第7話 違うんだ! 俺は勇者じゃない!
ノゾムくんが召喚されてからの3日間。
読んでも読まなくてもお話は進みます。
──俺の名前は勇者である。読み方はノゾム。
是非とも、片仮名表記で覚えてくれると嬉しい。
ここ3日起こってることが衝撃すぎるのでここらで一回まとめたいと思う。
……俺国語の成績めっちゃわるいんだけど大丈夫かなあ……?
まいっか、自分用の日記だし。この世界の人とは文字表記違うみたいだし。
もし俺が急に元の世界に戻ることになってこの日記を読める人がいたのなら是非ともこれを燃やして欲しい。
いやマジで。
まあともあれ、こっちにきたときのことから書いていこうと思う。
あの日の俺は、大学の剣道部の練習帰りでめちゃくちゃ疲れてたんだ。中学から高校まで剣道をやってきたから他のことをするなんて思いつかなくて、とりあえず、なんて思って入ったらこれまためっちゃくちゃハードだった。毎回死んでる。胃腸が飛び出しそう。
まあそれもそのはず、医大にしては(こう見えて医大生だ。友達からは『賢いはずなのにバカに見える』『偏差値と知性が釣り合ってない』なんて言われたりするけどちゃんとラスト半年でめっちゃ勉強して一発合格している。決して裏口からでない)強い師範を呼んでいる部活で、それなりに成績も残している。その上、単位でも落とそうものならお叱りの言葉があるというので、一回生の俺は今から戦々恐々としている。あの練習量で勉強も過不足なくなんて無理に決まってる。ここ数回の練習で十分身にしみているところだ。
で、その帰り道。同じ部活の先輩にコンビニでチキンをおごってもらって、夕飯には全然足りなくてファストフード店に入ったんだ。一人暮らしだからなあ、部活帰った後は夕飯作るどころではなくって疲れて寝ちゃうんだよなあ。のぞを。
そんなかんじでジャンクな味を堪能しつつ日課になってるSNSを巡回する。真っ先に確認するのはピカるんさんのアカウントだ。
彼女を知ったのは5年前。中学生になった俺は……まあ、いろいろあって落ち込んでて。初めて買ってもらった携帯で目に飛び込んできた写真。コスプレなんて単語はそのとき知らなくて。アニメに出てくるような鮮やかな髪と服、満面の笑顔。綺麗な写真だった、それは確かだ。だけど俺には、その写真の中の女の子が泣いているように見えたんだ。どうしても気になって、携帯の使い方もよくわからないままそのアニメのことを調べた。
──はぴねす怪盗♡まーめいどちゃん。
中学生の女の子まいがはぴねす怪盗まーめいどちゃんに変身し、騙し取られてしまった宝石類などを取り戻すというのが主なストーリー。まいが恋心を寄せている近所の花屋で働くガクさんが、まーめいどちゃんを庇って怪我をしてしまったときのことだ。
『君は愛と幸せを届ける“はぴねす怪盗”なんだろ? ……だったらいつも笑顔じゃないと。愛も幸せも、笑顔がないと生まれないんだから』
そう言われたまーめいどちゃんは可憐で、とても綺麗な涙と笑顔をこぼした。そのワンシーンを撮影したもの、だった。
なんでこの写真が目に止まったのか、そのときはわからなかった。わからなくて、ただひたすら彼女のことを知ろうとした。俺も子どもだったなーと今では思う。何年か経った今では、そのときの自分の気持ちに名前をつけてやれる。
そのときの俺は、寂しかったし泣きたかったし、きっと誰よりも笑いたかった。
あんなに綺麗に笑える彼女が、羨ましかったんだ。
──まあそれをキッカケにオタクの道へ転がり落ち、今でもピーちゃんさんの追っかけみたいなことをやってるわけだけど。
まあとりあえずいつものようにSNSにログインするとピーちゃんさんがはぴ怪をやると宣言していて大歓喜でコメントし、お祝いにとコーラをおかわりしたあたりから記憶が曖昧だった。
ソファ席を陣取っていたからウトウトしてしまったんだろうな、というのが自己分析の結果だったけど、そうでもなかったらしい。なぜって? ……目が覚めた瞬間、七色の光に包まれていて騎士団みたいなのに囲まれてたら、そりゃあ何かに巻き込まれたと思うわけですよ! 昨今の異世界転生系アニメを嗜んでいる身としては! まあ実際起きてたしな! しかも巻き込まれたどころじゃなくてめっちゃ主役級! わー! 俺ってばどうなっちゃうの!? ……なんて思っていられたのもほんのわずかな間。だって普通チート能力付属がデフォでは!? 素のままの俺ってただの一般人ですけど!? 剣の腕はそこそこのまま、身体能力にも変化なし。これでなんの役に立てと!?
