刑になるケースもあった。牢屋で死ぬケースもあった。足が腐っちまう事だってあったんだ。お前さんは良くやったよ。あの気性の激しい曹操に死の準備を受け入れさせたんだからな」
「げぇ。もっと酷いケースがあったのかよ」
「もっと、もっとな。足を折られて豚小屋に入れられる事もあったしな」
「なんだよ。生きたまま豚のエサかよ」
「そうそう」
「ひっでぇなぁ。そんな場所に送り込んでさ」
「すまんねぇ。お前さんじゃなきゃダメだったんだよ」
「なんだよそれ」
すすり泣きが小さく響く町を男が二人歩いている。
足取りは軽やかだ。
町の家々の戸口に白い布が下りている。
「しかし、お前さん、足の施術が巧いこといったねぇ。普通に歩けるじゃん」
「まあね。でも足はこれ以上上がらないし正座は出来なくて階段は辛いんだ。膝が痛くてね」
「まあ、それは戻してやるよ」
「そうなのかい。ああ、良かった。風呂にも入りたいな」
「良いんじゃないかい。そろそろ、お前さんの世界に戻る時だ」
「え?」
思わず立ち止まる。
「ワシは医聖じゃ。お前さんがこの世界に必要なだけじゃなく、お前さんの世界にワシの痕跡が必要だったんじゃ」
「華佗の痕跡?」
「そう。お前さんの人の身体に対する神聖な気持ちさ。
お前さんはこれから伸びるぞ。人の強さを信じているんじゃからな。
この時代に良い医者が必要だった。それがお前さんさ。
そして、お前さんの時代にも、もっといい医者が必要なんだ。
それも、お前さんさ。
奢らず励めや。
人の命の力を信じろや」
いつの間にか、華佗の歩みが早くなっていた。
するすると華佗が前に進む。
そして、白い布がたなびく靄の中に歩き去って行った。
うーん?
仮眠室で起き上がった。
なんだか壮大な夢を見たな。
チャリン。
何か落とした。
十円玉か?拾ったら四角い穴の開いた銅貨だった。
ああ、五銖銭か。俺は知らない事を知っていた。図鑑で見た事でもあったっけ?
本物なわけないか。
だって、2140年も前の金なんだぜ。
銅貨を掲げ、四角い穴から窓の外を見た。窓の外には都会の朝が始まろうとしている。
「人って、すげぇんだよな」
そんな言葉が口から出た。いったいなんだ?
可笑しい。変だ。でも、なんだろう。俺は医者で良かった。
夜勤は昼の12時までだ。
もう少し寝ようかな。
いや、新しい手術法が発表されてないか確認するか。
薬も手術も日進月歩している。医者とは常に前に進まなきゃいけないのだ。
新しい術式が出ていないかネットで論文を探してみる。「脳外科」という科はまだ新しく、そして深いのだ。
没頭している男の顔がモニターの光に浮かび上がっていた。
白い鍾乳洞にたたずんでいる華佗が、医聖の種が芽吹くのを感じて微笑んだ。