やっとう始めました
●やっとう始めました
前世で遣っていたのは独学が可能な剣術だ。貧しく道場に通えずとも腕を磨けるものだから、やるせなき我が身の悲歌慷慨を剣に込めて叩き付けていた。
後に兵隊と為った時、剣の腕を頼りに上等兵に進み、比較的楽に下士志願も叶った。
戦地を這いずり回った時には、その時覚えた剣術の業が何度もわしを救ってくれたものだ。
立場が違って食う物に困らず、奉公人まで抱える今世のわしだが。師匠に就けぬのは前世に同じ。
改めて、一度身に付けた業を今世の身に纏う必要がある。
教師をやっている孫の一人が、面白い事を言っていた。
技術は本を読めば身に付く。しかし技能は実践あるのみ。と
前世とは言え一度は身に付けた業だ。頭では解って居るし、コツも十分に掴んでいる。ただそれを今世の躰に合わせるだけ。
わしは野球のバットを構えるように木刀を構えた。
「きぇぇぇぇっ!」
奇声を上げながら、庭の杭に向かって打ちこむ。乱打、乱打、また乱打。
しかも一触に敵を斃す心積もりで、一打一打に必殺の念を込めて打つ。
これが前世でわしが習った剣術修行の一つだ。
御一新を生き抜いた老人から直に「木立打つべし」と教わったが、まさか見越しの松や、家計の足しにする夏蜜柑の樹に打ち込む訳にも行かない。代りに庭に何本も、杭を打ち込んで貰っている。
左右の袈裟に切り付ける。杭の頭を叩き付ける。前世で若い頃に、会社の野球チームに入っていた時の事を思い出し、地面と水平にも打ち付ける。
大声を上げ躰を動かすと、かなり気分が晴れて来た。
「姫様。いつこんなことをお知りに為られたのですが?
あちゃはお耳に入れたことさえございませんが」
「はしかに苦しんでいた時。夢に住吉の神様達が現れました。
神様たちは私に神々しい剣を授け、宣われたのです。
『剣を執れ。執って寇を打ち払え。我等らは薬師・阿弥陀・大日なり』と。
私はその剣を握り、御教えのままに振るいました。そして三柱の神様より授けられた業がこの剣術なのです。
私は迫り来る疫神と戦いました。漸く疫神を退けた時。夢から覚めてあちゃの顔が見えました」
襤褸が出ないように、神様を言い訳にする。
「そのようなことが……」
信心深いあちゃは、有難がって手を合わせ西を向いて拝んだ。
いいな。住吉の神様。この言い訳は色々なことに使えそうだ。
あちゃはすっかり信じ込んで、わしの奇行を受け入れてくれた。なにせはしかを癒した神様のお告げなのだからな。
こうして鍛練の日数を数える程に、昔のカンを思い出して行く。
以前は殆ど運動もしなかったこの身が次第にしゃんとして参り、以前は細かったと言う食も健啖を誇るように成って来た。
そんなある日。出入りの魚屋が噂話を持って来た。
「なんでも、また黒船が現れたそうでやすぜ」
黒船? 前世の歴史ではペリーの東インド艦隊の事だ。
すると今は幕末と言う事になる。天久などと言う、聞いた事も無い元号だが、ペリーの艦隊が来ているのか。
たった四杯で夜も眠れず。と狂歌に残る黒船来航。これから幕末の動乱が始まる。
面白い時代に生まれ変わったものだ。