18 自我
犬丸に案内されて斜面に付けられた細い道を上がって行くと舘の裏に出た。かなり急な道ではあったが、足の痛みはそれほど感じなかった。
舘の裏には、洗い場といくつかの竈が有り、萱葺きの簡単な屋根が掛けられている。そこで数人の女達が立ち働いていた。
洗い場にはいくつもの土器が並べられている。節を抜いて半分に割った竹の樋から流れ出る水でトチの実の灰汁抜きをしているらしい。
縄文人は大量の団栗を灰汁抜きして食料としていたが、この時代、一般には、団栗を食べることは殆ど無くなっていた。そう言う意味では珍しい光景である。
トチの実は灰汁抜きして粉に挽き、水に溶いて薄く延ばし、焼いて携帯食として用いる。携帯食と言えば干し飯が連想されると思うが、それは、米を日常食している者達の携帯食である。
女達の中に芹菜の姿を見付けたが、きびきびと立ち働いている芹菜は、千方どころか、犬丸にも声を掛けようともしない。
「いいお天気で御座いやした、和子様」
「犬丸、今日はお供かい?」
他の女達が声を掛けて来た。
「精が出るな」
千方も声を掛ける。
「和子様。朝餉はもうお運びしましたで、朝鳥様お待ちでごぜえますよ」
「そうか、世話を掛ける。だが、和子様はやめてくれ。六郎で良い」
「あれ、そうでごぜえますか? そんなら…… 。ところで六郎様。足どうなさいました?」
「いや、大事無い。手当も済んでおる」
「姉が手当した」
と犬丸が言った。
『余計なことを言わずとも良い』
と千方は思った。
「あれ、そうかい。芹菜、それで来るのが遅うなったか?」
「ああ、そうだ。喋くっとったら日が暮れる。手え休めとっていいんか?」
芹菜は相変わらず不愛想だ。
「あれま。吾もいい年をして娘っ子に言われてしもうたわ。はっはっは、そんなら、六郎様」
「帰った」
舘の入口を入り、声を掛けると、朝鳥が奥から出て来た。
「お帰りなさいませ。いかがで御座いましたかな? 弓の稽古は」
「いや、特に…… まだこれからであろう」
その時、朝鳥に弱音は吐きたくないと思った。
「吾はこれで」
犬丸はそう言うと、軽く頭を下げた。
「世話を掛けたのう。宜しく伝えてくれ」
もちろん”芹菜に” という意味だが、朝鳥が聞いていることを意識して、それは省いた。
『いちいち説明するのが面倒だから』
それが自分自身に対しての言い訳だった。
犬丸が去った後、千方は自分で布を水に浸して絞り、足を拭いて上がった。朝鳥も敢えて手伝おうとはしない。
祖真紀達が食べたものもそうだが、稗は粥になっている。
食べながら、朝鳥は色々と聞いて来るが、千方は生返事をしながら、適当に遇っていた。
朝鳥も千方の足に布が巻かれていることにすぐに気が付いた筈だが、なぜかそれについては聞いて来なかった。
「少し横になる。古能代が来たら起こしてくれ」
朝餉が済むと、千方は朝鳥にそう言って、横になった。だが、なぜか疲れているのに眠れはしなかった。
目は閉じているものの、頭の中は冴えている。芹菜の太腿や手の感触が甦って来た。それを振り払うかのように、千方は寝返りを打った。
一刻(三十分)ほどして、古能代が現れた。
「おお古能代殿。世話をお掛け申す。…… 六郎様お支度を」
と言われても、特に支度などは無い。草鞋を履いて、千方は表に出た。
古能代は、舘から細い道を西に取り、林の中に入って行く。馬は連れていない。
暫く歩いて行くと、少し開けた所が有り、丸太が吊り下げられていた。
丸太の前と後ろの端に蔦を縛り付け木の枝から吊り下げられており、厚く古布を巻き付けた上に更に毛皮が巻かれている。その太さは丁度馬体ほどであり、千方の腰の高さくらいに吊ってある。
