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1 隠れ郷 1

『藤原千方伝・坂東の風』から幼年期などを大幅に削り、物語性を重視し読みやすいよう再編したものを『小説 藤原千方・坂東の風』として掲載しましたが、『幼年編』も、背景となる逸話を極力削り、別途再編してみようと思うようになりました。

 単なる自己満足的な試みです。

 天暦(てんれき)三年(九百四十九年)。母の実家で育っていた千方(ちかた)だが、十四歳に成った春の或る日、兄である千常(ちつね)自身が、数名の郎等を従えて迎えに来た。

 何の前触れも無く、突然のことである。


 千方は母と別れて暮らしたくは無かったので、


「母上と一緒でなければ参りません」


と言い張ったが、祖父・久稔(ひさとし)草原(かやはら)の人々は大喜びで、千常を歓待した。


 その晩は舘に泊まることになった千常が、(うたげ)の席で酔い()れている頃、千方は母に呼ばれた。


「お座りなさい」


 悪びれて突っ立ったままの千方に、母は静かに言った。

 千方は、仕方無く母の前に座った。


麿(まろ)は参らぬ」


と母は言う。


 この時代、一人称は男女の区別無く『麿』が使われていた。ちなみに、時代劇の中で高貴な女性が良く使う『わらわ』と言う一人称は、『わらわのように何も知らぬ不束者』と言う意味で、本来、上位の者の前で自分を卑下して使われる言葉だった。



「六郎殿、聞き分けるのです。そなたは、従四位下(じゅしいのげ)武蔵守(むさしのかみ)下野守(しもつけのかみ)、並びに鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)様のお子なのですよ。

 世に出なければなりません。父上のもとに参るのです。わざわざ、兄上がお迎えに来て下さった。そのことを良うくお考えなされ」



 ところで、『兄』と言われても千常は、世間的に言えば父親ほどの年齢であり、その上、顎髭(あごひげ)(たくわ)えた恐ろしげな人である。(この時、千常三十三歳であった)


『分かりました』 


とは、簡単には言えない。


「母は、この十四年、この日の来ることを、待ち望んで生きて参りました。

 その母の(のぞみ)を奪うのですか。母が死んでも良いとお思いか、六郎殿」


 千方の幼名は『千寿丸(せんじゅまる)』と言う。

 草原(かやはら)の家の人々は、秀郷との繋がりを強調したい気持からか、幼い頃より六郎様と呼ぶ者が多かったが、母は千寿丸と呼んでいた。

 その母が今、()えて『六郎殿』と呼び、(りん)として寄せ付けぬ気を発しながら、


「母が死んでも良いとお思いか」


と言う。


 理解出来ない成り行きではあったが、もはや(あらが)うことは出来なかった。




 翌朝、(さと)の者達の盛大な見送りを受けて、千常に従って下野しもつけに向けて出立した。

 千方に取って#武蔵__むさし__#を離れるのは初めての経験だった。


   

 武蔵国(むさしのくに)埼玉(さいたま)(佐伊太末)(ごおり)は現在の熊谷市、行田市(ぎょうだし)加須市(かぞし)羽生市(はにゅうし)、北埼玉郡、南埼玉郡、大里郡を含む地方である。

 太田(おおた)(於保太)、笠原(かさはら)(加佐波良)、草原(かやはら)(加也波良)、埼玉(さいたま)(佐以多萬)、餘戸(あまるべ)の五郷が置かれていた。


 埼玉郡(さいたまごおり)草原郷(かやはらごう)は、南は太田郷(おおたごう)に接し、東はもう下総国(しもうさのくに)(現:千葉県北部)に接している。

 刀祢川(とねがわ)(へだ)てて北は上野国(こうづけのくに)(現:群馬県)、一部は下野国(しもつけのくに)(現:栃木県)、常陸国(ひたちのくに)(現:茨城県)にも接していた。


 現在の利根川は千葉県の銚子に注いでいるが、これは、江戸時代に行われた利根川東遷(とうせん)事業の結果であり、平安時代の刀祢川(とねがわ)は、川俣(かわまた)(現:羽生市)付近で三派に分かれていた。


