44 阿弖流為の末裔
将門の乱の後、古能代が陸奥に行きたいと願い出たことは、秀郷に取っても都合が良かった。
あの時も、春を待って秀郷から貰った木簡と粒金を懐にして、古能代は馬で北へ向かった。衣装は郎党の衣装を身に着けていた。
多賀城(現・宮城県多賀城市)近くの名取まで来た時、役人に呼び止められた。
秀郷から貰った木簡を持っているので、古能代は慌てもせず、それを役人に見せた。それで事無く通れると思っていたのだが、そうは行かなかった。
木簡には、
『この者我が郎等に付き、宿食の手配、遺漏無きようされたし 鎮守府将軍藤原秀郷』
と書いてある。
役人としても、
『ご苦労で御座る。お通りなされ』
という訳には行かない。
すぐに、多賀城まで人を走らせ宿の手配をさせる一方、多賀城までは自分が案内すると言い出した。
「勝手に行くので、構わんで貰いたい」
と言っても聞いてはくれない。
役人にしてみれば、こんな木簡を携えているからには、秀郷から命を受けて視察に来たに違いないと思ってしまった。
お世辞を使って対応し、案内してくれるのはまだ良いのだが、目的を探ろうとしてあれこれと質問して来るのが、古能代に取っては煩わしいこと、この上無い。
「急ぎの用事が有るので、今宵は多賀城には泊まれない。手間を掛けてしまって済まなかったが、これで失礼する」
と言い残し、馬の腹を蹴って駆け出し、逃げてしまった。
木簡を見せれば不審がられる心配は無いとだけ思っていたのだが、別の意味で飛んでもなく面倒なことになるのが分かって、それ以後、古能代は二度と秀郷の木簡を役人に見せたりはしなかった。
別に持って行った蝦夷の衣装に着替え、山中を進んだ。
しかし、そこで見た光景は古能代の思っていたものとは全く違っていた。
大和の者達と変わらぬ服装をした蝦夷の土豪の郎党達が、大和の役人のように振舞っているのだ。
下野の山中に隠れ棲む自分達とは余りに違う蝦夷の生活が、そこには有った。
それは、大和朝廷の対蝦夷政策の行き詰まりが招いた結果である。
蝦夷との大規模な戦闘が阿弖流為の投降によりほぼ終息した後、大和朝廷が最も恐れたのは、その戦闘能力の高さである。
彼らは大和に従っていたものの、未だに降伏していない蝦夷と通じる可能性も有った。
大規模な反乱を恐れた太政官は、まず、俘囚達を分散しその力を削ぐことにし、各地に移配した。
弘仁四年(八百十三年)には諸国の国司に「俘囚専当」を兼任させて俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせ、その翌年には蝦夷の王民化の方針を打ち出した勅令が出されている。
最初に俘囚専当の役を与えられた国司の一人が、秀郷の曽祖父・藤原藤成である。
また、大和朝廷は弱体化した防人や軍団に代わって蝦夷を用いる構想などを打ち出した。
しかし、実際には俘囚・夷俘は移配先に馴染めずに、度々地域との衝突や反乱を起こした。
その為、弘仁二年(八百十一年)に陸奥国より、俘囚を現地にとどめて支配を行う旨の奏請が行われて受理される。
以後、大規模な移配は行われなくなり、代わって既に移配された俘囚・夷俘を小規模集団単位で二次移配する事例が増加する。
やがて、寛平九年(八百九十七年)には移配した蝦夷を奥羽へ送還する政策が打ち出された。
これにより全国へ移配されていた蝦夷の殆どは奥羽へ還住することとなったのだ。
そして、蝦夷の王民化に失敗した大和政府は、結局、陸奥に帰した蝦夷の支配を蝦夷の族長達に任せるしか無くなってしまった。
そしてここに、降伏し『俘囚』と呼ばれながらも反乱を起こさず、決められた税を納め、大和に臣従する姿勢を示す限りに於いて、大幅に蝦夷の自治が認められた。
半独立勢力である蝦夷王国の萌芽が既に始まっていたのだ。
古能代が訪れたのは、そんな情勢の中にある陸奥に於ける蝦夷の自治区とも言える地域であった。
『阿弖流為の想いは叶えられつつあるではないか!』
古能代は歓喜した。
「おい、そこの者。見慣れぬ奴だが、どこの者だ!」
そう声を掛けて来たのは、郎党風の男達だった。
『ふん。大和の役人のように横柄な奴等だな』
古能代はそう思った。
「下野から来た」
「何? 下野からだと? 大和の者では無いようだが、何やら怪しい奴だな。どこへ行く?」
「胆沢だ」
「何の用で?」
「祖先の地を訪ねてみようと思っている」
「祖先の地? 汝は誰だ?」
「杜木濡の血を引く者だ」
「杜木濡? 知っているか?」
と周りの者に聞く。
「いや」
と聞かれた男が答える。
「阿弖流為の女婿だ」
分からせる為、古能代はそう補足した。
「阿弖流為!」
時代を経ても、尚その名はカリスマとしての輝きを残している。驚いた様子で、男達は互いに顔を見合わせた。
「聞いたことが有るぞ、勇者・阿弖流為が大和に下る前に、蝦夷の血を残す為に、娘とその婿の一族を逃れさせたという話を。