『なんだ、これは。まるで童の遊びではないか』
と千方は思った。
祖真紀に、千方に弓と乗馬を教えるようにと言われた時、古能代は戸惑った。そんなもの教えたことが無いのだ。
この郷の童達は、幼い頃から父親の前に乗せられて走り廻っているうちに、自然とバランス感覚や手綱捌きを身に着けて行く。父が居ない者は叔父や兄がそれに代わる。
だから、ああだ、こうだと説明した経験が無い。弓に着いても、遊び半分で毎日引いているうちに自然と腕力が着いて行く。狙い方も狩りに連れて行って貰った時、見様見真似で覚えて行く。
千方には基本的な体力が無い。
弓を習っていたとは言っても和弓の張りは弱い。もちろん、三人張り、五人張りといった強弓も有り、名立たる兵の中には、それを引くことを自慢にしている者も多い。しかし、一般的な強さの弓は、女でも引けるほどの強さなのだ。
この時代の弓の材質はイヌガヤなどの丸木であり、同じ太さのものを使えば短ければ短いほど張りは強くなる。
しかし、木を細くすれば飛ばなくなるし折れやすくなる。だから、そう細くは出来ない。蝦夷の弓は、細くはなく、その上蔓草の皮を巻きつけて補強してある。引く為には相当な腕力を要するのだ。
そのため蝦夷の体型は、上腕が発達しており、それに比べて下半身は貧弱であったと言う。
古能代は、まず千方の腕力を鍛えなければならないと思った。
それなら、毎日、空弓を数多く引かせて置けば良いのだが、それでは、興味と意欲が続くまいと思った。
そこで、どこへ飛ぼうがお構いなしに、兎に角、数多く引かせることから始めた。
腕力が着かぬうちに狙わせてみても当たらない。すると、色々と考えるばかりで、やる気を無くしてしまうだろうと思ったのだ。
同様に、乗馬に付いても、安定した大和鞍に腰を降ろすように乗っていた者には、バランスを取る感覚があまり身に付いていないし、内股を締めて体を支える力も不足している。
そこで考えたのが、この遊具のような吊り丸太なのだ。
「跨ってみて下さい」
高さも低いし、丸太の上の端に蔓草の結び目を作ってあり、横にぐるぐる回ってしまうことも無いからどうということも無い。
古布を厚く巻いた上に馬の毛皮を巻いてあるので馬に跨ったような感覚がある。
しかし、子供じみているように思えたし、随分と自分の乗馬技術を低く見られているような気がして、千方は不満だった。
「では参ります」
そう言って、古能代が丸太を蹴った。
前後に動くばかりでなく、吊ってある枝の揺れに寄って上下にも動く。丸太は長さがあり、吊ってある蔦には手が届かない。千方は簡単に転げ落ちた。
油断していた為と思い、黙ったまま千方は、また丸太に跨った。
また、古能代が丸太を蹴る。
またしても、あっさりと転げ落ちた。
また跨り、古能代が蹴ってまた転げ落ちる。
蹴り方に依って揺れは様々となり、千方のバランスを崩す。
何度目かに、千方はつい、両の掌をべたりと毛皮の上に付き、体を支えようとしてしまった。
「手は上に上げておかれませ」
古能代に注意された。
「分かっておる」
つい言ってしまった。
「分かっておいでなら、そのようになさいませ」
静かではあるが、毅然として反論を許さぬ口調である。
古能代の蹴り方に依って、丸太は前後左右上下と様々な方向に動く。また、その振幅も様々となる。
千方が転げ落ちてばかりいれば、揺れを小さくし、千方がかろうじて耐えられる範囲にとどめ、必死で体勢を維持する時間を持たせる。
