53 遠雷
「伝えると約束もしなかったのに、何故あの男は吾を解き放ったのだろうか?」
そう考えながら倶裳射は走った。つけられてはいないかと時々後ろの様子を窺う。だが、誰もつけて来る様子は無かった。
走りながら悩み、悩みながら走った。
意図は分らぬが何かの策略であるとすれば、同胞に対して大きな裏切りをすることになる。もし本当のことだったとしても、その情報の出所を隠すため阿弖流爲に対して嘘をつかなければならない。
己ひとりで決断するには余りに大きな事柄ではあった。かと言って誰かに相談出来ることでは無い。
「あの男の目に嘘は無かった」
悩みに悩んだ挙句、そう結論付けた。
万一騙されているとすれば、己の命を捨てることは元より、家族がどうなるかをも含めて全ての事態を覚悟するしかない。そう思った。
倶裳射の報告を阿弖流爲は信じてくれた。そして、胆沢の地を護る為、本拠地が|日高見川(現・北上川)の東岸に有ると大和側に思わせる工作に、直ぐに取り掛かった。
しかし、本当に己の判断に間違いは無かったのかという不安と、情報の出所に付いて阿弖流爲を偽っているという後ろめたさは、巣伏の戦い(延暦八年(七百八十九年))で阿弖流爲が大和軍に大勝するまで、倶裳射の心を離れることが無かった。
その後も倶裳射は情報の出所に付いては隠し続けていた。阿弖流爲が降服し、都に送られて首を刎ねられたと収容所で聞かされた時、何とも複雑な想いが倶裳射の心を支配した。
情報の出所に付いて、最後まで阿弖流爲に本当のことを言わなかったことへの後ろめたさ。
そして、『大和には勝てぬ。降伏するしか無い』と大鹿に言われた時、卑怯者の言い訳としか思わなかったが、今に成って見ればその通りだったことへの驚き。
『あの時、頭領に降伏を勧めていれば、頭領が命を落とすことは無かったのか』と思ったりもした。
しかし、それは単に己の心を慰めようとしているだけのことでしか無く、あの時点で阿弖流爲が降伏するということは、有り得無いことであったと分かってもいた。
安倍氏が胆沢の地に入って暫くして、倶裳射は大鹿と再会することになった。
大鹿は、始めに北の方に住む者達を説得しに回っていたが、その努力は殆ど報われていなかった。安倍氏に対する反発と冷たい視線が蝦夷社会に蔓延していた。
その中で大鹿は、
『大和の介入を避けて我等自身の手で日高見国を作り上げて行こう。その為には、騒ぎを起こさぬことと、苦しくとも決められた物を納めて行くことが今は必要なのだ。
不満かも知れぬが、今はそうすることが日高見国を作る為の唯一の道であり、他に道は無い』と説いて回った。
しかし、蝦夷達の心の中には『大和の手先となって大勢の同胞を殺して来た裏切り者が今更何を言うか。汝に身内を殺された者は多く居るのだ』と言うものだった。
阿弖流爲の部下達が住む郷へ大鹿がやって来て、郷の者達が集められた時、倶裳射は列の後ろの方から見詰めていた。
そして、『あの時の男だ』と直ぐに分かった。
大鹿は気付いていない。そして、いつものように大鹿が説き始めた。郷人達は、やはり冷たい視線を大鹿に投げ掛けている。
「吾も蝦夷だ。皆、分ってくれ。そして信じてくれ。吾は我等の日高見国を作る為、この世で残された命の全てを捧げたいと思っておる。
その為には皆の力が要る。吾に力を貸してはくれぬか」
皆、黙って下を向いている。敢えて逆らうつもりも無いが、従うつもりも無いと無言の意思を示しているのだ。
「ふ~っ」
と大鹿が大きな溜息を突いた。
「まあ良い。一度で分かって貰えるとも思わぬ。困ったことあらば、何でも言うて参れ。吾に出来る限りのことはするつもりじゃ」
「お待ち下さい!」
そう言って人波を掻き分けて走り出て来た者が居た。倶裳射だ。
