浮瀬の揚屋
●浮瀬の揚屋
案内された浮瀬の揚屋は、台地の西崖に近い坂にある。
上天気とも相まって、瀬戸内の海を借景とする庭は見事なものだ。
遠くに見える島影の向うに、大きな渦が見て取れた。
「お気に召しましたか?
遠くに見えるあの島は国の肇めなる淡路島。渦は名立たる鳴門の潮路。
絶景でございましょう」
春風殿が喚んだ浜路と言う芸妓がわしの世話をしてくれる。
いずこかの奥に仕えたこともあるのだろうか? 三十路を越えた世巧者で立ち振る舞いも上品だ。
「お美しい御髪にございますね。
東一様も、こんな佳い方がいらっしゃるなら、七日に十日も来なくて宜しいものを」
柘植の櫛で梳きながら、わしの髪を整える浜路。
一般に女の子と言うものは、歳より長けて見られることを望むものだ。
幼いからこそ大人の女に憧れる。だからこそ、普通は嬉しい世辞となる。
因みに、これが歳より若く見られたく為るように成れば、最早女の子とは言わないものだ。
だから子供らしく、浜路のお世辞ににっこりしてみせると、つんと頬を指で突かれた。
「化粧をしなくても、美しいお顔にございます。少しばかり嫉妬してしまいました」
「そう言われると。世辞と判っていても、嬉しく思います」
そんな他愛もない応対を楽しみながら、陰り行く部屋と赤く染まる庭の風景。
茶菓を楽しみ、見飽きぬ庭を眺めている内に。明かりが灯り、揚屋に音曲の調べが流れ始める。
「お待たせ致しました」
どこをほっつき歩いていたのやら。少し酒を召した春風殿が、二人の客人を連れて来た。
適塾の塾頭・専斎殿と並んで座る目の前の御仁は、
「手前は広屋儀兵衛と申します」
と挨拶をし、春風殿が紹介する。
「儀兵衛殿は、紀州・醤油作りの七代目であります。
姫様は幼くて記憶にないでありましょうが、過る大地震の際、一早く大津波を察知して、稲むらに火を放ち村人を救った御仁でありますぞ。
さらに、二度と津波の害の無きよう、銀百貫余を擲って。郷里の広村に高さ十六尺半、長さ五町半にも及ぶ堤を築いておるそうであります。
また医学や蘭学にも理解を示し支援しておられるのであります。
昨年末にお玉が池の種痘所が烏有に帰した時にも、直ちに三百両を出して再建し。さらに大枚四百両を捐えて、図書や器械を賄わせたそうであります」
さては、適塾経由の接触か。金主は多い方が都合良い。
「儀兵衛殿は蘭学にご理解があるのでございますね」
「はい。人の命を救う術でございますれば。
疱瘡と言う病ほど、世に恐ろしきものはございませぬ。
手前も何度かこの目で見ましたが、顔に酷い痕を付け、失明させ、命を奪い去ってしまいまする。
ところが外国には、ジェンナー殿が発明したと言う牛の疱瘡を植え付ける術で、人は疱瘡を免れるのだと伺いました。
広まれば、助かる人は幾千万ともなりましょう。
儲けた利を世間に返し、我が身を富ませ人をも富ますのが商いの道。
及ばずながら手前共もお力に為りました」
「それはそれは。大変佳きお志にございます」
「ところで」
と、儀兵衛殿は切り出した。
「幸姫様には先頃、惜しげもなくお家の秘伝の霊薬の書をお伝えに為られたとか。
未だ投薬を試みられては居ませぬが、同書にある二つの染料は素晴らしき物でございました。
宜しければ、手前共もお力に成りたいと存じ上げます」