目に見えて落ち込んでたのか、ミスティリアが『魔法ならどうでしょうか?』と提案してくれた。これには俺もテンション爆上がりだった。だって魔法って! 異世界に来たらやってみたいことランキング堂々の1位では!?
喜び勇んで魔法が縫いとめられているという青い布に手をかざすと、中心から花開くように白銀の光が溢れ出した。……ここまでは順調だったんだ、ここまでは。出てきたのはうすい白布一枚。え? 一枚?? と呆けている間に風に吹かれてどこかに行ってしまった。
これにはミスティリアもかける言葉がなかったらしく、痛い沈黙が場を凍らせる。アデルさんが剣の稽古の時間だからと迎えにきてくれたからよかったけどあの空気に耐えられるほど俺のメンタル強くないです。無理み強い。ただでさえへこんでたのに追い打ちかけられてます。俺悲しい。稽古にも身が入らなくて『今日は早めに夕食にしましょうか』とアデルさんにも気を遣われる始末。
『なんで俺なんだろ……』
ミスティリアは俺が勇者だと、この世界を救うために力を貸して欲しいと、すごくて丁寧に頭を下げた。
その思いに報いたい気持ちはある。
でもさ、金髪緋眼のイケメンで王国第一騎士団長のアデルさんの方がよっぽど勇者らしくないですか? 何の能力も持たない俺がどうして勇者なんかに?
どん底まで落ち込んだ心をギリギリで引き止めているのは、腰から下げている革袋に厳重にしまい込んだフチなし眼鏡。ミスティリアに“国宝”だと言われ、俺に預けられたものだ。ぱっと見は普通の眼鏡だが、これを通して世界を見ると全ての衣服にランクがあるのがわかる。どうやら俺たちとは言語表記の異なるミスティリアたちには使えない代物らしい。
これを扱えるのは俺だけ。それだけが、最後に残った俺のちっぽけなプライドを支えていた。
『勇者様、国王陛下がお呼びです』
部屋にその従者が入ってきたのは俺が異世界に来て3日経った昼過ぎのことだった。
ミスティリアはいつもより──と言っても彼女と過ごしたのは数日しかないわけだけど、それでもわかるくらいには──少し元気がない顔で朝食を少しだけ食べてどこかへ行ってしまったし、アデルさんとの稽古は午後から。自室にと用意された客間には俺しかいなかった。
……正直言って、俺は国王のおじいちゃんがちょっと苦手だ。会話をしたのは最初にここに来たときくらいだけど。
部下に対する態度が厳しいし全然笑わないし、そもそも顔が怖い。それにどことなく剣道の師範を思い出すので、できれば会いたくないというのが俺の本音だ。それとなく従者の人に行きたくないな〜っていうアピールをしてみたけど聞き入れられることはなく。任務に忠実に、俺は国王の座す玉座の間に向かうことになった。
3日ぶりに入ったその空間は、春にしてはひんやりと冷えた空気が溜まっていた。鎧を身につけた騎士団の人たちが、呼吸すら感じさせないほどの沈黙のまま玉座の両脇を固めている。その中央にある豪華な椅子は空いたまま。説明もないまま案内され、騎士団の末席に整列する。従者が立ち去ると、全部の音が石の壁に吸い込まれる。身じろぎひとつが反響してしまいそうな中、重々しい扉を抜けて国王が現れた。
“ご尊顔を拝むより早く片膝をつき、王が玉座につくまで顔をあげてはいけない”
アデルさんにそう教わったことを思い出して、慌てて膝を落として視線を下げる。そのときには周りの騎士の人たちも姿勢良く片膝をついていて、流石といえばいいのか刷り込みって怖いといえばいいのか少しだけ考えていた。
コツコツ、と王杖が大理石を叩く。その小さな音が直立する合図だった、と思い出す前に俺以外の鎧が最小限の動作で立ち上がり、またもや遅れて正しい姿勢に戻る。……うん、これは刷り込みじゃないとやってられないな。ゆとり世代ど真ん中で世間に甘やかされて育ってきた俺に王政は合いそうもない。文句もひとつでも言ってやりたかったけど、気の小さい俺にはこの大広間で大見得切るような勇気は出なかった。どうせ俺なんて才能のない名前だけの勇者だよ!! と勝手に拗ねていると、石造りの大扉が大きな音を立てて再び開いた。
(…………え?)
