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14 昔語り・迫り来る危機

延暦(えんりゃく)八年(七百八十九年)六月のことと言われておりますが、阿弖流爲(あてるい)が最初に指揮を取った巣伏(すふし)の戦いでは、我等の祖、日高見(ひたかみ)(たみ)大和(やまと)軍に圧勝しました。


 大和(やまと)は五万の軍を以て押し寄せて参りましたが、衣川(ころもがわ)の辺りに布陣すると、秘かに軍使を送って来たそうに御座います。

 

 一人の武者に二人の随員と案内役として、大和に下った男ひとりがやって来たそうで御座いますが、殺してしまえという皆の声を抑えて、


『何を言いに来たのか聞いてみようではないか』 


阿弖流爲(アテルイ)はその者達と、場所を選び互いの人数を決めて会ったそうです。


 軍使は阿弖流爲(アテルイ)に会うと、尊大な態度でこう切り出しました。


『この度、朝廷は五万の大軍を繰り出して、この地を囲んでおる。これ以上手向かい致さば、女子供を含めてその方らすべての夷賊(いぞく)は根絶やしになるであろう。(おそ)れ多くも(みかど)はこれ以上辛抱ならぬとお怒りなのだ。

 しかし、我等が総大将・征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)様はお情け深いお方でのう。最後の機会を与えようと申された。依って、麿がそのお言葉を伝えに参った。心して承れ。

 書状を(つか)わされたが、その方ら文字も読めぬであろうから読み聞かせて(つか)わす。良っく承れ』


 そう言って、手紙を取り出して読み始めたのです。


『その方ら蝦夷(えみし)は、(いにしえ)より此方(このかた)、我が良民(りょうみん)を苦しめ、田畑を荒し、馬を奪い、非道を重ねてきた。

 朝廷よりの慈愛に満ちた説諭にも応じぬまつろわぬ者共をこれ以上許す訳には行かぬ。

 (かしこ)くも(みかど)(めい)により、この道の奥まで討伐に参ったが、特別の温情を以て最後の機会を与えようと思う。

 もし、武器を捨て一旦、(ばく)に付き心を改めるならば、その罪一等を減じ特別の計らいに依って、この地に留まり、安寧(あんねい)な暮らしをすることを差し許す。御法を守り(めい)に従うならば(みかど)臣民(しんみん)として命を永らえることが出来よう。くれぐれも心して思案致せ』


 そして、手紙を巻きながらこう付け加えましたそうで。


『これは内々のことじゃが、もしその方ら素直に恭順(きょうじゅん)の意を示さば、阿弖流爲(アテルイ)には大墓公(たものきみ)副首(ふくしゅ)母礼(もれ)には盤具公(いわぐのきみ)と名乗ることを差し許すとのご内意も得ておる。無用な(いくさ)はやめて、我等に下れ。その方が良いぞ』


 軍使が手紙を差し出すと、阿弖流爲(アテルイ)は無言で受け取った後、こう申しました。


『言われる通り、我等は、文字は読めぬ。

 そればかりで無く、大和(やまと)の言葉も難しいことは分からぬ。今言ったこと、難し過ぎて吾には何のことやらさっぱり分からぬわ』


 その場に居た日高見の者達は、始めはクスクスとやがてはゲラゲラと笑い出しました。


『うぬ、我等を愚弄(ぐろう)するか! 夷族(いぞく)共めが』


 軍使は怒り出しました。


 阿弖流爲(アテルイ)は黙って手紙を破り捨てたそうに御座います。


(おのれ)、許さぬ!』


と軍使の男が太刀に手を掛けた瞬間、日高見(ひたかみ)の者達が襲い掛かり三人の大和(やまと)の者達は、体中を差されて息絶えたそうに御座います。


 ひとり残った案内役の男は、


『好き好んで、大和(やまと)に従っていた訳ではない。機を見て逃げ出し、もう一度大和(やまと)と戦うつもりでいた。大和(やまと)の者達は我等を人として扱ったりはしない。(だま)されてはならない。吾をここに置いてくれ。きっと役に立って見せる。頼む』


