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66 喪失 1

 帰って来たと言う安堵感がどこかに有る。


 生まれ故郷の武蔵(むさし)では無いが、坂東と言う(くく)りの中では、やはり故郷と言う感覚が沸いて来る。

 陸奥(むつ)での日々は楽しかったが、故郷に帰ったと言う安堵感はそれとは別物と言える。

 だが、千方が生まれ育った武蔵(むさし)の風景は}下野しもつけとは違う。


 川越しに見る山々は飽くまで遠く、空と溶け合った背景であり、現実感の無いものであった。冬の寒い日にはくっきりと見えるが、春からは、彼方に朧気(おぼろげ)に霞んでいるか、薄雲に隠れている。


 千方は幼い頃、山が目の前に有るとか、そこに登ると言うことを現実の感覚として捉えたことは無い。山々は、空や雲、或いは陽や星と同じように、飽くまで背景として存在していたに過ぎ無いのだ。


 草原(かやはら)(現・埼玉県加須市、羽生市付近)は、利根川が氾濫と流路の変更を繰り返し、運んだ土砂が堆積して作り上げた自然堤防の上に位置している。

 南を見渡すと山は無く、どこまでも平坦な土地が続き、地平線を大きく遮るものは存在しない。

 埼玉県は今でも、日本一高低さの少ない県であるが、この辺りは特に平坦な土地が続いているのだ。


 自然堤防の上に人々が住み、その南には湿地を改良して開墾した田畑が続く。周りには、湿原の葦の原や、乾地の雑木林が散在する。湿原から水を抜く為の掘割が数多く掘られていて、池や沼も多い。

 それが、千方が幼い頃より馴染んで来た故郷の風景なのだ。

 だから、千常(ちつね)に従って初めて下野(しもつけ)に来た時、山裾(やますそ)まで(みち)が続いていて、登ることが出来ると言うことに驚きを覚えた。


 三日目に山に分け入った時、普通であれば感動とも言えるほどの感覚を味わっていた筈なのだが、どこに連れて行かれるのかと言う大きな不安が存在した為に、その感動は、意識の奥に閉じ込められた。


 初めて来た時、下野(しもつけ)とは山国なのだなと思ったが、今にしてみると、丁度、武蔵(むさり)陸奥(むつ)の中間的地形を持った国だったのだと思う。


 しかし、実のところ、千方は下野(しもつけ)を良く知らない。殆どの期間を山中で暮らし、平地を歩いたのは、来た時と、初冠(ういこうぶり)の為、宮の二荒山大明神ふたあらやまだいみょうじんに出向いた時、それに、陸奥(むつ)に旅立つ時の三度だけだ。それなのに、下野(しもつけ)に入った途端、故郷に戻ったと言う安堵感を覚えたことが、千方自身不思議に思えた。


 千方一行は、まず安蘇郡(あそごおり)・佐野に向かい、千常に挨拶を済ませてから北上し、唐沢山(からさわやま)西麓(せいろく)の田沼に有る秀郷(ひでさと)の隠居所を訪れることにした。


