二丁の拳銃
●二丁の拳銃
それは前世とは言え、わしの手に馴染んだ八連発の十四年式拳銃そっくりの物であった。
少年はゆっくりと、弾倉二つと火ばさみの様な物と一緒に、銃口をこちらに向けた拳銃を差し出す。
子供の手には少し大きく感じるが、バランスは手に馴染んだ拳銃だ。尤も弾倉は複列方式で、一本当たり倍の十六発が収められている。
この時代。拳銃は二条新地の親分がメリケン渡りの蓮根銃と呼んだ六連発のリボルバーが最新式で、自動式はまだ存在しない筈。それが今こうして在る。
弾は鉛の鋳造製。雷管式で金色に輝くガンメタルの金属薬莢。これは恐るべき先進性を持った拳銃だ。
これを創ったのは、あるいは創らせたのは。もしかしたらわしと同じ先の時代の知識を持って生まれて来た者やも知れぬ。
銃には八の字の頭をくっ付けた笠の下に、下の字が刻まれている。同じ笠の下にカタカナのキを横にしたようなのがヤマサの屋号なのだから、これはヤマシタと読むのだろうか。
これをわしに差し出した天狗は何者か?
驚きと愉快の入り混じった感情が、わしの目を見開き、口元を緩ませる。
「天狗殿。お志、確かに頂戴致しました」
礼を言い、わしは裏手の町家に向かって頭を下げる。殺気は無いものの、そこに人の気配を感じていたからだ。
仕組みは当に十四年式拳銃。利点も欠点も熟知した相棒が、わしの元を訪ねて来てくれたかのようだ。
大き目なれど、なんとか今のわしでも使えるサイズ。
安全装置を掛けて横面打ちに振ってみる。重さもこれなら問題ない。
反動は撃って見なければ判らぬが、腰溜めに打てば狙えるだろう。弾幕を張る馬賊撃ちも出来そうだ。
しかし。これをわしに寄越したと言う事は、いよいよきな臭く成って来た。
伝言と贈り物から察するに、少年の言う『天狗のおっちゃん』にも制御できない連中が居て、恐らくはわしを敵視して襲撃を掛ける恐れが高いのだろう。
わしはこの場で躾刀を落し差しに改めた。
普通より鐺を下げて差すと、柄が胸の近くに来て見苦しい。しかし見た目はだらしなく見えるこの差し方の方が実戦的だ。狭い場所でも物にぶつける事も無く、すれ違いざまに刀を制される事も避けられる。
確かに刀で戦うならば、抜き打ちに都合良い閂差しの利は手放せぬが、わしのはまだ躾刀だしな。
そうして今に至る。
今後はわしもいつ狙われるかも判らない。これは最早、腰の物が躾刀では拙いかも知れぬ。
襲われた側でもあり江家の伏見蔵屋敷の者達が請け合ってくれたので、わしは奉行の小笠原某とか言う男に顔を合わせて挨拶するだけで済んだ。
「全て水戸家の脱藩者でした。水戸のご老公に随身した事もある者が混ざって居り、一つ間違えば天下の大乱。
それ故、決して表沙汰には出来ませぬ。姫様には、ここは枉げてご堪忍をお願い致します」
何やら曰く付きの男達なのだろう。
最後は全面的にこちらに非は無いと明言してくれた。
但し、
「ご老公にも困ったものでございます。永蟄居の憂さ晴らしに、近頃は太平記読みに手を回し、世直し旅をする水戸のご老公の作り話を弘めておいでのようで」
等々、彼の愚痴には付き合わされたが。お陰で拳銃の事もうやむやにすることが出来た。
賊の銃も十四年式拳銃そっくりで、八の字をくっ付けた笠に下の字が刻まれている。
これもやはりヒショウの名人の作なのだろうか。
この時代。と言っても前世と似た歴史の流れだったらではあるが。三百諸侯の中で自動拳銃を創り得る工作機械を保持していた藩は二つ。
一つは薩摩。蘭癖大名と呼ばれた祖父・島津重豪の影響を受けた斉彬が西洋式の機械を導入している。この頃集成館事業で作られたり導入された機械は、電動改造されて昭和の中頃まで使われていたほどの優れものだ。
もう一つが肥前の佐賀藩。ここで日本製のアームストロング砲が作られ、上野戦争で大活躍した話は有名だ。
「ヒシュウと言って居ましたね」
だから当て嵌るのは後者の方。拳銃はどちらも佐賀藩で作られたと言う事なのだろう。佐賀には確か、和時計の最高峰となる万年時計を創り出し、後に東芝の創業者となるからくり義衛門が居る。
精密な工作機械が動いていても不思議ではない土地だ。
翌日未明。
襲撃で一日予定はズレたものの、わしらはご府中に向けて伏見の地を後にした。





