三十路女
●三十路女
三人だが、安五郎親分の追手は川越に入っている。渡世人ぽい男達だが、相手は正規の十手持ちだ。
これを親分に会う手土産として、わしらは越後獅子の少年から伝えられた場所に赴く。
城下町の町割りの外。田畑の広がる只中に、秋の野分や冬の空っ風を防ぐ林に囲まれて、操六翁の私第は有った。
柿渋と松墨を混ぜ、艶っぽく赤黒く塗りを重ねてた板塀に囲まれた屋敷で、内側に植えられた松の枝が外に開けて張り出している。
門から覗かせる母屋の屋根は、寂びた縞掛けの茅葺屋根。ここから見えるだけでも丹念に幾重にも新茅と古茅を重ねてあり、描く縞模様が美しい。
「キリトビに寿の文字かあ。やっぱ隠居所だな」
トシ殿が棟の端の飾りつけを指す。
キリトビの響きに、わしは前世の孫の一人を思い出た。
わしが死ぬ時分には還暦近くなっておった孫だが、まだ幼稚園にも上がらぬ頃、夢中になって見ていたテレビまんがが有った。
霧隠れ才蔵と猿飛佐助から名前を採ったと思われる宇宙忍者の敵役が居て、主人公との戦いに孫は、手を叩くでも無く応援するでも無く、ただじっと見入って居た。
コマーシャルに出て来る落下傘のおまけが欲しくて、キラキラ光るメタライザーの付いた箱の菓子を欲しがりせがまれたのが昨日の事の様だ。
「登茂恵っち?」
目の前でひらひらと手が振られている。
「大丈夫かお前」
「少し考え事をして居ました」
気を取り直してわしは道う
「頼もう!」
門前にて声を上げると、
「あはっ。可愛いお客様だねぇ」
出て来たのは上物の椿油の香りが漂う年の頃三十ばかりの女だった。
「おや?」
トシ殿が訝しんだ。艶な着物と言い振舞いと言い、普通の奉公人とは思えなかった為である。
まあ、お富さんの歌に出て来るような黒塀に見越しの松とくれば、容易に察せられる立場だが、それにしては歳を取り過ぎていた。
前世の平成の御代では信じられない事だが。寿命の短かったこの時代、三十と言えば大奥ではお褥御免を申し出る歳なのだ。
「兄さんに坊や。あちきの顔に何か付いてるのかい?」
女は紅を注している他は、所謂すっぴんの顔。眉も書いて居なければ殆ど白粉も塗って居ない。
「あ、この顔かい? うちのご隠居が化粧を嫌うのでね。
あちきはそんな学なんてありゃしないから、ご隠居の受け売りだけどね。なんでも化粧の殆どは、赤子殺し年寄り殺しの毒だって言うじゃないか。
あちきも今更他に旦那の当てが有るで無し。化粧したら放り出されるとあっちゃ、我慢するしかないのさ」
そうであったな。
これは前世で粧連と言う所に勤めて居た戦友から聞いた話だが。
持統天皇の御代に伝来した甘汞を用いた『はらや』と鉛白を使った『はふに』と言った人体に有害な白粉が長く使用されて来た。
「それでは何をお使いで」
尋ねると。
「坊や。役者にでも成るんかい?」
女は眉を顰めて忠告して来た。
「悪いことは言わないからそんな考えはおよし。
お上からは河原なんとかと蔑まれようが、下手な殿様よりも血筋が幅を利かす稼業だよ。
坊やの歳なら、いいとこ陰間に使われるのが関の山さ」
「ぷははは。おい、登茂恵っち。陰間だっとよお。ははははは。
そいつは天地が引っ繰り返っても、無理な相談だよなあ」
ツボに入ったのか、トシ殿は笑い転げて已まない。
「知りたいと言うなら教えてあげるけど、使っているのは白粉花さ。
これなら赤ん坊でも年寄りでも害は無いとご隠居が言うからね」
少し不満そうに言う女。
先の戦友から聞いたことがある。鉛白主流の時代、天然物では白粉花の種から取り出すでんぷんを用いたと。
「それが何故に意に染みませぬ?」
と聞くと、女は、
「肌のノリが悪いんだよ。第一、白粉花だと倍の高直さ。
まあこれはあちき持ちじゃなくてご隠居持ちだからいいんだけどね」
とぼやく。
安価で安全な白粉の量産は明治の御代の『東の錦』を待たねばならず、水銀・鉛の使用が禁止されたのは実に昭和の御代。わしの甥や姪達が、小学校で『鳴った鳴ったポーポー』と北原白秋が創った祝いの歌を歌い、紅白の餅を持ち帰って来た日より後の話である。
わしはまだ、化粧を始めるのに猶予があるが、それまでに何とかしておかねば非常に不味いな。
一応前世の戦友から、ファンデーション等の作り方は聞いている。勿論、この時代でも簡単に手に入る材料だった筈。
思えば。この時代でなくとも、化粧は女の権利であり義務であり嗜みだ。その運命から免れ得ぬ以上、手を拱いている訳には行かぬ。第一、有害だと知り尽くしている化学物質を肌に付ける趣味は無い。
なので今度創ってみようと心の雑記帳に記して置く。多分、猿播の時の伝手が使える事だろう。
今更だが、女の身は色々とめんどくさいとわしは思う。
「ご隠居様は名立たる風雅士と伺います。贅を尽くした彩よりも、天然を好むのではないでしょうか?」
「なるほどね。侘びとか寂びとか言う奴かい?
お嬢様が……と言ってももう五十近い方だけど、歌の師匠をしてるそうだし。ご隠居は学の有るお方だ。そうなのかも知れないね」
「恐らくは……。ごてごてした造花の美しさより、野の花の天然を好まれると思います。
何より厚化粧は品が有りませぬ」
「はは。品だって? 場末の遊女上がりのあちきに品なんてあるもんかね」
言いつつも。女は自分が品が良いと言われている訳だから、満更でもなさそうに顔を綻ばす。
「……ご隠居に用があるんだね。いいよ。今取り次ぐから」
すると、ここからは見えずとも近くにいたのだろう。私第の主の操六翁から声が掛かった。
「お銀。お通ししろ」





