我が家臣
●我が家臣
夕刻。屋敷に報せがあった。
黒船は交渉の役人を相手にせず、かと言って出て行くでも無く。不気味に沖に居座っていると。
「姫様。学者の青木殿の話によれば、最新の大砲はあの場所から浜やお城に届くのだとか。
しかも弾が破裂して、沢山の破片が飛び散って人を殺める、それはもうとんでもない物なのだとか。
もう、あちゃは恐ろしゅうて恐ろしゅうてなりません」
装備しているのがアームストロング砲ならばその通りだ。
「お殿様は、万が一黒船と戦になりしその時は。姫様が屋敷を逃れ、出来る限り海から離れるようお望みでございます。
斯様な時に、男手が増えたのは重畳。
宣振殿。如何に土佐の守ご家来の家の者とは申せ、縁有って今は姫様に仕える身。
いざと言う時は、姫様をお護りして死んで下されよ」
言い難い事をあっさりと言うあちゃ。
「今更じゃ。とは言え、わしもむざむざ死ぬ気は無い。姫を護って生き延びることこそ最上じゃ。
命を捨てて護っても、それで護れるは唯一度。魂魄となってしもうては、次の危機には何も出来ん」
いやいやと、軽口を叩く宣振。
「では。避難の機は、権兵衛に任せます」
あるかどうか判らん避難だが、わしの命を預けるのだ。只の『ごんべい』では軽過ぎる。
だから同じ字を重々しい響きに読み替えた。
すると権兵衛は、
「なんと! 権兵衛にございまするか。
拙者に兵舎人とは、またご大層な名前ですな。
名前だけでも姫様に偉くして頂いたからには、名に相応しき働きをせねば」
と苦笑いをした。
前世もそうだが今世もまた、日本人と言うものは伏龍が多い。一生使わずに終わるような学問を修めていたりするのだ。
長らく厄介の身であった彼も、相当な教養があると見える。
「あちゃも、伊勢物語を諳んじておると聞きますし。権兵衛も相当に学問を修めている様子。宣振も剣以外何かありそうですね」
わしは軽く振ってみた。
「ん。ああ。まぁ、武士の嗜みとしてそれなりにな」
やはり、こ奴も伏龍か。ここで口にしない以上、今は流しておくことにする。
陽は落ちて宣振は、わしが就く床より襖一枚隔てた廊下で剣を抱き、壁に背を預ける。
部屋で寝よと言っても聞かんのは、彼の性分だろう。
理由を聞くと、
「いつ何時黒船と戦となり、姫の避難と言う話になるやも知れないからな。
姫さんから見たら、地べたを這う犬の如きわしかもしれんが。犬には犬の誇りがある」
と胸を張った。寧ろ彼は、犬と呼ばれるのを好ましく思う嫌いがあるようだ。
なのでわしは、彼を少し弄ってみる。
「なるほど犬ですか。確かに犬死にだの負け犬だの、犬と言う言葉は悪い意味で使われる事が多いですね」
「ああ。そうだなよ」
予想通り。彼はむすっとして返事を吐いた。なのでわしは、ここから捻り込む。
「しかしながら。海の彼方のエゲレス国では、犬は勇者の美称らしいそうでございますよ。
彼の地の伝説にあるク・ホリンと言う勇者の名は、ホリンの犬と言う意味だそうで。
また、鎌倉の世に寇した元の、太祖聖武には四駿四狗と謳われる功臣がおり、四狗すなわち四匹の犬と呼ばれた者達は、何れも優れた大将であったとか」
「ほぅ~。そうなのか」
自尊心をくすぐられる格好になった彼は、
「主が偉いと得をするのう」
と、心持ち声を弾ませる。そこで、
「今にあなたもそうなります」
と言ってやると、
「ふんっ。大きく出たのう」
宣振は鼻で嗤う。
「詰まりはだ。わしが誉を望むならば、姫が偉うなるよう働けっちゅうことか」
「恃みにしておりますよ。禄は僅かと雖も宣振には、治部少・左近の故事に倣い私の小遣いの半分を出しました。決して軽くは扱っておりませんよ」
「姫さん。禄に不足はないんじゃが、治部少は縁起が悪い。破れて負けた男ではないか」
「それでも。たった十九万石の身代で十万の兵を集め、二百五十五万石と、一度は天下を二分した漢にございます」
「はぁ~。姫さんには敵わんのう。さすれば、わしは姫さんに過ぎたる者っちゅうことか」
照れて相好を崩すその様は、存外に可愛げがあるように思えた。