3 承平の乱・概観
「ご案内致しましょう。ああ、申し遅れておりましたが、この郷の長を務めおります大道祖真紀と申します」
物腰は柔らかいが、内に凄みを感じさせる男だと、朝鳥は思った。
「蝦夷か?」
ずばりと聞いた。
蝦夷と呼ばれていた人々は、この頃から、エゾと呼ばれるようになっていた。
「はい。左様で」
郷長は、いともあっさりと答えた。
「麿の下の娘の連れ合いが、蔵番をしておってな。蝦夷らしき風体の男達が、時々雑穀を受け取りに来ると聞いたことが有る。
その男、それ以上のことは何も聞かされておらず、不審がっておったが、殿直々の下知なので、詮索も出来ず、言われた通り渡していると申しておった。
そうか、この郷の者達であったのか。得心した」
「ご覧なされませ。田は無く、畑も僅かで御座る。木の実、草の根、鳥、獣の肉も食しますが、足りません。殿からのお下げ渡しの物が無ければ、この郷の者達は生きて行くことは出来ないのです」
「見返りは?」
もっともらしい述懐に違和感を覚えた朝鳥が鋭く切り返す。
「今は、さほどお役には立ってはおりませぬ。上野の山々に分け入って、道や地形を調べたりするくらいでしょうかな。時には、信濃の方まで行く者もおります」
「成る程、山か。町中の探索には不向きじゃな。目立ってしまう」
千常が上野、惹いては信濃にまで進出することを考えていることは、朝鳥も分かっていた。
互いに対立する一方と誼を通じ、相手方に圧力を掛けたり、仲裁に立って恩を売ってみたりと、やっていることは、かつて、坂東を舞台に大争乱を引き起こし、謀叛に突き進んだ将門とそう変わらない。
揉め事、小競り合いに発展することは度々有る。当然、千常にも乱に突き進む危険が付き纏っていた。
しかし、これは千常の考えと言うよりも、強かな父、秀郷の思惑である。
実は、秀郷という男、若い頃より朝廷の意向に従わず、下野に勢力を扶植して行っており、朝廷からは、将門以上に危険視されていた男なのだ。
秀郷は下野国の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜十六年(九百十六年)、秀郷三十四歳の時、隣国・上野の国衙への反対闘争に加担、連座し、一族十七(若しくは十八)名と共に流罪とされた。
更に、延長七年(九百二十九年)四十七歳の時には、乱行の廉で下野の国府より追討官符を出されている。
しかし、そのいずれも実行されることは無かった。
それは、在地官人達が秀郷の威勢を恐れて秀郷捕縛に動かなかったからである。
国軍を解体してしまった朝廷は、指揮官のみを派遣し、途中で兵を募るか、在地の官人、健児を使って処分を行わざるを得ない。
ところが、官人のほとんどが秀郷の身内、若しくは息の掛った者達だったため、何度か試みてはみたものの、遂に秀郷を流罪にすることも追討することも出来なかったのだ。
これは、太政官に取って屈辱であり、恨みは深く潜航していた。
しかし、将門の乱に際して、その秀郷を押領使に任命せざるを得なくなってしまった。
秀郷抜きでは、乱鎮圧の実効性が危ぶまれたのである。
もし、秀郷が将門側に着いたら、乱は或いは成就したかも知れない。
少なくとも、遥かに解決が長引いたことは確かなのだ。
そう成れば、瀬戸内海で将門の乱に呼応するかのように乱を起こした前伊予掾・藤原純友を討伐することも難しくなり、朝廷は大混乱に陥る危険性があった。
両正面作戦は是非とも避けなければならない。そうした観点から、ある程度の言い分を呑み、朝廷は将門討伐まではと純友とは一時的に和睦を結んでいた。
秀郷は、朝廷の為に将門を討った訳でも、貞盛の仇討の加勢をしたと言う訳でも無い。
朝廷が約束した恩賞目当てかと言えば、それも確かに有る。だが、本筋は、将門を見切ったと言うことなのだ。
興世王に踊らされ、もうひとつの朝廷をこの坂東に作る方向に走り始めた将門。
常陸の国府を襲い、国司の印鑰(官府の長官の印と諸司・城門・蔵などの鍵)を奪ってしまった際、
「一国を奪ってしまったからには、その罪は軽く無い。どうせなら、坂東を制覇した上で様子を見た方が良い」
と興世王にけし掛けられていた。
興世王と言う男は、将門と同じ五世の皇孫だったが、祖父の代に臣籍降下し平氏としてその勢力を、下総・常陸に広げている将門に対し、王と名乗れる皇族の末端に残っては居るが、実情は、なかなか官職にも就けず、都に在る時は鬱鬱としていた。
やっとありついた武蔵権守の職で、正規の武蔵守が赴任して来る前に一儲けを企んだところ、武蔵武芝の思わぬ抵抗に合い収拾が着かなくなっていたのだ。
王と名乗れるのは五世まで。子の代には只の人になってしまう。そして、子孫は名も無き民となって行くことだろう。
『皇孫として生まれた身でありながら、なんと情け無きことであろうか』
そんな想いが有ったに違いない。
仲裁に現れた将門の威容を見るにつけ、我が身と比べ羨ましく思った。
そして、将門を使って、都では叶わなかった夢を、この坂東の地で実現しようと企て、将門の顔を立て、武芝と和解した。
この時、介である源経基は、同調せず引き籠っていた。
手打ちの宴も盛り上がり、経基の郎等を誘おうと繰り出して行った兵達の騒ぎを、襲撃と勘違いした経基は都に逃げ帰り、将門、興世王、武芝が共謀して謀叛を起こしたと朝廷に訴えたのだ。
しかし、天慶二年(九百三十九年)五月二日付けで常陸、下総、下野、武蔵、上野五カ国の国府の
『謀叛は事実無根』
との解状を以て弁明した将門の言い分が通り、逆に、逃げ帰った経基は、虚偽の訴えをしたとのことで投獄され、『未熟者』と笑われることになる。
しかし、わずか七か月後、将門は実際に謀叛に突き進んだのだ。
常陸を奪った後、下野、上野の国司をも追放し、印鑰を奪い、天慶二年(九百三十九年)十二月十九日、菅原道真の霊を介して八幡大菩薩のご託宣が有ったとして、上野国厩橋(現・前橋市)で『新皇』を自称。
その後、武蔵をも奪い、あっと言う間に坂東一円を手中に収めるに至った。
乱そのものに否定的な考えは秀郷には無かった。
実際、秀郷は、将門を訪ね会談している。この時点ではまだ、将門に助力しようかと思っていた節が有る。
国司の力が強まった坂東を変えなければならないとは思っていた。
だが、将門が何を考え、どうしようと思っているかを探るうち、将門自身には坂東をどのようにしようという考えは余り無く、成り行きでそう成ったに過ぎないこと。都で叶わなかった夢をこの坂東で実現しようとする興世王に操られていることが分かって来た。
『坂東に都の朝廷を真似たものなど作ってみてどうなる。坂東には坂東のやり方が有る』
秀郷はそう思った。
将門を帝として祭り上げた後、やがて、関白か《だじょうだいじん》太政大臣を称して力を得るであろう興世王の専制に因って、坂東は一層住み難くなるに違いない。
『ならば、討つしかない』
それが、秀郷の決断だった。
そんな折、将門との戦いに度々敗れ、都へ、陸奥へ、そしてまた都へと逃げ回っていた貞盛が、一人の手勢も持たず、只、将門追討の官符のみを持って、秀郷を頼って来て情に訴えたことに因り、秀郷はやっと重い腰を上げ、将門を討つことになったのだ。