弓矢の名をば腐す者
●弓矢の名をば腐す者
漏れ聞こえるのは修羅場かそれとも愁嘆場か。
どうやら男女のトラブルのようで、甲高い女の鳴き声と、大の男の野太い声が嗚咽のように響いている。
暫くすると不意に鈍い音がした。
益々女の悲鳴は大きくなって、これは喧嘩か? と立ち上がって様子を見に行くと。
顔を腫らした髪の短い男が胸元を掴まれていた。
「わしを誰だと思っておる!」
酔いが回って熟柿顔の男が喚く。
「仮令大名のお世継ぎだろうが知ったとこか。わしと同じで先祖が見たらさぞかし落胆することだろう」
少し酒を召してるようだが、こちらは至って冷静だ。
「何! 我が家を愚弄する積りか」
濁った血走る目で怒りを露わに怒鳴り散らす。
「先祖が偉ければ子孫も偉いなら、先祖が剛の者なら子孫も豪傑と言うことに為る。
しかし、目の前に居るわしが、豪傑に見えるか?」
「ふ。見える訳が無かろう」
どすんと力任せに部屋の隅に放り投げ、
「この末生りの青瓢箪が」
と足蹴にする。
「やめとぉくれやす」
見かねた芸妓が庇って間に入るほど、彼は豪傑と程遠かった。
「ふん。うぬのどこが豪傑じゃ」
すると足蹴にされた男は、
「この通りわしは、武芸では先祖の名を穢す情けない者だ。
しかし先祖は源平合戦の時代。加賀の篠原の戦いにおいて、斎藤別当実盛殿を討ち取りし剛の者だ」
と言い放った。
わざわざ武芸ではと口にする所を見ると。それが算盤か学問かは知らないが、武芸以外では己が器量を誇る所が有るのだろう。
さもなくば一方的に殴られ足蹴にされて、これほど凛としてはおられまい。
さて。斎藤実盛と言えば、年寄りと見られて侮られたくない。と白くなった髪や髭を墨で染めて、ただ一騎で殿を務めた豪傑だ。
彼の最期は今に伝わる語り草。
大将かと見れば続く軍勢もなく、侍かと思えば大将軍の装いである錦の直垂を身に纏い、源氏の軍勢に立ち塞がる。
前世でピコピコ……もといテレビゲームに夢中だった孫が、修学旅行で小松市の多太神社へ行った時、
「祖父ちゃん。僕、本物の源氏の兜見て来たよ! 鍬形の真ん中に八幡大菩薩って文字があったよ!」
と、わざわざ電話を寄越したくらい格好良い源義朝より拝領の兜を被り、平宗盛より許された赤地錦の直垂を纏っての大奮闘。
当に一章のハイライトと言って良い。
池で墨を洗い落とした実盛の首級と対面した樋口次郎は、二十八年前に実盛のお陰で命を拾った総大将・木曽義仲の前で、
「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」
と溢したと言う。
因みにそれから下る事五百余年。松尾芭蕉は彼を偲んで一句を捧げている。
――
むざんやな 甲の下の きりぎりす
――
と。
「やめとぉくれやす。みんな私悪いんどす。
あんたの言う通りにするさかい、良庵せんせに乱暴しいひんで下さい」
芸妓の話から見て。
なるほど。大方、酔客が芸妓を手籠めにし掛け、短髪の男が助けに入ってこうなったのだろう。
ならばと芸妓を連れ去ろうとする、何処かのお偉いさんのバカ息子と言った所か?
「あん阿呆」
わしと同じ座敷に居た、年嵩の男の子が腹を立てて向って行こうとする。
それを手で制すると、
「まだ杯貰うて居ーひんが、わしも二条新地の親分の子分の一人や。
筋の通らへん無体は許せへん」
と健気な事を言う。それを手で後ろに押しやり、
「私が出ます」
代わりにわしが前に出る。
「おやめなさい。力尽くで手籠めとは、ご家名に傷が付きますよ」
するといきなり掴みかかって来たので、足を掃って投げ捨てる。
元々酔った千鳥足だ。手も無く男は転がった。
「わしを馬鹿にしゅうさって。クソガキが殺しちゃる」
思わず飛び出たお国訛り。
おや? この訛りは……。と思う間もなく。
「きゃあ!」
女達の悲鳴が上がった。
こいつ何を考えている。こんな所で刀を抜き放った。