と泣き着いたそうです。


 阿弖流爲(アテルイ)(しばら)く、黙ってその男を見下ろしておりましたが、やがて、


大和(やまと)の手先となって何人の日高見の民を殺した?』


と尋ねました。


 そして、


『もしあの男が我等を見下(みくだ)したことを申している間に刺し殺しておれば、ここに残ることを許しただろう。


 だが、今となっては遅い。


 同胞(はらから)ゆえ命までは取らぬ。大和の者達のところへ帰れ。そして伝えよ。例え吾ひとりとなっても日高見の民の誇りは守るとな』


 それは、何としても日高見(ひたかみ)の地と(たみ)を守り抜くという、阿弖流爲(アテルイ)の強い決意の籠った言葉だったので御座いましょう。


 項垂(うなだ)れて男が去った後、阿弖流爲(アテルイ)は申しました。


『奴らは楽をして勝とうと思っておる。

 ならば、楽に勝てると思わせてやろうではないか』


 案内の男がその後どうなったかは分かりませぬ。

 当時の胆沢(いさわ)は、稲作も行われ、縦横の道が整えられ、両側には田が広がるそれは豊かな地となっていたそうに御座います。


 阿弖流爲(アテルイ)は、何としてもこの地での戦いを避けたいと思案を巡らし、日高見川(ひたかみがわ)(現・北上川)の東岸に拠点が有るように大和(やまと)軍に思わせることから策を始めたのです。


 当時、大和(やまと)に下った者達の多くが『()を以て()を制す』との大和側の考えに基づき、先頭を切って日高見(ひたかみ)の者達と戦うよう仕向けられていました。

 その扱いに耐え切れず離反し大和に背く者達も多くなっていましたが、仕方無く大和(やまと)に従いながらも、同朋(はらから)と戦うことに苦しんでいる者達も多く居たので御座います。まずは、そうした者達を通じて、阿弖流爲(あてるい)の拠点は日高見川(ひたかみがわ)の東側に有るという偽りの情報を流したということで御座います。


 四千人の大和(やまと)軍の精鋭が川を渡り、日高見(ひたかみ)軍三百人ばかりが迎え撃ちました。

 ですが、この三百の兵は実は(おとり)でした。少し戦っては退()き、また少し戦っては退()きと、徐々に大和(やまと)軍を北へ北へと誘って行ったので御座います。


 日高見川(ひたかみがわ)(北上川)の東岸は、南の平地は広く北へ行くに従って山が迫り、一旦狭くなっております。

 大和(やまと)軍は戦いながら進み、再び広くなる辺り、対岸の巣伏(すふし)村(現・岩手県奥州市江刺区、四丑(しうし))から日高見川を渡河して来る別働隊と合流しようとしておりました。しかし、その別働隊は、既に日高見軍に依って、渡河を阻まれていたのです。

 十分に敵を北に誘った後、三百の日高見軍は八百の本軍と合流しました。更に、阿弖流爲(あてるい)は東の山にも手勢を伏せていました。大和軍が通り過ぎた東の山から、四百の日高見軍が現れ、大和軍を挟み撃ちにしたのです。


 日高見軍は大和軍の大将首二十五を挙げ、多くの兵を弓矢の餌食(えじき)としたそうに御座います」


「うん。その戦いの記録を読んだ方に伺った話じゃが、弓矢により命を落した者は二百四十五名だが、日高見川(ひたかみがわ)に追い落とされ溺死した兵が千人余りに上ったそうだ。(よろい)を脱ぎ捨て何もかも捨てて、裸身にて泳ぎ渡った者のみが助かったと聞いておる」


 朝鳥は感慨深げに腕を組んで頷いた。


「千人も溺れ死んだのか!」


 千方は驚いた。


「はい。この戦いに依って阿弖流爲(アテルイ)の名は陸奥(みちのく)中に鳴り響き、日高見付近の族長達は元より、遠く津軽(つがる)渡島(としま)の族長達までもが使いを送って来て、阿弖流爲(アテルイ)は押しも押されもせぬ頭領と成ったので御座います。


 (ようや)く、我等の祖はひとつになる(きざ)しを見せ始めていたので御座いますが、大和(やまと)に支配されぬ日高見国(ひたかみのくに)を作るという望には遥か遠いものでした。