一見すれば子供の遊びのようにも見えるこの鍛錬も、しっかりと膝を締めて、上体を柔らかくしてバランスを保つ感覚を養う為に必要な鍛錬だった。
腰ほどの高さであれば、何度転げ落ちても大した怪我はしない。いきなり馬から落ちれば、大怪我どころか、死ぬ可能性すらあるのだ。
千方は大袈裟に言えば、満身創痍となっていた。
右腕の張りは取れておらず、左腕の内側は弓の弦に繰り返し弾かれたことにより、赤く腫れ上がっており、転げ落ちる度に腕の外側には擦り傷が付き、打ち身が残る。
落ちた時、掌や肘を突くことは古能代に厳しく戒められた。
腕は大きく上に伸ばして耳の脇に当てることによって頭を庇い、体の力を抜いて落ちることを繰り返し求めた。掌は外側に向ける。
どんな落ち方をしても大した怪我をする高さではないが、
『ここで叩き込んでおかねばならない』
古能代はそう思っていた。
「今日はこの辺に致しましょう」
古能代が言った。
意外に早く終わったと千方は思った。しかし、体は疲れ切っていた。
千方は黙って古能代に頭を下げた。
「それでは、また明日」
そう言って古能代は去って行った。
千方は下草の上に寝転んだ。
生い茂った木の枝の間から見える空は澄み切っている。風が木の枝を揺らし、春の心地よい日差しが辺りを包んでいる。
うっすらと汗の滲んだ額を手の甲で拭い、千方は大きく息を吐いた。
この数日のことが夢のように思える。
朝鳥も祖真紀も古能代も。そして、夜叉丸、秋天丸、犬丸、千常さえも、ほんの七日ほど前までは会ったことも無い人達なのだ。
あの日、千常が迎えに来なかったら、或いは一生会うことも無かったかも知れない。もちろん、芹菜にも。
『草原の人達は今何をしているだろうか?』
草原の風景が思い浮かべられた。母がおり、祖父がおり、豊地が居た。そこには、今も変わらぬ日常の時が流れているに違い無い。
その時、その光景の中に、千方は自分の姿を見出した。千方は妙な感覚に襲われた。
『もうひとりの自分が、今も草原で生活しているのではないか?』
そんな気がした。
『そうすると、今ここにいる自分は一体誰なのか? 或いは長い夢を見ているのか? このまま眠り込んだら、
『こんなところで眠ったら、風邪を引きますぞ』
と言って揺り起こすのは豊地ではないのか』
そんな思いが過ぎった。
急激に変わった環境に、千方の潜在意識が取り残されていたのかも知れない。
本当に眠りに落ちてしまいそうな自分を感じた瞬間。千方は意識して頭を振った。そして、両足を大きく上げ、両手を頭の上に伸ばし大きく反動を付けて起き上がった。
『まだ、やることが有る』
千方は舘に向かって、意識して足速に歩き始めた。
少し前から、朝鳥に弱みを見せたく無いという思いが芽生え始めていた。秋天丸が原因だったのかも知れない。その時は感じなかったが、朝鳥に負けて悔しがっていた秋天丸の姿を己と比べた。。
あの時自分は、
『大人の朝鳥に負けたのは仕方ないとしても……』
と考えていた。
しかし、秋天丸は、大人も童も関係無く、負けたこと自体を悔しがっていたのだ。
そこが、秋天丸と自分の違いなのだと、千方は突然気付いた。相手が誰だから負けても仕方無いと思うのは、稽古としてしか考えていないからだ。
実際の戦いで、相手が誰だから殺されても仕方ないなどと思うはずが無い。例えどんな相手であっても、負ければ自分が死ぬのだ。何としても勝たねばならない。その思いが、秋天丸をあそこまで悔しがらせたのだ。
自分は甘いと千方は悟った。
それを克服しない限り、秋天丸にも夜叉丸にも勝てない。己を変えなければ……
その手始めが、朝鳥に弱みを見せないことだと思った。




