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4 秀郷の思惑

 秀郷(ひでさと)は、太政官(だじょうかん)から見て、元々は好ましからざる人物であった。それが、将門(まさかど)追討と言う大功を上げたことに因り、朝廷はその扱いに悩まされることとなる。


 除目(じもく)を前に、天慶(てんぎょう)三年(九百四十年)三月、太政官に於いて開かれた考課定(こうかさだめ)を兼ねた公卿詮議(くぎょうせんぎ)の席で、乱後の論功行賞は、()めた。


 将門を滅亡させた第一の功は、朝廷の権威に基づいた諸寺諸社の祈祷に因るものとしたのは、今の時代から見れば馬鹿馬鹿しい限りだが、恩賞を約束して兵を募ったこともあり、やはり、実際に戦った者達を無視する訳にも行かない。


 秀郷(ひでさと)にこれ以上の力を与えることの危険性を強調する意見が多かった中で、秀郷が恩賞に不満を持ち、再び乱となることの危険性を具申(ぐしん)したのが、前年参議に成ったばかりの二十七歳の源高明(みなもとのたかあきら)だった。


 (はなは)だ危険であると言う意見が多く、一旦は、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)は与えるべきでは無いということになった。


 しかし、高明(たかあきら)の具申と、謀叛再発への恐怖心が大勢を覆したのだ。


 (ちな)みに、この年の太政官の顔ぶれは、


 太政大臣 従一位 藤原忠平(六十一歳)[摂政]

 左大臣  従二位  藤原仲平(六十六歳)[左大将を兼ねていた。(以下“兼”一字とする)]

 大納言  従三位  藤原實頼(四十一歳)[兼按察使]

 中納言  従三位  橘公頼 (六十四歳)[兼大宰府権宰]

 権中納言 従三位  源清蔭 (五十七歳)

 権中納言 従三位 藤原師輔(三十三歳)[兼中宮大夫]

 権中納言 従三位 源是茂 (五十四歳)

 参議   従三位  藤原當幹(七十七歳)

 参議   正四位下 藤原元方(五十三歳)

 参議   正四位下 源高明 (二十七歳)[兼大蔵卿、兼備前掾]

 参議   正四位下 藤原忠文(六十八歳)[兼修理太夫、兼右衛門督、兼征東大将軍

 参議   従四位上 伴保平 (七十四歳)[兼近江守]

 参議   従四位上 藤原顕忠(四十三歳)[兼左兵衛督、兼近江権守]

 参議   従四位上 藤原敦忠(三十五歳)[兼左権中将]


となっている。


武蔵守(むさしのかみ)鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に付いては一期のみとし、重任(ちょうにん)させないということにしては如何(いかが)。僅か四年では、何も出来ますまい」


高明(たかあきら)が、反対意見に配慮して具申(ぐしん)した。


左様(さよう)でおじゃるな。一応、過分な褒美(ほうび)を与えて、秀郷(ひでさと)太政官(だじょうかん)(めい)に服させる必要が有る」


藤原實頼(ふじわらのさねより)が同意した。


 太政大臣(だじょうだいじん)忠平(ただひら)の長男であり、四十一歳にして大納言(だいなごん)の職に()る。


しかし、


「鎮守府将軍の後任は、貞盛(さだもり)と決めておこう。常陸介(ひたちのすけ)と兼任させれば、抑えになる。陸奥守(むつのかみ)を考えても良いのう」


(くさび)を打ち込むのを忘れなかった。


「それに、武蔵(むさし)に付いてでおじゃるが、良文(よしぶみ)を罰せぬほうが良いのでは」


と、三十三歳にして権中納言(ごんちゅうなごん)と成っている実頼(さねより)の弟・師輔(もろすけ)が付け加えた。


 良文を罰するより、その力を、武蔵に於ける秀郷の力を抑える為に使った方が良いのではと言う意味だ。


 将門の伯父のひとり平良文(たいらのよしぶみ)は、他の伯父達に助力せず、将門とは戦っていない。その為、将門に同調していたのではないかと疑われていたのだ。罰せられる可能性が有った。


()(ほど)。それは良い。強い抑えになるな」


 忠平(ただひら)の兄であり、実頼(さねより)師輔(もろすけ)の伯父に当たる左大臣・仲平(なかひら)が言った。


「それに、もうひとつ、大事なことが有る」


「それは?」


と師輔が尋ねる。


()の者達は、土地の有力な者と結び付くことで力を付けて行く。土地の者の娘を(めと)らせぬこと。これが肝要…… 処で、征東大将軍、何か意見は有るかな?」


 黙っていた参議・藤原忠文(ふじわらのただふみ)に、突然、仲平が水を向けた。


 忠文は、老齢を押して平将門(たいらのまさかど)の乱鎮圧の為に、征東大将軍として東国へ向かったものの、到着前に将門が秀郷(ひでさと)らに討伐されてしまった為に面目(めんぼく)を失っていた。『征東大将軍』と呼び掛けるなど、公卿(くぎょう)らしい意地の悪さである。


