泣く子が地頭
●泣く子が地頭
宣振と銭を借り受けて来た権兵衛。それに春輔の供を連れて、わしは狭斜の街に押し掛けた。
「まるで罠に掛かった雀のようですね」
遊郭の大路に大きな桶が伏せられて居る。
「お侍様。銭の算段は付きましたか?」
桶の番をしている、商家で言えば大番頭位の年嵩の男が春輔に尋ねた。
「これ、何とかこの通り。しめて三十八両持って参った」
袱紗に包んだ小判を見せる。
「検めさせて頂きます」
念入りに一つ一つ噛んで本物と確認した男は、
「これはいったい……」
当惑気味に息を吐いた。
わしは春補に頼まれた通り、
「足りぬか?」
と、声を掛ける。
「……お前様は」
「幸と申す」
そこへ春輔が人の悪そうな顔で、
「控えよ。お殿様のご息女なるぞ」
と大声で呼ばわる。そして注目を集めたと見るや、
「ここに御座すは、先日黒船を退けた八幡姫である」
忽ち目を見張る桶番の男。
「あの噂に高い、八幡様のご加護を享けた姫様か」
がやがやと人々が口にする。
「そうじゃ。その姫様ご本人じゃ」
威張ったように宣振は言う。
何? 聞いておらぬぞその話は。
睨むこの目に気が付いたのか、宣振は目を反らした。
後で絶対問い質してやる。
宣振を睨むわしの目を、わしの不興を買ったと思った桶番の男に、春輔は嵩に掛かって、
「姫様はこう仰せである」
とわしの言葉を創り出す。
「目肉のつくねで大鯛を十尾も潰さねばならなかった。と申すが。
他の部分は如何した?
この者の借財、妾が私財を以って不足なく用立てたゆえ、残りも全て引き渡すが良い。
鯛なれば一夜にして痛む訳でも無かろう。
煮付けさせてそぼろにでもし、妾から、先の藩兵共に褒美として取らせる。
大鯛十尾分の鯛そぼろともなれば、必ず全員に行き渡ろうぞ。
とな。疾く、残りの部位を持て参れ」
桶番の男は目を剥いて、
「い、今。楼主を呼んで参ります」
転ぶようにすっ飛んで行った。
やりおった。褒美に使うから残りを引き渡せと言われても、夕べの大鯛など今更欠片も残っておるまい。
それも捨てていると言う事はあるまい。おおかた自分達で食べたか他の客に回したことであろう。
刺身にでもすれば誤魔化せるからな。
楼主としてはうやむやにしたいことだろう。しかし銭を支払うのが、腐っても藩主の娘のわしだとなれば、残って居ないでは済まされぬ。
わしが用立てたのは三両だけだが、そんなことを教えてやる義理も無い。
春輔は、慌てて遣って来た楼主と交渉を始めたが、既に無い物は無い。
まるで肉一ポンドは構わないが、一滴の血も流すべからずと言われたシャイロックのように、後は春輔の為すがままだった。
「ではしめて、十両二分で宜しいので?」
「はい。残りはお返し致します」
不足を取り立てる所か、春風殿に取り過ぎを返す羽目になった。
俗に、泣く子と地頭には勝てぬと言うが。泣く子が地頭で、しかも道理も有る以上、楼主に勝ち目は無かったのだ。
「春風殿。済みました。改めて供を命じます」
顔を覗かせた春風殿に、わしは飛び切りの笑顔で命令した。