「皆聞いてくれ!」
倶裳射が仲間達に向かって叫んだ。そして、両手を広げて語り始めた。
「皆に話さなければならぬことがある。吾は昔この方に命を助けられた。そればかりでは無い。あの巣伏の戦いに勝てたのはこのお方のお陰も有るのだ。
大和が大軍を以て我等の本拠を殲滅しようとしていることを最初に教えてくれたのはこの方なのだ。
吾はそれを頭領に報せた。もちろん頭領のこと、他の筋からも本当かどうか確かめたに違い無い。
だが、頭領が、我等の本拠が日高見川(現・北上川)の東岸にあると大和側に思わせるよう工作する為の時を稼げたのは、この方がいち早く教えてくれたお陰だ。…… だが、吾は誰から聞いたかを頭領に告げなかった」
「頭領を謀ったのか!」
誰かが叫んだ。
「…… そう言われればそうに違いは無い。巣伏の戦いに大勝した、その寸前まで、吾は慄いていた。もし吾がこの方に騙されているとすれば、吾は頭領を謀り、皆を裏切ったことになるからだ。
だが、吾はこの方を信じた。そして、それは事実だった」
「確かに、汝の言うことが事実であれば、恩義が有ると言うことになるな」
「頭領を謀ったことに違いは無い。何故、誰から聞いたかを言わなかったのか? 頭領が裏切り者の言うことを信じる筈が無いと思ったからだろう」
「これ! 言葉が過ぎるぞ!」
老人が、発言した者を叱咤した。男は下を向いた。
大鹿は無言のまま倶裳射を見詰めている。
「吾が頭領を裏切ったと言うなら、ここで叩き殺されても仕方が無い。もはや、命が惜しいとは思わぬ」
倶裳射は座り込んで目を閉じた。暫しその場を沈黙が支配した。
少し後、倶裳射が再び目を開き、続けた。
「あの時、この方は言われた。本当は降伏して欲しい。だが、それを今の阿弖流爲に言っても無駄だろう。これが、今の吾に出来るせめてものことだと」
「黙れ! 聞きたく無い。どのような言い訳をしようと、頭領を謀ったことに変わりは無い」
「句意桔、黙るのは汝の方じゃ」
白鬚の老人が言った。
「汝が先程、『裏切り者』と言ったこと。大鹿様が即座に汝を斬り捨て、我等全てを捕えていても仕方の無いほどこと。頭領の想いを裏切っているのは汝じゃ!」
句意桔と呼ばれた男は動揺した。
「長老……」
白鬚の老人に何かを訴えようとした。
「申すな。確かにあの頃の頭領は、大和に協力した者達を許さなかった。
しかし、その後十数年を経て、結局、大和に降らざるを得無くなった時、最後に頭領が言ったことを汝は覚えておらぬのか。
『滅びてはならぬ! 日高見の民は滅びてはならぬのじゃ』
頭領はそう申された。だからこそ、我等は大和に反抗せず、何事も忍んで来たのではないか。その想いを汝は無にしようと言うのか!
…… それから頭領は、こうも言われた。
『皆、いつかまたどこかで会おうぞ。我等が支配する日高見国でな。そして、皆で狩をし、田を耕し、祭を楽しもうではないか』
皆覚えているであろう。だが、皆はあの言葉をどう取った?
吾は、あの時は、我等の命を護る為に自らの命を捨てる覚悟をした頭領が、いつかあの世で会おうと言われたのかと思った。そして、そう思い続けていた。
しかし、今、それは違うと思い当たったのだ。
『肉体は滅びても吾の魂は滅びぬ。いつの日か、また皆の許へ必ず戻って来る。その時には皆で狩をし、田を耕し、祭を楽しもうではないか』
そう申されたのではないかと気付いたのだ。ならば、頭領の魂が戻って来られるその日までに何をすべきか? ただ忍んでいるだけで良いのか? そう思った。
我等がすべきことは、昔のように実り豊かな土地を取り戻し、我等の手で天地の神を祀り、一日も早く頭領と母礼様の魂をお迎えすることでは無いのか?
