五つの花押
●五つの花押
「まだこれだけなれば、乱心者と断じて蟄居を申し付け押し込めてしまえば、あ奴の命を取らずに済ませる事も出来るのだが……」
彦根中将様は口を濁す。
「事もあろうに、問われもせぬのに老中邀撃の計画を開陳した。はぁ~」
天下の執権たる威厳もへったくれも無い溜息。つまり、掛け値無しの本音なのだろう。
ここまでやってしまうと、もう乱心故の妄言であると言う事に出来なければ、義卿先生を殺さずにすませる事が出来ない。それはこのわしにも良く判る。
「有体に言おう。義卿めを殺したくはない」
「何故にございまするか?」
尋ねると、中将様は
「義卿を捕らえしは、水府の天狗に備える為。各地の烈士を制するが為。
されば彼を誅して殉教者と成せば、今や唯隠れて居るだけの切支丹よりも面倒で、我らを折伏致さんとする不受不施の者よりも、天下にとって恐るべき敵と相成るは必定。
加うるのに孔孟の書は官学の柱なり。よもや十字架やサンタマリヤが像の如く、あるいは曼荼羅の如く踏ませる訳にも参らんのだ」
震える声でそう言った。
「なるほど。
大樹公家の天下の為に据えた朱子学が、大樹公家に仇を成し掛けているのでございますね」
朱子学は人材登用の為に、大樹公家が公式に採用した学問である。
困ったことに、今この朱子学故に水府の連中が天下をひっくり返そうとしているのだ。
「朱熹様が宋学を完成させた時。宋は夷荻に脅かされていた。
それ故殊更、名分を重んじられたのだが……」
「水府の者は、天子様こそ八島の皇であり大樹公は覇者、即ち皇室を奉じる臣の一人に過ぎないとしているのでございますね」
「そうだ。わざわざ子を取り替えて、兄の子に水府黄門家当主の座を譲られた、高譲味道根之命様の流れであるからな」
官学である朱子学から、大樹公の藩屏たる御三家に天下を覆しかねん学問が生まれたのは、なんと言う歴史の皮肉だろう。
因みに。水府黄門家は大樹公家の家督相続から外されており、紀州尾州の極官が大納言であるにも関わらず、中納言止まりである。
しかしながら。大樹公家を継げぬからこそ、大樹公家の家督相続に水府の意向が力を持つに至った。
所謂キングメーカーの立場である。
「何れの事にも光あらば闇がある」
諭すように話す中将様。
「官学・朱子学の光は、秩序と太平。
そして、学べば誰でも小人から君子に成れるのであるから、身分の上下を穿つ風穴と成り得る。
八代様のご英慮が足高の制を生んだのも、まさにこの考えからなのだ」
八代様と口にする時、中将様は威儀を正し、我が事のように誇らしい顔をした。
しかし次の瞬間、その顔が一転して喪家の犬に。
「闇はと言えば、そも朱子学は北狄に南遷を余儀なくされた大宋の学問にして、殊更異人を排斥することだ。
それも己が力量も弁えず、成否を論う事を卑しみ。猛を発する事が多い」
ああこれは中将様の愚痴だ。そして原因の一つが、紛れもなく義卿先生である事も判ってしまった。
「我が祖は、今川に所領を奪われた井伊谷の国人にて、大権現様に召されて名馬を与えられし後、名馬に違わぬ働きで頭角を現し、遂には四天王よと芳しき名を残し申した。
そして今、国難に際し執権を拝命致しておる。
されば我が家は末代までも。別して大樹公家が降伏せぬ限り、大樹公の馬前を征くべきは必定。
仮令敵が、赤子たれとも老残たれとも。
恩師たれとも恩人たれとも、親たれとも我が子たれとも、大樹公家を脅かすものは断じて討つ。七度生まれ変わりても、打ちてし已まん」
中将様は、自分に言い聞かすようにわしにその決意を明かした。
「つまり。もしも江家家臣・義卿が乱心者で無いのならば、最早死を賜るしか無いのでございますね。それが却って大樹公家に仇を成すことに為ってしまうと解って居ても」
わしの纏めに中将様は、期待に満ちた目をして頷かれた。
「聞かれもしない老中邀撃を余さず朗々と述べているのだ。既に覚悟は決まって居ろう。
百万の辞を尽くしても、今更義卿ほどの人物が諌死を取り止めるとも思えぬ。
しかし、主筋の登茂恵殿ならもしや。と一縷の望みを掛けさせて頂く」
「説得は……無理でございましょう」
「ならば獄を抜けさせよ。
仮令天狗の下に走ろうとも。いや、江家が匿いて大樹公に戦を仕掛けて来ようとも。
生ける義卿のほうが、死せる義卿よりも遥かにましである。
そなたに累が及ばぬ様、わしの血書を渡して置く」
なんと中将様は、血でわしに対する全権委任状を認めて血判を捺し、いよいよに成ったら脱獄させても構わないとまで言い切った。
しかも、紛う事なき真筆と判るよう、
中将様の号・柳王。その『柳』を崩した花押。
公文書に記す偏諱の『弼』を崩した花押。
謂われは知らぬが、『工』に右九十度回転させた数字の9を添えたような物や、塀から兜を覗かせたような形の物。
全部でなんと五つの花押が記されているでは無いか。
「花押が五つとは……」
「決してそなたを見捨てぬ証と見て欲しい。わしが用いる全ての花押をそこに記した。
これがあらば、この書状は誰が何と言おうとこのわしが書いたものであることが明らかである。
良いか登茂恵殿。全ては卿に委ねた。だが、全ての責任はこのわしが取る」
きらりと光る涼しい眼。それは死をも覚悟した漢の顔であった。