 (すなわ)ち、北は現在の群馬県館林市の方へ流れて谷田川(やたがわ)となり、中は現在の利根川の河道を流れて村君(むらきみ)を通り、飯積(いいづみ)(いずれも現:羽生市)付近の左岸から、現:茨城県古河市方面に流れる(おう)の川を分流したが、主流は外野(そとの)阿佐間(あさま)(現:加須市大利根)を()て、川口(現・加須市川口)に於いて最古の利根川に合流していた。(この付近を浅間川筋(あさまがわすじ)と呼ぶ)


 そして南の(あい)の川は、志多見(しだみ)加須(かぞ)を経て、川口で中央の一派(浅間川筋)を合わせて、現在の古利根川筋を流れ、さらに、高野(たかの)杉戸(すぎと)春日部(かすかべ)吉川(よしかわ)を経て、戸ヶ崎付近(現・三郷市)で荒川と入間川(いるまがわ)を合わせて、下流は隅田川(すみだがわ)となって東京湾に注いでいたのだ。




 一行はまず西に向かい、川俣(かわまた)の浅瀬を渡り、更にいくつもの流れを渡って、また川沿いを西に進み、村岡(現・熊谷市)の対岸付近から、武蔵国(むさしのくに)東山道(とうさんどう)に属していた頃の街道を通って北上し、一旦、上野(こうづけ)に出た。

 上野の新田郷(にったごう)(現・群馬県太田市)から東山道(とうさんどう)に道を取り、下野(しもつけ)に向かう。


 着いたところは、秀郷(ひでさと)の舘ではなく、千常(ちつね)の舘らしい。

 祖父・久稔(ひさとし)の舘と比べて広くかなり立派な舘であり、多くの者達が立ち働いていた。


 千常は見かけに寄らず気さくで、何かと千方に話しかけてくれたり、珍しい食べ物を勧めてくれたりで、居心地が悪くは無かったが、忙しい千常が留守の間は、所在無く庭を歩きながら、千方は、母を思い浮かべていた。

 (まわ)りに居るのは、郎等(ろうとう)雑色(ぞうしき)ばかりで、千常の家族が居るのか居ないのかも分からなかった。


 三日目の朝早く、出掛けるから支度をして待つようにとの千常の言葉を郎等の一人が伝えに来た。

 支度(したく)を終えるか終えないうちに、どかどかと、荒々しい足音を立てて千常が現れた。


「参るぞ」


『どちらへ』


とは聞かなかった。


 千方は、いよいよ父・秀郷(ひでさと)の舘へ行くものだと思い込んでいたのだ。


「はい」


と返事に力が入った。やはり、父には会ってみたかったのだ。


 庭に下りると、五十を大分過ぎていると思われる、(つわもの)(ぜん)とした固太りの郎等がひとり待っており、別の郎等が、千常と千方の馬を(うまや)から引き出して来る処だった。


