春風殿
●春風殿
飛び出して来たのは、顔立ちは整っているがあばた面の小男だ。
身の丈に似合わぬ長い刀を差していた。
「で、馬子様。どうかなされましたでございましょうか?」
わしは小馬鹿にしたように敬語を連ね、つらっとした顔をあばた面の小男に向ける。
「あはは。参ったな。僕は矢に刺さった雀みたいですか」
身のこなしから、剣は相当の腕前と見たが、この男結構学がある。
馬子と聞いて、敏達天皇御葬儀の故事とピンと来た。
そう。物部守屋が馬子を指して「矢に刺さった雀」と言い、蘇我馬子が守屋の哭礼を指して「鈴を付けたら面白い」と罵り合う、日本書紀における有名な場面の一つだ。
「真似事の手遊びとは言え、兵法の心得無き者相手ならば引けは取りませぬ。
しかしながら、馬子様のご助勢有難く存じ上げます」
とうに元服はしているが、まだ世慣れまではしては居ないのだろう。
どこの誰か。何を企んでやった事なのか知らないが。マッチポンプが杜撰だ。
しかし、心底怪我を案じるその瞳。悪戯好きだが邪な心の持ち主では無いようだ。
どこか憎めないこの男に、わしは春風の様な気を感じた。
「馬子様ではお嫌でございますか?
では。茶番芝居で私に近付こうと雇った無頼の輩の怪我を、心底案じることが出来る、あなたの春の風のような温かい心に因んで。これより春風殿とお呼びしましょう。
宜しいですね? 春風殿」
長い刀を差したあばた面の小男は、新しい呼称を聞いて、一瞬ぎょっとした。
「知ってて……。知ってて遣っているのか君は」
「知っててと申しますと?」
彼は何を警戒しているのだろう?
なまじ智嚢の秀でた男だけに、考え過ぎて独り相撲を取っているのかも知れない。
警戒しているのは寧ろわしの方だ。
今、彼を春風と形容したが、それは心の根っこの部分。根は確りと親兄弟・師匠・主君・朋輩の中に残しているが、随分と吹っ飛んだ奴に違いない。
さもなくば、数えで十の娘にあんな連中は嗾けまい。仮令出来レースで、直ぐに自分が助けるから実害がないと決まっていてもだ。
「春風殿。改めて聞きます。こんな茶番を仕掛けてまで、何用ですか?」
「幸姫様。ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」
あばた面の小男は、威儀を正し吐く息吸う息整えた。
するとどうだろう? ちゃらちゃらした感じから一転する。
「今、夷狄が祖法を冒し。宸襟を悩まし奉っております。
大樹公は、夷を攘えとの詔を承り、今や攘夷が国是と成りました。
そもそも大樹公家は、畏くも天子様に『夷を征つ大将軍たれ』と、世の差配を委ねられしお家なれば。攘夷は大樹公家の家職にございます。
然るに大樹公は、小人の舌先に惑わされ、攘夷を成さぬ事早、数年。
我が師義卿は連座にて妖怪の手の者に縄目の恥を受け、
国許蟄居の罪を得て、只今野山の獄に借牢しております。
呉の伍子胥・楚の屈原・宋の檀道済。
およそ国を憂うる者は小人の讒りを受け、非命に斃るる例が少なくありません。
このまま妖怪の思惑通り、我が師を妖怪の手に渡せば。必ずや本邦は亡国の憂き目に遭う事と相成りましょう。
どうか、幸姫様のお計らいを以って、我が師義卿をお助け下さい。
今、藩は俗論が支配をし、大樹公への盲目的な恭順に傾いております。
殿は迷っておいでです。幸姫様から、どうぞ背中を一押しして頂きたいのでございます」
また、無茶な事を言われたものだ。