皆そうは思わぬか? もちろん大和に勝ってそれが出来れば、それが一番良い。だが、もはやそれが叶わぬことは皆も分かっておろう。
だが、幸いにも今、大和は、大和の役人に寄って我等を支配することを諦めた。戦で大和に勝たずとも、我等の国を作り上げることが出来るのだ。この機を逃すべきでは無い。
しかし、各地で反乱が相次ぎ、それが拡大するようなことになれば、再び鎮守府が介入して来ることになる。大和もそうせざるを得まい。そうなれば日高見国の夢も消え失せてしまう。
吾は思う。今、我等は大鹿様に協力し、反乱を起こしている者、また起こそうとしている者達に説いて廻るべきではないかとな。
今尚、頭領を慕う者共は多い。我等が阿弖流爲の直属の部下だと分かれば、話に耳を傾けてくれる者達も多いに違いない。それこそが、頭領の想いを継ぐことになる。吾はそう思う」
「しかし、我等も大和の手先と思われてしまうのではないか?」
そう発言したのは、句意桔とは別の男だ。
「今反乱を起こして勝てるのか? 滅ぼされるのみではないか。思いとどまらせることは、その者達を救うことでもあるのだ。
戦で身内を失った者達は、大鹿様に力を貸すことに割り切れぬ想いを抱くであろう。大鹿様が我等と戦ったということを、忘れろと言うのは無理かも知れぬ。しかし、考えても見よ。我等も結局は大和に降り、今は俘囚と呼ばれる身だ。
もし大和から、反乱した者を討てと言われたら、拒んで滅ぼされるか、言われた通り反乱した者を討つか、どちらかしか無い。つまり、あの時の大鹿様と同じ立場に立たされるのだ……
今争うことは無益だと説いて廻ろう。そして、我等の力を蓄え、その後どうするかは、子や孫や曾孫達に任せようではないか」
皆複雑な想いを胸に秘め、誰も言葉を発する者は居なかった。
黙って聞いていた大鹿が、口を開いた。
「長老、忝い。吾の想いを察し、良くぞ皆に伝えてくれた。
今、皆に心を決めてくれとは言わぬ。良く考えて見てくれ。…… 倶裳射と申すか? 懐かしいのう。良くぞ無事で居てくれた。阿弖流爲を動かしたのは、吾では無い。汝の覚悟だ。…… 何度も言うが、吾も蝦夷だ。後ろめたさと苦しさを抱いて大和の中で生きて来た。
…… だが、我等の手で我等の国を作りたいという想いは皆と変わらぬ。それだけは分って貰いたい」
言い終わると大鹿は郎党達を引連れて戻って行った。
そして、阿弖流爲の部下達は何度も話し合いを重ね、大鹿に力を貸すことにしたのだ。
予想以上に多くの者達が、阿弖流爲の部下達の説得に応じ、反乱を思いとどまってくれた。しかし、一方で、説得に応じない者達の許に何度も通ううち命を落とした者もあった。
それから二代を経て、都留儀の代になっても、反乱を起こす者が居なくなった訳ではない。
狐支紀のような者は絶えず現れるし、北にはまだまだ、まつろわぬ者達が多く残っており、いつ攻めて来るか気を抜けない状態が続いているのだ。
翌日も熱い一日となり、夕刻から雨雲が湧いて来た。
「また今日も降りそうですな。上った後に火矢を射掛けますか?」
忠頼が言った。
「雨が上ったら射掛けましょう」
古能代が答えた。
「しかし、雨上がりに射込んでみても無駄ではありませんか?」
「いや、無駄とは思わぬ」
「何故ですか?」
「火を点けることが目的では無い」
「しかし、……」
「まだ六日目ではないか。忠頼殿、焦ってはならぬ」
「はあ。弩でも作って、舘まで届く火矢を打ち込みたいものですな」
「そう簡単には作れぬ。それより、こういう時は、とかく兵達の気が緩むもの。時折引締めることが肝要」
「はい。分りました」
遠くで稲光がし、だいぶ間を置いて、かすかな雷鳴が響いた。
「遠雷ですね、義兄上。冷たい風が吹き始めれば、間も無く激しい雷雨となりましょう。…… しかし、雷とは一体何なので御座いましょうな? やはり、神の怒りでしょうか?」
「神は、お怒りになる季節が決まっているというのか? 吾には、死んだ者達の魂が天に溢れ、ぶつかり合って光と音を発し、地上へ落ちて来るもののようの思える」