 千常は普段の狩衣(かりぎぬ)姿で、特に改まった(よそお)いはしていない。


千寿丸(せんじゅまる)朝鳥(あさどり)じゃ、和主(わぬし)の世話に付ける。見知り置くが良い」 


日下部朝鳥(くさかべのあさどり)と申します。お見知り置きを、千寿丸(せんじゅまる)様」


 これが、千方と朝鳥の出会いであった。


 供は朝鳥ひとりだった。

 千常は北に向って馬を()せる。

 千方は遅れまいと必死で着いて行く。


 十四歳の千方には、小ぶりな馬が与えられていたので、千常の馬に着いて行くのは、容易では無い。朝鳥は、少し下がって呑気(のんき)そうに馬を操る。


「千寿丸。この坂東ではな、真に強き者しか生き残れぬ」  


 馬の歩みを少し(ゆる)めて、千常が千方に話し掛けて来た。


「はい。麿も兄上のように(たけ)(むわもの)に成りとう御座います」


 型通りのお世辞を言っただけだ。


「思っているだけでは駄目だ。真に、心も体も強く(きた)えねば生き残れぬ。

 いや、誰ぞの足許(あしもと)平伏(へいふく)し、何もかも差し出すならば、命だけは永らえることが出来ようが、それはもはや男子(おのこ)では無い。分かるか?」


 千方は気軽に、


「はい」 


と答えたが、なぜか千常にぎろりと(にら)まれた。 


 何が気に(さわ)ったのかと思ったが、千方には心当たりが無い。


「止まれ。馬を降りよ」


 千常は、突然厳しい顔付きになり、鋭くそう言った。

 千方は慌てて馬を止め、降りた。 


 馬から飛び降りつかつかと歩み寄って来た千常に、いきなり思い切り殴られた。


 いや、十四歳の子供を千常が思い切り(なぐ)ったりしたら、それこそ、本当に死んでしまうかも知れない。

 千常としては、それ成りに加減して殴ったに違いないのだ。しかし、千方はひっくり返った。

 千方にしてみれば、思い切り殴られたと感じた。

 激しい痛みと恐ろしさが錯綜(さくそう)し、千常に着いて来たことを、本当に悔いた。


 千常は仁王立(におうだ)ちに成って見下ろしている。

 次の一撃が来るのではないかと、思わず千方は身を固くした。視界の端に、朝鳥がゆっくりと馬を降りる姿が映ったが、主人を止める様子(ようす)など微塵(みじん)も無い。


 ふっと千常の表情が変わった。


「立て、千寿丸(せんじゅまる)

 鎮守府将軍の子が、下郎(げろう)のように、(おび)えて(うずくま)ったりするものではない」


 意外なことに、千常は静かにそう言った。もはや表情も普段のそれに戻っている。


 千方は必至で立ち上がり、着ていた水干(すいかん)の土を払った。


「良いか千寿丸(せんじゅまる)。今の(なれ)が真の(なれ)ぞ。己の弱さを知るが良い。

 先程、麿の話に調子を合わせて勇ましきことを言いおったが、口で言うだけなら、(みやこ)長袖(ちょうしゅう)公家(くげ)でも言える。

 もう一度言うが、この坂東では、真に強くならねば生き残れぬのだ。しかと覚えておけ」


 千方は、強張(こわば)った声で 


「はい」


と言うことしか出来なかった。


「馬に乗れ」


 促されて馬に乗ったが、左頬(ひだりほお)はずきずきと痛んでおり、まだ膝が(かす)かに震えていた。


 一行は北に向っている。


 彼方(かなた)には、山が連なって見え、国府(こくふ)秀郷(ひでさと)の舘の有る方角では無いことは、行ったことの無い千方にも察せられた。

 だが、もはや、それに付いて尋ねる気力は無かった。


 道はやがて山に()かり、登っては下り、回り込んだかと思えば、谷に沿って進む。


『一体、どこに行くつもりか』


 千方の心の中で不安な気持ちが増して行く。何種類かの山鳥の鳴き声が、絶えず聞こえている。 


「こんな山の中で、殿は良く道に迷ったりされませぬな」


 どうやら、朝鳥も行く先は知らないらしい。


(たわ)け! ここをどこだと思うておる。下野(しもつけ)の内じゃ。(おの)が庭を知らぬで、敵が攻めて来た時どう迎え撃つ」


 (おの)が言葉を楽しんでいるかのように千常が言った。


「いかにも。仰せの通りに御座います。

 しかし、山間(やまあい)に入れば、遠くの山も見えませぬゆえ、その形や方角を覚えることも出来ませぬ。

 どこもここも同じように見える山中で、分かれ道の目印など、どう覚えておられるのでしょうか?」


「ふふ。朝鳥よ。そのほうは(ごう)の者だが、やはり将の(うつわ)では無いのう」


「仰せの通り。多くの者をどう動かすか考えるより、目の前の敵と斬り結んでいる方が、よほど楽で御座ります。

 やはり、生まれ持った分相応(ぶんそうおう)の考えしか出来ぬものと見えますな」


とは言ったが、朝鳥は気付いていた。


 向かいの尾根や、山中の木々の間に時々人影が差す。付け狙っている者では無く、恐らく、千常を案内し、陰ながら護っている者達であろうと朝鳥は思った。


 で無ければ、まだ子供の千寿丸を連れ、供には朝鳥ひとりを伴っただけで、こんな山中に入って来るほど、今の千常は無用心な男ではない。

 豪放ではあるが短慮では無いのだ。

 千常にだけ分かる目印も、そこここに有るに違いない。山鳥の声に似せた合図で、分かれ道の左右を知らせているのかも知れない。


 朝鳥はそう思っていた。

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