 大和(やまと)は、決してそれで諦めたりはしませんでした。この戦いに大勝したことが、果たして良かったのか悪かったのか。今となっては分かりません」


「その阿弖流爲(アテルイ)がこの(さと)と関係有るのか?」


 千方が尋ねた。


「はい、()(てい)に申せば、我等は、その阿弖流爲(アテルイ)の子孫に御座います」


「ふん。それで”亡霊”と申したのか?」


 朝鳥が頷きながら言った。


「五年後の延暦(えんりゃく)十三年(七百九十四年)には、大和(やまと)は倍の十万の軍を以て攻めて参りました。


 阿弖流爲(アテルイ)は奇襲を掛け、策を以て対抗し、山に潜み野に伏せて半年ほども戦いましたそうです。

 そして、遂に撃退したのですが、前回と違い日高見の民も大きな痛手を蒙りました。数多くの戦士が死に、胆沢(いさわ)の地も荒れ果てました。


 前回の失敗に懲りて用心深くなっていたことも確かですが、この戦いでは、大和(やまと)(みかど)側近の若き副将軍、坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろという男が前線で直接指揮を執っていたことが、その前の戦いとは大きく違うところでした。


 田村麿は、それ以前の指揮官達と比べ、愚かでも怠慢でもありませんでした。 ……いや、これは口が滑りました。お許しを」


「気にするな。朝廷にも愚かな者は大勢おるわ」


「恐れ要ります。それでは続けさせて頂きます。


 田村麿(たむらまろ)阿弖流爲(アテルイ)の仕掛けた罠にそう簡単に嵌ることは無かったそうです。そして田村麿は、ただ攻めるだけではなく、一方で、大和(やまと)に下った者達を使って、阿弖流爲(アテルイ)に対して、投降を呼びかけることもしていたのです。


『仮にこの戦いを(しの)いだとしても、朝廷は決して諦めない。繰り返し大軍を送って来るだろう。

 そなた達にも理があろう。されど、一人残らず殺されるまで戦うつもりか。愚かなことである。麿が指揮を執っている間に降伏すれば、悪いようにはしない。多くの(たみ)のために聞き分けよ』


 田村麿(たむらまろ)は、繰り返しそう呼び掛けて来たそうです。しかし、その時は、阿弖流爲(あてるい)に降伏するつもりは全く無かったのでしょう」


(みかど)は何としても終わらせたかったのじゃ。その年は、都を長岡京から平安京に移すという大事業の年であったからな。

 だからこそ、当時、近衛少将(このえのしょうしょう)であった若き側近の田村麿(たむらまろ)様を副将軍に任じられたのじゃ」 


大和(やまと)軍を追い払ったものの、村々は荒れ果て、多くの者が命を失い、冬を前にして十分な食料を確保することも出来ませんでした。


 餓死する者も多く出たそうに御座います。しかし、先ほども申しました通り、阿弖流爲(アテルイ)(もと)、皆が力を合わせ、大和(やまと)に支配されぬ日高見国(ひたかみのくに)を作ろうという気概だけは盛り上がっていました。

 直接(いくさ)に拘わらなかった北の者達が、胆沢(いさわ)に食料を送って来たりもして、(かつ)て無かった連携が生まれて来ていたのです。


 しかし、それは長く続くものではありませんでした。

 北の寒い冬。それが二年三年と続くうち、どの部族も自分達が生きることに精一杯となって行き、とても他を助ける余裕など無くなって行きました。そんな中、またもや、大和が大軍を送り込んで来るという噂が聞こえて参ります。


 いずれ来ると覚悟はしていても、それが目前に迫って来ると動揺する者達も出て参ります。

 あと何度戦ったら安穏(あんのん)な日々が訪れるのか? あと何人死ねば子供達に安らかな日々を与えられるのか? そう思うと、せっかく盛り上がった気運もしぼみがちになります。

 中には、自分達のみの安寧(あんねい)を願い、大和に通じる者達も出て参りました。

 仕方の無いことだったかも知れません。

 何しろ、いつまで戦ったら真の勝利が得られるのか誰にも分からない状態だったのですから。

 そして、日々追いつめられて行く生活は現実のものとして目の前に有る。誰も明日に希望を持つことが出来なくなっておりました」

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