 東山道から佐野に入る。

 久し振りに千常の住む舘の門を潜ると、顔馴染みの郎党が、すぐに舘の奥に走って行った。


陸奥(むつ)からのお方は、あちらに酒肴(しゅこう)など用意しておりますので、ご案内いたします」


 別の郎党が葛良(かずら)らに声を掛ける。


多岐(たき)殿、世話になった。のちほど挨拶に参ろうと思うが、まずは(くつろ)がれよ」


「では、お言葉に甘えまして、そうせさせて頂きます」


「殿はおられるのか?」


 人も舘の隅々までも知り尽くしている朝鳥が、又、別の若い郎党に声を掛ける。


「はい。おられます」


藤三(とうざ)。子は生まれたか?」


「次の月になりましょう」


(かか)身重(みおも)の時に女子(おなご)遊びなどするで無いぞ」


「まさか……」


「親父殿は達者か?」


「それが、このところ調子が悪く。寝たり起きたりですわ。朝鳥殿のように、元気であってくれれば良いのですが」


「何、あの男得意の仮病であろう。そのうちケロっとして元気になるわ。心配するな」


「全く。朝鳥殿に掛っては(かな)いませぬな。そうあってくれれば良いのですが……」


 そんな会話を交わしながら、朝鳥は、ずかずかと奥に通って行く。何十年も過ごした舘である。


 千方も朝鳥と共に奥へ進むが、心の中は何となく落ち着か無い。初めて来た時に 足掛け三日滞在したとは言え、その後、二度しか訪れたことが無いのだから無理も無い。まして、夜叉丸(やしゃまる)秋天丸(しゅてんまる)に至っては尚更である。


 広間に入ろうとして、一瞬、千方の足が止まった。何と、千常が既に奥の上座に坐っている。


「これは兄上。只今(ただいま)戻りまして御座います」


 そう言って中程まで進んで、胡坐(あぐら)()き、両の拳を床に突いて一礼し、千常と対座する。

 

 朝鳥、古能代(このしろ)日高丸(ひだかまる)の手を引き高巳丸(たかみまる)を抱いた小鷺(こさぎ)、その後ろから夜叉丸(やしゃまる)秋天丸(しゅてんまる)。それぞれ腰を低くして進み、千方の後ろに席を取って、同じように一礼する。


 千方は顔を上げた。その時、千常の顔が、何となく憂鬱そうに見えた。


「うん。大儀であった。古能代(このしろ)()と子らか?」


「はっ。小鷺(こさぎ)と申します。それに、上が日高丸(ひだかまる)、下が高巳丸(たかみまる)に御座います。こたびは、我儘をお聞き入れ頂き、連れ帰ることが出来ました。

 殿並びに大殿様の御配慮、(かたじけな)く思うております」


小鷺(こさぎ)に御座います。お見知り置きを」


「うん。古能代(このしろ)を支えてくれ、頼むぞ」


「はい。及ばずながら」


「六郎。陸奥(むつ)如何(いかが)であった?」


「楽しゅう御座いました」


「そうか。それは良かった。朝鳥、大儀(たいぎ)であった」


 千常の目が、古能代(このしろ)暗殺が現実にならずに済んだ事に付いての安堵を朝鳥に伝えており、朝鳥もほっとした気持ちを目に込めているが、それは、二人だけに分かる沈黙の会話である。


「いえ。麿も楽しませて頂きました。それに、またひとつ、六郎様は大きくなられましたぞ」


 朝鳥の口から出る言葉は、千方の成長に付いてである。


「…… そうか。六郎。人の世には色々なことが有る。だがな、(つわもの)は、常に強くあらねばならぬ。良いな」


「はっ」


一休ひとやすみしたら、(さと)に帰るが良い」


「兄上。陸奥守(むつのかみ)平貞盛(たいらのさだもり)様には一方(ひとかた)ならぬお世話になりました。(さと)に戻る前に、田沼の父上の}もとに参り、帰郷の御挨拶方々(かたがた)その(むね)申し上げとう御座います」


