上り船
●上り船
早朝七つ。
提灯を手に蔵屋敷を出で、八軒家の船着き場から船に乗り込んだ。
開墾の拝み小屋宜しく筵で作った屋根の下。わしらは朝餉の弁当を広げる。
「夕方には伏見に着く見込みであります」
わしに麦湯を注ぎながら春風殿が説明した。
なんでも面白き趣向があるとやらで、少しばかり楽しみにしている。
キィキィと軋む音と共に、船はゆっくりと川を遡る。
江口の曳き場に到る辺りで夜は明けた。
柱本・三島江と船を引き、ここから枚方の船番所へと帆を張り流れに棹差して、東の岸まで川を横切る。
その時。舳に立つ船頭が謡い始めた。
――――
♪花の大阪 ノーォエ 花の大阪 ノーォエ エェエーイィサーー
ここは天下の台所 七つ天満を後にして
ノォエーーー エイエ エイサーーー
淀を上りて遥々と 往けば川路は高瀬川
エイエー エイサーーー 伏見港は サァー 要の地
ノォエーーー ノォエーーー♪
♪御香の宮水 ノーォエ 御香の宮水 ノーォエ エェエーイィサーー
伏見旨酒・酒所 仕込む伏水の清水よ
ノォエーーー エイエ エイサーーー
桓武の御代より滾々と 尽きぬ泉は養老の
エイエー エイサーーー 玉の泉を サァー 醸したり
ノォエーーー ノォエーーー♪
♪笠置屋・鮒屋は ノーォエ 笠置屋・鮒屋は ノーォエ エェエーイィサーー
いずれ劣らぬ天下一 飲めば力が湧き出でる
ノォエーーー エイエ エイサーーー
富此翁の鮒屋酒 下る下らぬ言う前に
エイエー エイサーーー 玉の泉の サァー 笠置酒
ノォエーーー ノォエーーー♪
――――
褌一丁で棹を差す者達は、舳に立つ船頭の唄に合わせ船を動かす。
しかし、先程までの船唄とはガラリと違う内容だ。
にっこり笑う春風殿の顔を見れば、これはわざわざ用立てた、わしを悦ばす趣向なのだろう。
謡いの声は見事なものだ。
暫く行くと。
「餅喰らわんかぁ~」
「甘酒喰らわんかぁ~」
卑下た言葉で呼ばわりながら、小舟に食べ物を乗せて売りに来るのは地元の農民らしき人々。
「こいつは美味との評判じゃ。姫さんも早う召しあがってくだされ」
わしの分まで餅と押し寿司と甘酒を買った宣振が、わしに献じる。
「遠慮せずともお食べなさい。私は後から頂きます」
「宜しいので?」
と聞かれたのでわしは、
「皆様。忠義者の宣振がお毒見を買って出てくれました。
皆も半刻ほど遅らせて頂きましょう」
毒は入って居ないだろうが生物もある。食中毒の危険が無いとも言えない。
「ははは。忘れておったが、姫さんは国主の娘じゃったの。
では遠慮なく……」
大義名分を得た宣振は、寿司に甘酒焼き餅と皆の買った物を少しずつ、皆より先に口にした。
梅の香のする甘茶に枯れた塩餡の餅。
半刻遅れて食する茶菓だが、冷えても味の落ちない工夫がしてあるようだ。
右舷を見れば、目刺しの如く連なって船を曳く裸の男達。
そんな彼らに背を向けて、わしは左舷の景色を楽しむ。
鮮やかな緑を映す水面。木漏れ日が光りの滴を編み、涼風が抜ける。
そんな緩やかな時の流れと、程好い陽気にうつらうつら。
後ろに控える宣振に持たれ、いつしかわしは眠っていたようだ。
こうして貸し切った船で淀川を遡る事半日余り。夕刻わしらは京に着いた。
「泊りは船宿を用意致しました。そこにございます」
こちらは春輔殿の手配りか。船着き場の直ぐ前だ。
宿は開けっ放しの店構えで二階建ての瓦屋根。二階は襖一つを隔てて大部屋になる造りだった。
「こちらの方が、姫様にはお好みでございましょう」
警護の為にはプライバシーなど言っておられぬと言う事か。
しかしそれでも六曲一双の屏風が、上座の一隅を囲っていた。
「女将のお登勢にございます。
こたびはわざわざ寺田屋をお選び下さり、真に恐悦至極にございます」
ゆかしく三角形に付いた手の三角の間に、深々と鼻を埋めて挨拶する三十路ばかりの女将さん。
「ここは伏見藩邸まで二町余り。
近過ぎず遠過ぎずの距離にあり、いざと成れば直ぐに応援を呼ぶ事が出来ましょう。
同時に薩摩の定宿でございますゆえ、下手な者は近寄れません。
お忍びの宿としては、姫様のお心に適った場所かと存じます」
宿選定の理由を明らかにする春輔殿。
「本当に、それだけにございますか?」
春風殿をちら見しながらわしは詰め寄る。
「そ、それだけにございます」
おいおい。顔に出ているぞ。どうやら何か隠しているらしい。
意識を辺りに巡らせば、チリっと焼き付くこの感覚。
「誰?」「おい!」
わしが腰を浮かせるのと、カチっと宣振が鯉口を切るのとがほぼ、同時であった。





