地獄の男
●地獄の男
「駄目なのだ! それでは駄目なのだ!」
彼からすれば、あまりにも突飛な考えだからであろう。彦根中将様が異議を唱えた。
大樹公様が許した発言に割り込むのも異例ならば、席次から見て第一の重臣である彼が、拝謁の場で声を荒げるのも特別の大異例。
これも偏に、大樹公様が無礼御免と宣言された為である。
「世の者が全て、道理に基づいて動くものならば、あるいは長姫殿の言う通りであろう。
されど十中九の者は、道理だけでは動きませぬぞ。
あるいはこ奴を好いておるから。あるいは義理や柵があるから。あるいは武士の面目から。
様々な理由で道理に叛く事をやって退けます。
賞と罰。韓非子の説く二柄で正さねば、政治は動き申さぬ。
天下を統らす者には、儒者や女子供の考えるような綺麗事では済まされませぬ。
宰相たる者。仮令罪なき正しき者を罪人として誅ってまでも成さねばならぬ事が有り申す。
仮令その身は非命に斃れ、名は千載に桀紂の類と筆誅を受けるとも。世人を地獄に堕とさぬ為、自ら地獄へ赴く覚悟を決めねばなりませぬ。
姫にそのお覚悟はござりまするか?
世に新参者を嫉み、誹り蔑む者の数知れず。姫はこれをどう為されるお積りか?」
繰り出された舌刀にわしは応じる。
「口を開けば嫉みあり、筆を握れば誹りあり。
斯くすれば斯くなるものと知りながら、三国通覧や海国兵談を記しし忠肝義胆。
時を得ざるして一間の押し込めに甘んじた先人達がおいでです。
されど。彼らの赤心により、地を掠めようとするメリケンより八島の地境が護られたと聞きます」
「利いた事を。
仮令紙上談兵と雖も、長姫殿の学びはお歳に似合わぬ優れもの。
されど、政治は頭ではござらん。胆にて候」
タン! と膝で能を舞うが如く踏んで一歩迫り、彦根中将様は続けた。
「今、長姫殿の敵と成ろう者を論えば、先ずは家柄以外に大したことも無い盆暗連中。
しかし、これはまだましな方。己が無能を知るが故、盆暗でも務まる席を与え、尻で畳を磨かせておけば済む話。
寧ろ、奉行が務まるくらいの能ある士にて、面倒見の良い親分肌の者の方が始末に負えませぬぞ。
彼らは太平の世なれば、必ずや能吏として終りを全うした者達でありまするが、今は国難の時。
先例・仕来りでは済まされぬ舵取りの求められる昨今に於いて、なまじ有能が故に姫とぶつかる事でありましょう。姫が上様のお覚えめでたきが故の艱難にござる。
斯様な奴輩は、よもや上様を憎む訳には参り申さん故。きつく姫をば恨み辛みの的と致しましょう。世人の身共を怨む如くに」
大樹公様の席次第一の座は、生まれついての家柄無くして有り得ぬ事。ゆえに彦根中将様は間違いなく高貴の生まれ。それも累代の股肱の臣であろう。
しかしどうやら、彼は只の貴人では無い。相当の苦労人と見た。
多分、彦根中将様がわしの意見を咎めるのは、自身の面子がどうのと言う低次元の問題ではない。ただ純粋にわしの身を危ぶんでのことであろう。
仕方ない。内は百余の老爺でも、今世のわしは数えの十の娘にしか過ぎぬ。尋常科三年の外見では、同じ事を申しても重みが違うのは仕方ない。
「卒爾ながら……」
わしは彦根中将に向き直り、
「八島が桃源の夢にある世ならば、私も出過ぎた真似をしたくはありません。
しかし、彼に櫓櫂要らずの蒸気船有り。風も潮もものかはと突き進む艨艟が、四倍届く火砲を備え、この八島を狙っているのです。
四百余州は、アヘンと火筒と新式銃で襤褸と化し、清はあたかも凌遅の如くその身を削られつつあります。
今より兵を革め始めねば、亡国の轍を踏むは必定。
祖法祖法と申しまするが、八島は長き太平に慣れ権現様の時代の武威を失っております」
「聞こう。どう劣っている」
彦根中将様は、わしが既に旗本の体たらくを挙げている為、頭ごなしに否定はしない。
「大樹公家の威力の表徴と言えば、天下に名高き赤備え。
精兵の名に愧じぬ鍛練を成して、今もこの世にございましょう」
一度持ち上げたわしは、ここで一拍於いて、
「されど!」
と法螺貝のように遠く声を響かせた。