左様(さよう)、ここは是非、大将軍のご存念を伺いたいものじゃ」


 實頼が(たた)み掛ける。


 今、忠文は他人のことなどとやかく言える立場では無い。言葉に詰まってしまった。


「ご(もっと)もながら、如何(いか)にして、させぬよう致しますか。まさか、勅諭(ちょくゆ)という訳にも参りますまい」


 見兼ねて、七十四歳の参議、伴保平(とものやすひら)矛先(ほこさき)()らすべく言った。


「朝廷がそれを危ぶんでいることを、それと無く、繰り返し吹き込むのじゃ。

 叛意と(みな)すとな。(くらい)は、思い切って、従四位下(じゅしいのげ)(たまわ)るよう(みかど)(朱雀天皇(すざくてんのう))に奏上(そうじょう)致すことにしよう。

 秀郷(ひでさと)も満足するであろう。だが、都に住まわせる。そして、遥任(ようにん)として都に留め置き、坂東には行かせぬ。都に上らせれば従四位下(じゅしいのげ)など、如何程(いかほど)のこともあろう。軽輩(けいはい)じゃ。

坂東に置けば、朝廷のご威光に因り、その力は大きなものとなる」


「元々坂東に住まいおる者を、わざわざ都に呼び寄せ、遥任(ようにん)として、坂東には赴任させぬと言うことですか、()(ほど)。さすが、左大臣様」


 笑いながら保平はそう追従(ついしょう)したが、目は笑っていなかった。


 前例、前例と日頃繰り返すのが公家(くげ)の常だが、そんな前例は聞いたことが無いではないかと思った。


 こうして、高明(たかあきら)の提案に寄って、一応、秀郷(ひでさと)を、下野守(しもつけのかみ)武蔵守(むさしのかみ)、並びに鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)とすることは決まったが、藤原北家本流の人々、つまり、摂関家(せっかんけ)に繋がる公卿(くぎょう)達は、それを如何(いか)に骨抜きにするかに腐心した。


 将門(まさかど)にあっさりと降伏して印鑰(いんやく)を差し出した藤原弘雅(ふじわらのひろまさ)に替えて、天慶(てんぎょう)三年正月二十七日に任命したばかりの大江朝望(おおえのとももち)の処遇を考える必要があった為、まずは、下野介(しもつけのすけ)に任命し、大江朝望の処遇が決まるのを待って正式に下野守(しもつけのかみ)とした。


 (ちな)みに、平貞盛(たいらのさだもり)従五位上(じゅごいのじょう)に叙せられ、右馬助(うまのすけ)に任じられた。秀郷(ひでさと)に比べて僅かな出世に止まっている。

 表向きには、秀郷の働きを大いに評価した人事となっていたのだ。


 この詮議(せんぎ)の次第は、延喜(えんぎ)四年(九百四年)から下野守(しもつけのかみ)を務めた、参議・藤原當幹(ふじわらのまさもと)の筋から秀郷(ひでさと)の耳に入った。


 決め事の中で、秀郷の上洛は遂に果たされなかった。


 体調の優れぬことを理由に、ある時はのらりくらりと、又ある時は断固として、秀郷(ひでさと)は上洛を拒み、結局、長男の千晴(ちはる)を代わりに上洛させることでお茶を濁してしまったのだ。


 従六位上(じゅろくいのじょう)相模介(さがみのすけ)に任じられていた千晴は、その任期を終えると、都に上り高明(たかあきら)に仕え、従者(ずさ)と成った。


    

 兼々感じてはいたが、やはり秀郷(ひでさと)は、将門(まさかど)が果たせなかったことを、朝廷と決定的に対立すること無く、巧妙に実現しようとしているのではないかと朝鳥は思った。

 その意を受けて、千常(ちつね)は着々と手を打っている。そのひとつがこの(さと)であり、千寿丸(せんじゅまる)なのだ。


「五十年以上も前の、確か、寛平(かんぴょう)九年(八百九十七年)には、蝦夷(えぞ)は殆ど陸奥(むつ)に帰されたはず」


 朝鳥が探るように、祖真紀(そまき)の顔を覗き込んで尋ねた。


「はい。確かに、一部の大和人(やまとびと)と成る道を選んだ者達以外、奥州(おうしゅう)に送り返されました。

 我等は、いわば、亡霊の子孫とでも申しましょうかな」


「亡霊とな?」


「ま、時は十分に御座る。朝鳥殿に隠し事は要らぬと、殿より仰せ遣っておりますゆえ、三年の間には、お話することも御座いましょう。

 今日の処は、まず、お(くつろ)ぎ下さいませ」


 祖真紀(そまき)が先に立って、千方と朝鳥をあの舘の方へ導いた。


 うねった道を少し上がると、周りは木立となり、更に階段状に土を固め、角には丸木を埋め込んだ道が十段ほど続く。

 木々に囲まれた敷地には舘(と言っても実態は小屋に毛の生えたような物だが)の外、穀物蔵、武器庫と思われる建物も有る。(うまや)は見当たらず、どこか外に繋いであるものと見える。


 朝鳥と祖真紀(そまき)の後に続いて、千方は黙って歩いていた。

 当時の二人の会話は意味も分からず、もちろん千方の記憶に残ってはいなかったが、ただ『亡霊』と言う言葉だけが、何か薄気味悪い響きとして頭の隅にこびりついた。

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