女婿、その男の名が…… そうだ、確か『杜木濡』だ」
ひとりがそう叫んだ。
「…… ということは、勇者・阿弖流為の血も引いているということか?」
「そういうことになる」
「嘘ではあるまいな」
「嘘では無い。杜木濡は下野まで逃れ、山中に郷を作り、一族はそこに、何代も隠れ住んでいた。
郷長は代々祖真紀を名乗り、四代目・祖真紀が我が父だ。吾の名は古能代」
「ま、待たれよ。おい、誰かお舘に走れ。急いで仔細申し上げてご指示を仰げ!」
ひとりが馬に飛び乗り、走り去って行った。
それが、古能代が陸奥で七年の歳月を過ごすことになる始まりであった。
そこで古能代が見たものは、父・祖真紀や祖父の考えよりも先を行く蝦夷の姿である。
下野の郷よりも遥かに大和化し、且つ、大幅に自治権を与えられた蝦夷社会がそこにあった。
もちろんそれは、大和朝廷の蝦夷政策の失敗に因って齎されたものである。
造語だが『夷を以て夷を制す』が、『夷を以て}夷を政す』に拡大したものと言える。(正確には『夷を以て夷を治す』と言うべきだろうが、語呂合わせだ)
だが、その実態は、内政に於いて、面倒なことを放棄し、徴税権を受領に丸投げしたように、面倒な蝦夷政策を放棄し、蝦夷社会の管理を蝦夷の族長に丸投げしてしまったということに他ならない。
それが、やがて出羽の清原氏、陸奥の安倍氏と言った俘囚長、即ち蝦夷の大豪族の台頭を招き、朝廷に取っては目の上のたん瘤であり、蝦夷に取っては最後の輝きとなる、蝦夷半独立政権繁栄の百年へと繋がって行くのだ。
丁度、太平洋戦争に敗れた日本が、アメリカの管理下に在りながら立ち上がり、復興から繁栄に向かって行った時代のように、混沌の中に生命力を宿した蝦夷社会がそこには有った。
慌ただしい数日であった。
突然、旋風丸に襲われ、考える間も無く、結果として殺してしまった。己の腕が格段に上であったら、或いは取り押さえることが出来たかも知れない。
しかし、身を守るのが精一杯であった。気が着いたら斬ってしまっていた。
だが、旋風丸は、千方に取って敵でもなければ盗賊でも無い。郷人のひとりなのだ。
向き合って話したかった。腹を裂かれて呻いている声が耳に残り、腹の裂け目から飛び出した腑が目に焼き付いている。
人ひとりを殺すということは、こんなにも苦しいことだったのか。そう思った。
初冠の慌ただしさの中、忘れていた後悔の念が、床に就き暗い天井を見詰めている中で蘇って来たのだ。
『襲われたら、考えること無く殺せ。それが生き残る術だ』
千常はそう言った。
確かに、斬らなければ斬られていた。斬ったからこそ自分は今生きている。ならば考えることなど無い筈だ。しかし、この苦しさは何なのだろうか?
これから先、一体、何人の人間を殺すことになるのだろうか? それが即ち強くなるということであるならば、耐えるしか無いのだろう。耐え切れなくなれば、臆病者の汚名を着ることになる。
経験を重ね、人を殺すことに無感覚になって行くことで、猛き兵と呼ばれるようになるのか…… ?
『はい。麿も兄上のように猛き兵になりとう御座います』
武蔵から下野に向かう途上、ほんのお世辞のつもりでそう言った時、兄・千常に殴り倒された。
『麿の話に調子を合わせて勇ましきことを言いおったが、口で言うだけなら、都の長袖の公家でも言える』
千常はそう付け加えた。確かに、あの時の吾は何も考えていなかった。こんな気持ちなど想像の端にも無かった。
朝が来るまで、千方は、暗闇の中で眠れぬまま、鬱々とした夜を過ごした。
翌朝、秀郷を見送った後、武蔵に帰る者達と、下野の山郷に戻る者達が何組かに分かれて、暫しの間、談笑をしていた。
久稔は、夜叉丸達を捕まえて色々と話し掛けているが、郷の者以外には千方と朝鳥としか接触したことの無かった千方の新たな郎党達は、戸惑い気味だ。
祖真紀と朝鳥は豊地と話し込んでいる。多分、千方の幼き頃のことなど聞いているに違いない。
千方は母と向かい合っていた。
「あまり眠れなかったようですね。そのような顔をしていますよ」
母はすぐに千方の寝不足を見破っていた。だが、事実を言えば心配を掛けるだけだと千方は思った。それに、母に甘えて泣き言を言うような真似をしたくもなかった。
「はい。興奮したせいでしょうか、あまり眠れませんでした」
「ほんの僅か見ぬ間に、すっかり大人らしい体になりましたね。まあ、一番背も伸びる年頃ではあるが…… 元服したのですものね」
「体は育ったが、心はまだまだだと兄上に言われました」
「それなら、心を鍛えなさい。麿から見れば、心もだいぶ大人に成ったように見えるが、千常様がそう言われるなら、まだまだなのでしょう」
「はい、心も強くなるよう心掛けます。また当分お目に掛かれませぬが、お健やかに」
「麿のことは案ずるには及びません。それよりも、己に負けてはなりませんぞ」
「…… あ、はい」




