68 犬丸
古能代の住まいの近くまで来ると、年の頃なら三十少し前に見える女が一人道端に立っていた。
「庫裡香、待たせたな」
祖真紀が声を掛ける。女は黙って頭を下げた。年の差は有るが、芹菜が一番親しくしていた女だ。
庫裡香は、芹菜を妹のように可愛がっていたし、他人に甘えることの殆ど無い芹菜が、この女にだけは懐いていた。
黙って頭を下げると、庫裡香は一番後ろから従って古能代の住まいに入った。端近に腰を降ろす。
「朝鳥殿、庫裡香はご存じで御座いましょう」
租真紀が朝鳥に問う。
「うん、芹菜と親しくしておった女子じゃな」
「はい。左様で。実はこの女子から聞き及んだこと、吾一人の胸に収めておこうと思ったのですが、やはり、朝鳥殿には知って置いて頂いた方が良いと思いまして。古能代、汝にも伝えて置く」
「何事か?」
朝鳥が祖真紀を見る。
「庫裡香、汝から話せ」
「へえ。…… 吾には四人の子がおります。その、何と言うか、身籠った時、どう成るかということは良く知っているということで御座います」
朝鳥の目が動いた。
「それで、吾は、芹菜が身籠っていたのではねえかと思うんです」
「確かなことか?」
朝鳥が尋ねる。
「吾はそう思うております」
「…… 六郎様の……」
「はい。それ以外には考えられません」
祖真紀が答える。
「…… もし、そうであったとすれば、悔やまれるのう。他に誰か知っている者はおるのか?」
「いえ、腹が出て来ていた訳でもねえですし、吾は誰にも話していません。気付いている者は、他にはいねえと思います」
「そうか」
「そこで御座います。吾は、このことはここにおる者だけの秘密にしたいと思うております。この者にも、親兄弟にも話さぬよう伝えてありますし、六郎様にも殿にもお伝えしない方が良いと思います。いかがお考えですか、朝鳥殿」
「ふ~ん。…… 生まれて来たのであれば兎も角、生まれもせぬうちに死んだ子が居たと知って、六郎様に取って良いことは何も無い。余計にお心を乱すだけであろうのう。…… だが、殿にも報せぬと申すか?」
「はい。たかが蝦夷の娘が身籠って、生まれる前に死んだ子で御座います。殿にお報せする程のことでは無いかと思います」
「どうも、そのような言い方は好かぬが、一理有る。分を弁えてという訳か……。成る程、命の気持ちも分からぬでは無い。
…… したが、なぜ麿に話そうと思うた。己一人の胸に収めておこうと思ったと申したが……」
「はい。今は六郎様にお伝えせぬ方が良いと思います。しかし、いつの日にかお報らせしたいと思いまして」
「いつの日にか……」
「はい。お心乱さずに、お聞き頂けるようになった時……」
「なぜ?」
「何と申しますか…… 我等と六郎様を結ぶ命が、この世に生れ掛っていたことを、いずれ知って頂きたい。そんな気持ちが湧いて参りました」
「そうか…… それをお伝えするのが麿の役目という訳か。
分かった。引き受けよう。麿の今際の際に残す言葉が出来たわ。
…… だが、その暇も無く死んだ時は、古能代。そのほうがお伝えしてくれ」
「承知致しました」
「それにしても、芹菜。哀れよのう。せめて、あと一年生きてくれれば、この世に残すものが出来たというに」
「真に、人の命とは分らぬもので御座います」
「我等、年寄りから順に死んで行けば良いのだが、そうも行かぬ。若い者が短い命を散らすのを見るのは真に辛きことじゃ」
「左様で御座いましたな。朝鳥殿は三人のお子を亡くしておられるのでしたな」
「…… 麿のことはさて置いて、親や祖父母以外の大事な人を失うには、六郎様は余りに若すぎる」
「左様で御座いますな」
「だが、耐えて、乗り越えて頂かねばならぬ。そして、もうひと回り大きくなって頂かねば……」
「庫裡香。御苦労であった。戻るが良い。くれぐれも他言せぬようにな」
「へ。分っております。では、皆様方、吾はこれで」
庫裡香が出て行くと朝鳥の方に、祖真紀が体を向けた。
「で、相談事とは何かな?」
朝鳥が尋ねる。
「古能代が跡を継ぐということは、祝い事になりますが、今は憚られます」
「うん」
「ゆえに、倅が郷長を継ぐことも、祖真紀を名乗ることも、暫く先送りしたいと思います。
良いな、古能代」
「異存は無い」
「ただ、お役目の差配は全て任せようと思うております。しかし、郷人の暮らしやその他の雑事に関しては、引き続き吾が行い。少しずつ教えて行きたいと思うております」
「うん。探索や戦いに付いては、誰も古能代の力を認めておろうから、それで良いのではないかな」
「有難う御座います。只、倅には郷長として決定的に足らぬものが有ります。
不器用な男で、時と場合に寄って受け答えを変えたり、時には事実と異なる事を言わねばならぬ事も有ります、それが出来ませぬ。
ただ、有りの儘の己を見せるだけでは、多くの者を束ねて行く事は難しゅうございます。時には、己を隠す事も、郷長として必要な事ではあります。
しかし、一方で、己が郷をどうして行こうとしているのかを、郷人に伝え、不満や不安を吸い上げて、間違い無く対処して行くことも必要です。
出来ることは速やかにやり、出来ぬことは何故出来ぬかを分からせる必要があります。
今の倅にそれは出来ますまい。元はと言えば、強さに拘る余り、このような性格に育ててしまった吾に咎が有るのですが……」
古能代は、ただ黙って祖真紀を見ている。
「何、立場が人を変えると申す。古能代とて、その立場に立てば自ずと変わって行こう」
