湯殿にて
●湯殿にて
「どうですか?」
「あー! んぁあー!」
湯殿の窓越しに尋ねる女将の声に、むずかる赤ん坊の声が混じる。
赤ん坊は女将の二人目の娘でまだ首が据わったか据わらぬかの頃。子守を雇うにもまだ早過ぎる時期である。
「丁度宜しいですよ。もう宜しいですから、お乳を上げて下さい。
赤子の頃に我慢させると、気性が激しくなると聞きます。男ならば頼もしい限りですが、女ですから」
そう言って、わしは赤ん坊の世話を促す。
「それではお言葉に甘えさせて頂きます」
静かに為った風呂の中。ぷかりと一人湯船に浸かりながら月を眺める。
乾いた畑に水の染み込む如く、ただの真水を沸かしたお湯が命を恵んでくれる。
こうして一人で過ごすのは久しぶりだ。明日からも、暫くこれが続くと思うとホッとする。
全ては竜庵殿と春風殿を通じた、二つの藩の思惑だった。
わしは、なし崩しになった問答を振り返る。
「つまり。義卿殿が事実無根の咎を受けぬよう、手を貸せ。こう申すのでございますね」
「御明察にございます。差し当って幸姫様には、暫し京にご逗留をお願い致したく」
あの場で竜庵殿は、警護名目で着いて来たお伴の春風殿・狂介殿・春輔殿を手空きにして欲しいと頼んで来た。
「竜庵は動かないのでございますか?」
「ご尊父様の密命により、近く還俗して兄の居なくなった輪読会の中に入り込む予定にございます。
それゆえ、恐らく過激な一派との繋がりも予想される賊徒と直に関わることは、厳に慎まねばなりませぬ」
「主命ですか。是非もありませんね」
ここまで明かした以上、反対すればわしも危ういかも知れん。
「お借りするご家中の方々にとっても、師の謂われも無き汚名を晴らす為でもあり、これは尊藩藩侯のお許しもあることにございまして」
なるほど。道理でいとも簡単にご府中への旅が認められた訳だ。
わしの願い出は藩庁にとっても渡りに船だったと言う事か。
「ならば。宣振も付けましょう。宣振は剣を執っても強うございます」
「宜しいのですか?」
春風殿達が目を瞠り、竜庵が驚きの声を挙げた。
こうして、わしは切れる札を全て切った訳だ。
湯船の中でわしはごちる。
「この貸しは小さく無いぞ、春風殿に竜庵殿」
尤も、宣振まで汚名返上の寄騎に出したのはべつの思惑もある。
何せ、姫の身の上で供を連れてでは、羽を伸ばせんからな。
ぽちゃっと、天井から滴が落ちる。湯加減は丁度良い。
わしは湯船の中で湯を握る。地味だが、剣を執るにも柔の術を使い熟すにも不可欠な鍛練だ。
疲れて指が動かなくなっても。湯の中だ、暫く力を抜いていれば回復する。
最初はゆっくりと馴染ませて、次第に握る力と速さを増して行く。
連続で握り続けると、湯は軟式野球のボール程の硬さに成り、一瞬遅れて吹き上がる水柱は三尺以上に達し続けた。
「昔は天井まで六尺は上がったのだがなぁ」
前世の現役の頃を思い浮かべる。これではやっと古希の辺りの握力だ。
じっと手を見る。
柔で小さい子供の手だ。特製手袋のお陰でやっとうを始める前と殆ど変わらない。
さて。折角京都に遣って来たのだ。明日からは名物の針を購い、寺社を巡ろうとしよう。
ここから目と鼻の先に、長尾天満宮がある。天満宮で判る通り菅原道真公が祀られて居る事は誰にでも判るが、さらに霊威ある神様が祀られている神社だ。
例の薬の事もある。足を運んで薬神たる大国主神に報告しておこう。
この時代、寺社詣は観光でもある故、ついでに羽も伸ばさせて貰おう。
乳飲み子を抱える女将には悪いが、参拝前の禊ぎを名目に朝湯を楽しむのも悪くない。
「善し!」
会心の手応え。
一度だけだが、握った湯が天井に達した。





