第三話 高嶺の花は庶民的
引っ越しの準備は数日で完了した。
必要最低限のものだけ持っていくと決めていたため、時間がかかることはなかった。
「それじゃ荷物はこれで全部か?」
「家具とかはもう送ってあるから。まぁ家電とかは父さんたちに任せたけど」
「大丈夫だ。そっちはもう設置してもらってある」
「ならいいや」
そう言って自分の荷物を車に詰め始めていると、隣の家から見知った顏が出てきた。
幼馴染の朝倉琴葉である。
綺麗な長い黒髪で文学少女というような見た目だが、そんな雰囲気からは考えられない隠れ巨乳だ。
そして学校一のイケメンと付き合っている。
たまたま朝倉がこっちを見ていたため、荷物を運んでいた俺と目が合ってしまった。
「お、おはよう」
一瞬怯えた表情を見せた朝倉だったが、緊張した様子でこちらに挨拶してきた。
「おう。おはよう」
「え、えっと。引っ越し……?」
「今日から俺が新しいところに引っ越す」
「そ、そうなんだ」
「ああ」
そこで会話が止まり、しばらく無言の空気が続いた。
朝倉は何か言おうとしているのか、下を向いて手をこすり合わせていた。
「何かあるのか?」
「あ、えっと……あの。ううん、なんでもない……」
「そうか。まだ荷物運び終わってないから俺は行くぞ」
「う、うん。またね」
「ああ、またな」
そう言って俺は荷物を取りに家に戻ろうとし、朝倉もその場を離れた。
玄関まで行くと、朝倉と話していたのを見ていた父さんが立っていた。
「いいのか、何も言わなくて」
「いいよ。俺がやった事実は何を言っても変わらないから」
「ん。そうか」
俺はそう告げて荷物を取り行った。
荷物を全て運び入れたら、すぐに出発した。
車の中で新しい生活に対する不安や期待を膨らませていると、運転していた父さんが話しかけてきた。
「すまんな。変なところが私に似たようで」
「なんのこと?」
「言葉足らずのところだ」
父さんはそう言ってきたが、俺はよくわからず首を傾げていた。
その様子を見ると、父さんは申し訳なさそうにしながらも少しだけ笑っていた。
景色を見たり雑談していれば、いつの間にか目的地に着いていた。
二人がかりで荷物を運び入れ、家具の配置なども父さんが手伝ってくれた。
全て終わった頃には日が沈みそうになっていた。
「私はもう帰るぞ」
「手伝ってくれて、ありがとう」
「ああ。困ったことがあれば連絡してきなさい」
「わかった」
父さんが帰ると、とりあえず一息つくためにリビングのソファに座わった。
ソファに座ったまま、これから生活する新居を見渡す。
新居は1LDKで学生の一人暮らしにしてはかなり大きめだ。
まだ慣れていないこともあって不思議な感じがしたが、不安といったものは感じなかった。
趣味の読書で料理のレシピ本や効率のいい掃除の本などを読んで実践していたため、家事に関してはある程度問題なくできるだろう。
そんなことを考えていると腹が減ってきたため、夕飯は近くのスーパーで何か買って作ることにした。
とりあえず調理器具は揃っているので調味料や食材を一通り買い、ついでにお隣さんへの菓子折りを買って家に戻ってきた。
買ってきたものを整理してから時計を見ると十九時を回っていた。
この時間なら隣の住人が留守ということがないだろうと思い、菓子折りを持って隣の部屋の玄関前に立つ。
隣の住人に挨拶するなど初めての経験で、少し緊張した震える手でインターホンを押すと、低い音のブザーが鳴り響く。
「はいは~い。今開けますよっと」
扉の向こうから何となく聞き覚えのある声が聞こえてきた。
俺の中で少し嫌な予感がしたが、そんなこと隣の住人には関係なく玄関の扉が開いた。
「……神代……和奏……」
「えっ?」
扉を開けた庶民的な神代は、何故と言いたい様子でそう呟いた。
俺はあまりの驚きで、茫然と挨拶用のお菓子の詰め合わせを持って立ちつくしていた。
「え……どうして私の名前を……」
神代の一言で俺は現実に戻された。
「……はっ! え、えっと……引っ越しの挨拶で……よかったらどうぞ」
だが、この状況に対しての戸惑いを隠すことができないまま、用件を伝えていた。
神代は俺の持っていた菓子折りと、俺の顔を何度か交互に見てきた。
それから少し考え込んだ後、なるほどなるほどといった様子で目を瞑って頷いた。
「これはこれは、ご丁寧にありがとうございます」
「っ!?」
しばらく頷きながら何か考えていた神代は、聞き覚えのある口調と笑顔で俺にそう言ってきた。
しかし、その声には優しさなど一切なく、彼女の後ろには般若がいるような雰囲気だった。
何も言わずにこのまま話を続けろと、後ろの般若がそうおっしゃっているように思える迫力が彼女にはあった。
「用件はそれだけですか?」
「あ、ああ……」
「わかりました。では、これからよろしくお願いしますね」
神代は菓子折りを受け取り、丁寧にお辞儀をして微笑んだ。
多分学校の男子生徒の多くは、この微笑で恋に落ちると言っても過言ではないくらい綺麗だ。
しかし、玄関を開ける前の声色や一瞬見えた般若のような雰囲気を経験した俺は、それがとても嘘っぽい笑顔のように見えてしまった。
そのため恋に落ちるよりも警戒心が反応してしまい苦笑いをした。
「このことはくれぐれも他の方にはご内密に。もし話してしまった場合は、あなたを社会的に抹殺させていただきます」
「……社会的に抹殺というのはどのような」
「私があなたに襲われたなどと言ってしまえば簡単かと。教師や生徒の信頼がある生徒会副会長と、クラスで目立たない一般生徒であれば、学校はどちらの話を信じると思いますか?」
「……わかった。というか、もともと話すつもりはないから」
「そうですか、ならよかったです。あと住んでいるところが隣だからといって、気軽に話しかけてこないでくださいね?」
「ああ、わかってる。用があったとしても極力関わらないようにする」
「そうしてください。ですが……やけに物分かりが良すぎるところが気持ち悪いです」
「……なんだそれ。社会的に抹殺するといったのはお前だろ」
「そうですけど、こういう時って何かとお近づきになろうとする方が多いので違和感があります」
「あー……そういうことか」
神代は訝しそうな顔をしてこちら見ている。
少し言うか悩んだ結果、俺は理由を話すことにした。
「俺は目立つことをせず、他人と波風立てないように生活するということを心に決めている。それなのに、急にお前なんかと関わったら嫌でも目立つからな。そういうのはこちらから願い下げだ」
「……コミュ障の言い訳……」
「何か言ったか?」
神代が何か呟いたようだが、良く聞こえなかった
「いっ、いえ。なんでもないです」
焦った様子の神代だったが、すぐさま冷静さを取り戻していた。
「理由はわかりました。ではお互いに干渉しないということで、よろしくお願いします」
「ああ。こちらこそよろしく頼む」
そう言って神代は玄関の扉を閉め、俺の方もすぐさま隣の自分の部屋に戻った。
そりゃあ……聞いたことある声なわけだ。
全校集会や校内連絡などで、生徒会が話す場面は多々あって、その時に声を聞いたことがあった。
知識上、この展開はギャルゲやラノベでよくある展開だ。
つまりイベントが起きているということになる。
そして今までの経験上、これから待っている厄介ごとの予感を感じ、深いため息をつかずにはいられなかった。
俺は下がった気分を紛らわすために料理をすることにして考えるのをやめた。