と朝鳥は言ったが、心中では、祖真紀の心配も尤もなことだと思った。
「人の性格と言うものは、そう簡単には変わりますまい。倅に気楽にものを言える者がどれ程おりましょう。
何かを相談しようとしても、ひと言で済まされてしまって、後の言葉を継げなくなってしまうのではないかと思う者が多くおれば、郷人の声は届かなくなります」
「で、どうしようと言うのだ?」
「はい。倅もそのことは以前より自覚しております。吾は古能代に、己に足らぬところが有れば、それを補う者を側に置けば良いと申しました」
「うん。成る程。で、心当たりでも有るのか?」
「犬丸で御座いますよ」
「何、犬丸?」
「はい。犬丸は強さでは、夜叉丸や秋天丸に到底及びません。しかし、誰とでも拘り無く話せ、すぐに親しくなれる性格です。古能代の補佐役としては最適と思うております」
「うん。確かに、古能代に取って良き補佐役と思えるし、犬丸に取っても、己の才覚を生かせる道とは思う。
…… だがな、犬丸は六郎様の郎党だ。それに、郎党になれた時、本人は元より、親たちも芹菜もどれほど喜んでいたかは、聞き及んでおろう。今、犬丸を郎党から外すようなことをすれば、芹菜が死んだ為に外されたと思うのではないか? 第一、六郎様が承知されまい」
「はい。このような時に、私事で何を申しておるのかと朝鳥殿もお思いでしょう」
「思う。思うが、祖真紀という男、そんな単純な男では無いとも思うておる。何を考えておる」
「いえ、それは買被り。長いこと仲の悪かった親子でも、親から見れば子は子。この古能代に、何とか無事に郷長を務めさせる為にはどうすれば良いかと考えていたことを、申し上げてしまっただけです。
時も弁えず。申し訳御座いません」
「犬丸を六郎様から離した方が良いと思うておるな。何故か?」
「ふ~ん。困りましたな。そう仰られては。
…… 犬丸が側に居ては、六郎様の中で、芹菜の影が薄れるのが遅くなるのではなかとは思います。それが、六郎様に取って良いことかどうか。まあ、手前が斟酌することでは無いとは思いますが……」
「麿に考えよと申すか?」
「いえ、そんな僭越なことは思うておりません」
「ふ~ん。犬丸に取っても、古能代に取っても、又、六郎様に取っても良きことかも知れぬ。
だが、犬丸がそう取ってくれるか。又、六郎様が承知されるか。それが問題じゃな」
「犬丸には吾から頼みましょう」
古能代が口を開いた。
「では、六郎様には麿からお話しすることになるな」
「どうで御座いましょう。六郎様の郎党としての身分はそのままにして、古能代の補佐を務めて貰うことは出来ませぬでしょうか」
「うん? しかし、いずれにしても殿のお許しが要ることになるぞ」
「殿は、いずれこの郷のことは、全て六郎様にお任せになるおつもりではないでしょうか?」
「やはり祖真紀、読んでおるのう」
「いえ、出過ぎたことを申したらお許しください」
「命には、この郷の将来の姿が見えているな」
「こう有ってって欲しいと思う姿は、描いております」
「古能代、そのほうはどうじゃ」
「親父とは違うかも知れませぬが、吾なりには……」
「そして、その描いている絵の中に、犬丸の姿が有るという訳か……」
「はい」
「ふ~ん、そうか。気付かなんだのう。
確かに今のままでは、犬丸は郎党として、夜叉丸や秋天丸を越えられまい。しかし、古能代、つまり次の祖真紀の補佐役となれば、己の才覚を生かし切ることが出来るやも知れぬ。それは、芹菜の供養になることかも知れぬな。
分かった。したが、急ぐことでは有るまい。考えて置く」
「宜しくお願い致します。元より、吾も急ぐつもりはありませんので」
犬丸も帰し、千方は一人になっていた。
腕を頭の後ろで組み、大の字になって屋根裏を見詰めている。
『芹菜はなぜ死ななければならなかったのか』
そう考えていた。それが、定めと言うものだったのだろうか。だが、千方は『定め』と言う言葉が好きでは無い。
全てを”定め" という言葉で片付けてしまったら、考えることも努力することも意味が無くなってしまう。全て、己が選んだことの結果、己がして来たことの結果だと思っている。また、そう思うよう教育されても来た。
自力救済。それが坂東に生きる兵の生き方だ。戦うのも己が選んですること。その結果死んでも仕方が無い。
体力、気力で敵に負けることもあれば、考えが及ばぬ為に敵の策に嵌る場合もある。
しかし、それは決して『定め』などと言うものでは無い。全て、己の力が、己の考えが、敵に及ばなかったという理由しか付けられないものだ。
運と言うものも有るだろうが、それに頼った時は負ける。運は頼るものでは無く、飽くまで結果でしかない。そう考えて来た。
しかし、病は違う。誰が芹菜の命を奪うことを決めたのか。少なくとも芹菜自身では無い。そして、他の誰でも無い。それを定めと言うのか。
或いは、神とか仏とかいう者が決めることなのだろうか。
『そんな神や仏なら要らない』と、千方は思った。
時を戻せるものなら、戻したいと強く思った。そして、出来ることでは無いとも思った。
受け入れるしかない。だが、芹菜の死を知らず、能天気に陸奥で遊んでいた己が悔やまれる。
死を避けることが出来ないのであれば、せめて、もっと濃密な時をふたりで過ごしてやれば良かったと思う。
だが、何を思ってみても、何ひとつ起きたことを変えることは出来ないのだ。




