弁天さんの引き合わせ
●弁天さんの引き合わせ
誰何され、生垣の切れ目より中に入ると、
「またあんたか!」
若い坊さんは声を荒げた。
おりんときたら、小さい体をさらに縮めて震えている。
自分の膝より小さな仔犬に怖じるおりんである。自分の倍の背丈の坊さんに怒鳴り付けられたら。もうそれだけで身も世も無い。
「恐れ入ります。宜しいですか?」
おりんに代わってわしが尋ねると、
「あ。ああ」
わしの言葉遣いに面を喰らったか、剣呑とした空気か入れ替わった。
「寺は、あなた様のような僧侶にとってご修行の場にございまするが。本来は衆生を導くためにあるものです。
悟りの道の先達であるあなた様が、頑是無い子供に向かって声を荒げるのは如何なものでしょう?」
こう尋ねたのは他でもない。以前わしに教えを説いた耶蘇坊主が、天国に行く為には小さな子供のように神様を受け入れる心に成らなければ為らない。と言ったのを覚えて居たからだ。
日本でも法然上人が『愚癡に還って極楽に生まれる』と仰られている。
確かに智慧は悟りを助けはする。しかしなまじな智慧は、それを恃む余り心を頑なにして仕舞う者が多い。
例えば頑是無い子供なら、自分が何も知らない事を知っている。だから素直に阿弥陀様の御手に縋り、結果容易く往生を遂げる事が出来るのだ。
しかし、刻苦して学の高嶺をよじ登りし者や。僅かばかりの自らの智慧を、舵に栞に世の海を渡って来た老人は難しい。
学問や智慧や経験が邪魔をして素直にお縋りすることが出来ない。
これは良くない事だ。考えても見よ。御仏の智慧に比べれば、所詮我らのような凡夫の智慧など、どんなに高く見ても大学生から見た尋常科の一年と二年の差に収まってしまう程度のもの。
どんなに粋がってみたとしても、お釈迦様の掌から抜ける事さえ出来なかった孫悟空が良い所。
知らぬと言う事は必ずしも悪いことではない。小さな子供が大人にあれこれ聞く様に、人は己が蒙いと思うからこそ求めるのだ。
「何故追い出します? この子が何をしたのでございます?」
詰め寄ると、若い坊さんはむっとした顔をわしに向けた。しかしそんなことで怯むようなわしでは無い。
「そこに居られると、掃除の邪魔になる」
と吐き出した未熟者にわしは、
「そんな料簡で悟りがお開きに成られるのですか? その掃除の邪魔を縁として、覚めしお方がいるでは無いですか」
と詰め寄った。
「はぁ?」
坊主の癖に良く判らないような顔をしている。
そこに、
「維英殿。あんたの負けだ」
と、横から声を掛けたのは同じ位若い声。
維英と呼ばれたお坊様は彼を見てこう呼んだ。
「竜庵殿」
ああ。茶坊主とは言え僧体だから、寺に居ると違和感がない。
「仏弟子の内、十六羅漢の一人に周利槃陀伽言う方がいらっしゃり、不学の見本のような人でおました。
経文どころか己の名も読めず、あまつさえ名を呼ばれても回りから教えて貰うて、やっと己の事やと解る程の者やった。
経もよう覚えられへん。普通の修行は適わへん、そないな周利槃陀伽に、お釈迦様はただ一つ、掃除をするように仰られたねん。
ひたすら掃除に勤しむ周利槃陀伽やったが。ある時、入り込んだ子供に掃除した所を汚されてな。
折角綺麗にした所を汚されたんや。お釈迦様の直弟子とて悟りを啓く前は普通の人間やさかい、当然かっとなるわな。
せやけど、流石はお釈迦様垂れた有難い訓えや。
周利槃陀伽はここで子供汚すのんは、我身に生じる煩悩と同じやと気付いたねん。
これが縁となり悟りに至ったさかい、寺では上の者も掃除を致すんやで」
流石、薩摩の守殿が耳役。僧体に相応しき学問を積んでいる。
竜庵殿はわしに向かい、
「幸姫様。少しお転婆が過ぎますぞ」
と言いながら一礼する。
「え? 姫?」
慌てて頭を垂れる維英殿。
「幸姫様。これも弁天様のお引き合わせでしょう。
彼は岩倉殿の縁者でして、俗名を堀河英之と申す者にございます」
続いて竜庵殿より維英の名の由来を聞かされた。
俗名・英之を逆しまにして『英』の字を採り、之と同訓の一字は、文殊菩薩の問いに対し一黙にて大乗を説く維摩居士の偏諱を頂いたものであると。