「それは、麿から申し上げて置く」


「しかし、……」


と千方が言い掛けた。


 父に直接伝えると貞盛(さだもり)に約束したことが心に掛っていた。それに、吉利(きり)のことも直接頼みたかった。


「良いから戻れ」


「実は、父上にお願いしたき儀も御座いまして」


「何か? 急ぎのことか?」


「はい。出来れば」


「申して見よ」


「はい。実は夜叉丸(やしゃまる)が」


 千方がそう言い掛けた時、


「六郎様、そのことなら宜しゅう御座います。(さと)に帰りましょう」


夜叉丸(やしゃまる)が割って入った。


夜叉丸(やしゃまる)案ずるな。兄上のお許しを得て、父上の(もと)へ参る」


「何事かは知らぬが、父上には麿から申し上げて置く。今は帰れと申しておるのじゃ」


「何卒、お聞き入れ頂きとう存じます」


(くど)い! 言うことを聞け」


「兄上、実は夜叉丸(やしゃまる)、いえ、小鷺(こさぎ)殿に取っても良きことで御座います」


「麿の言うことを聞けぬのか」


 千常が千方を睨み付けた。察した朝鳥が、


「六郎様!」と声を出す。


 その時、いきなり立ち上がった千常が、つかつかと千方の傍まで歩み寄り、頬を殴った。


「さっさと立ち戻れ!」


 そう一括すると、どたどたと足音を立てて、千常は広間を出て行ってしまった。


 武蔵(むさし)から来たばかりの時のようには、千方は飛ばされもしなかったし、(おび)えてもいなかった。憂鬱な目をして、左手で殴られた頬を(さす)った。

 突然、高巳丸(たかみまる)が激しく泣き始めた。日高丸(ひだかまる)は恐怖に固まっている。小鷺(こさぎ)は戸惑って、必死で高巳丸をあやす。

 何が有ったのかと朝鳥は考えていた。そして、


「六郎様、戻りましょうぞ」


殊更(ことさら)のんびりとした語調を作って言った。


 初めて兄に逆らった。貞盛(さだもり)への約束を守る為と夜叉丸(やしゃまる)を思ってのことだ。

 それが、理由も分からず拒否された。兄を理不尽(りふじん)な男だと思った。


『何も郎党達の目の前で殴ることは無いだろう。幼い童も同席しているのに』

 そう思った。


 千方は唇を噛んで暫くの間、(くう)を睨んでいたが、やがて笑顔を作り、立ち上がって振り返り、


「子らを驚かせてしまったな。小鷺(こさぎ)殿、済まぬ」


と言った。


「いえ、こちらこそお騒がせ致しまして」


「六郎様、もう、吉利(きり)のことは宜しゅう御座います。手前のことで殿を怒らせてしまい、申し訳御座いません」


 夜叉丸(やしゃまる)は、己が原因を作ったと思い詫びた。


「いや、貞盛(さだもり)様にお約束したことも有って、重ねてお願いしたのだ。そのほうのことばかりでは無い。詫びる必要は無い。むしろ、詫びねばならぬのは麿の方じゃ」


「いえ、そんな」


「六郎様」 


 朝鳥が呼び掛けた。


「殿は気の短いお方ですが、決して理不尽な方では御座いません。きっと、何か理由(わけ)があるはず。お詫びして、(さと)に参りましょう」


「…… 分かった。そう致そう」


 千方は、一人で廊下伝いに千常の居室に向かった。

 背を向けて書見(しょけん)をしているように見える千常に声を掛けた。


「兄上。入っても宜しゅう御座いますか?」


「入れ」


 振り向いた千常が、やや重い声音(こわね)で言った。

  千常の近くまで歩み寄り、腰を降ろし、改めて黙礼する。


「先程は申し訳御座いませんでした。(さと)に戻ります」


「うん」


「では失礼致します」


 立ち上がった千方を、千常が見上げる。


 千方は黙礼(もくれい)し、千常に背を向けて部屋を出ようとした。


「六郎……」


 その背中に千常が、そう声を掛けた。


「はい」


 振り向いた千方が答える。


「…… いや、良い。行け」


「はっ」


 千常は何を言おうとしたのかと、千方は思った。しかし、問い返さずに、黙って広間に戻った。


 皆、会話が余り無かった。初めて下野(しもつけ)に来た小鷺(こさぎ)に、来る早々嫌な思いをさせてしまったことを申し訳無く思った。


古能代(このしろ)小鷺(こさぎ)殿に嫌な思いをさせてしまった。済まぬ」


「いえ」


とだけ古能代(このしろ)は答えた。


 すぐに、佐野をった。

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