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衛生の経

衛生(えいせい)(けい)


――――

♪黒海々上 雲荒れて

 クリミヤ半島 血を降らす

  叫喚地獄の その中に

  匂う (はちす)の 花一輪♪


♪手負いの兵士(つわもの) 病める(へい)

 永き眠りに つく人の

  あはれ神とも (ほとけ)とも

  (たの)まぬ 者ぞ なかりける♪


(ナイチンゲール 著作権消滅

 詞:石原和三郎/曲:納所弁次郎)

――――


 芸者を上げて騒ぐ揚屋の中で、いったいわしは何を歌っているのだろう。

 邦楽とは異なる目新しき節回しを珍しがられている。



 実はあの後、儀兵衛(ぎへい)殿と言葉を交わす内に衛生についての話になった。


「先頃終結したオロシャのクリミア戦争は、戦場(いくさば)で鉄砲に当たり運良く命を拾っても、手当空しく半数が命を落として行く生き地獄であったとか。

 そこへ赴任なされたナイチンゲールなる女人(にょにん)が、病床の清らかさを徹底し、死者を八分の一に減じたそうにございます。

 傷を濃い酒精で洗い、煮沸した清潔な包帯を使う事で。

 寝床(ねどこ)の広さを十分に取り、澱みを風で掃き出すことで。

 僅かこれだけの事を徹底したことで、百中四十二の死者が百中五となり、助かる人が増えたと伺います。


 幸い、本邦には(みそ)ぎ・潔斎(けっさい)の慣わしがあり、学の無い物にも受け入れ易いものにございます。

 決して種痘のように、牛痘を植えれば牛に成ると言う(たぐい)の迷信・世迷言も出て来ますまい。


 私は、このような今直ぐ出来る小さな事を(ひろ)めることも、大変大事かと思います」



 そしてナイチンゲールがどのような人か、説明するために歌ったのが先の歌である。

 平成の世には既に忘れられた唱歌であるが、わしの子供の頃は尋常(じんじょう)小学校で教えていた歌だ。



布衣(ふい)の多くは学も無く、難しい事は解りません。誰でも判る戒めはございますか?」


 そう聞かれたわしは、病を防ぐものとして具体的な事を挙げて行く。



 一、井戸は、ドブや(かわや)六間(ろっけん)以上離す事。

 一、井戸は三丈(さんじょう)以上の深井戸のみを飲み水とする事。

 一、赤子・老人・病人には必ず一度沸かした湯冷ましを用いる事。

 一、樋を使って水を引き、井戸の近くで洗濯・洗い物をせず、使った水はドブに流す事。

 一、平静から手洗いうがいを行い、まめに湯浴みや行水を行う事。

 一、青梅を食べぬ事。疲れた時に冷や水を飲まぬ事。勿体ないからと痛んだ物を食わぬ事。


 前世では常識の注意事項を列挙した。



「なにゆえ井戸に拘るのでしょうか?」


 儀兵衛殿がわしに問う。


「これは私が長崎帰りの者から聞いた話ですが」


 怪しまれぬ様、前世の知識を元に話を創る。


「丁度私の生まれた頃に、エゲレス国の医師がコロリが飲み水に関係していることを着き止めそうにございます。

 全ての病が同じでは無いとは思いますが、原因を同じくする病については、飲み水を清らかに保つことで病に罹る者も減る事でしょう。

 また、神仏に病魔退散を祈るのならば、身を清めるに()くはございません」


「なるほど道理でございますな」


 儀兵衛殿は頷いた。



「私は偉い学者様の医術を高めるだけではなく、市井の人々にも実践できる技こそ大事だと思うのです。

 水道・下水・(かわや)の始末など(まつりごと)の成す技に、湯屋や手洗い・うがいの習慣など一人一人の心掛け。

 こう言った諸々の事は。そうですね、生きるを(まも)る根本の道でありますので、衛生(えいせい)と呼びましょうか」


 わしは矢立で懐紙に『衛生』と字を書いた。

 すると今まで黙っていた専斎(せんさい)殿は、


「衛生……ふむ」


 考え込む。そしてはたと膝を打ち、


「ああ、なるほど。


 ()きて()く所を知らず、()りて為なす所を知らず、

 物と委蛇(いい)してその波を同じくす。これ衛生(えいせい)(けい)のみ。


 これは荘子そうじ庚桑楚(こうそうそ)篇でございますか。


 ナイチンゲール殿によって(あか)し立てられた、清らかさを保てば劇的に助かる人が増えると言う事実。

 これぞ当に衛生の経、生命を全うする根本の道にございますな。


 いやはや。それにしてもそのお歳で、かほどの漢籍の素養をお持ちとは。

 姫様の御慧眼、恐れ入りました。良いお名付けにございます」



 なぜか知らぬが感心されてしまった。


釈迦に説法の回でした。

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