驚きの声を出さなかった俺を褒めて欲しい。だってそこにはとても見覚えのある──具体的には5年ほどずっと画面越しに見続けてきた女性が、そこにいたというのに。理解が追いつく前に、彼女──ピーちゃんさんが聖女と呼ばれ、ここに連れてこられたことが会話の流れからわかる。俺と同じだ。ぽかんと開いたままの口が塞がらない。一瞬だけ目が合ったけれど、リアルで彼女に会ったことなどないのだからわかるはずもなかった。
(ミスティリアの言っていた聖女がまさか、ピーちゃんさんだったなんて……!)
──夜の訪れと共に勇者は訪れ、朝を迎える光が聖女を迎え入れる。
この異世界の歴史書にはそう記されているそうだ。だから俺がここに来たとき空は夜の色をしていたし、ミスティリアはそのまま儀式を続けて夜明けと共に光の柱を出現させた。そのまま聖女が目覚めないということは少しだけ聞かされていたけど、自分のことで手いっぱいの俺にそこまで気を回すほどの余裕はなかった。だからすっかり頭から抜け落ちていたんだ。こんな役に立たないような自分でも、守らないといけない人がいることを。
不気味な女の声がしたのはそのときだった。
脳内に直接響く、生ぬるい声がめちゃくちゃ不快で。耳を塞いでも意味がないことを自覚するのと同時に、視界からピーちゃんさんの姿が消えた。慌てて巡らせた首は上を向いて固まってしまう。そこには、手の届かないほどの高さで逆さ吊りにされたピーちゃんさんと、ピンク色の髪をした女の人が宙に浮いていた。ピンク色の女は動けない彼女の唇を奪うと、うっとりと恍惚したように舌舐めずりした。
(早く助けないと!)
辺りを見回すが、騎士団の人たちは国王の護衛に回っていてピンク色の女性に近づこうともしない。
それどころか、報告に来た兵士なんかは剣を取り落として腰を抜かしている始末だ。だめだ、誰も頼れない。そう思った矢先、ピーちゃんさんと一緒に来たアデルさんが目に入る。何度か稽古をつけてもらっているけど、アデルさんはとんでもなく強い。俺も剣道をしていたからわかる。剣の持ち方から身のこなし、足捌きが玄人のものだ。
直感だったけど多分、この場で対抗できるのは彼しかいない。
考える時間も惜しくて、棒立ちになっている彼の元へ駆け寄った。
「アデルさん!」
「……ノゾム、」
「早くピーちゃんさんを助けないと! 何か、弓とかそういう飛び道具を、」
「……ノゾム。聖女様とあの魔女の距離は、どのくらいですか?」
「え? どのくらいって、ほとんど真正面にいるけど……」
「……そうですか、」
……おかしい。あれほど剣の扱いに長けたアデルさんが、空中とはいえ間合いを計り損ねるわけがない。
そもそも不審者に対して何の措置も取らないのは不自然だ。
いうならばまるで、何も見えていないような反応で。
「……まさかアデルさん、見えてないんですか……?」
「……ノゾムには見えているようですね。ということはやはり、本物の魔女……」
「……っ! 早くしないと! 逆さ吊りで喉まで絞められたら……!」
「……魔女には、物理攻撃は効きません。魔法には魔法で対抗するしかない」
「だったら早く魔法を使える人を……!」
続く言葉を探して大広間をぐるりと見渡す。
けれど誰一人として、ピンクの女性を目に映してはいなかった。
(……俺だけ、だ。この場で見えているのは俺だけ……!)
急にどっと、背筋を汗が伝う。
俺がやるしかない。早急に、迅速に。だけど彼女に傷をつけてはいけない。
そんな技術が、俺にあるだろうか?
何も持たない、一般人のまま異世界に来てしまった、名前だけの勇者が。何ができる?
「……ぐ、ぅ……!」
か細い声が空気を伝って、鼓膜を揺らす。他の誰でもない、ずっと憧れ続けた女性の声が。
迷っている時間など、一瞬たりとも存在しなかった。
「……っこのぉおおおお!!」
腰から下げた、身の丈に合わない立派な大剣を投げつける。そう遠い距離ではなかったけど、ピーちゃんさんに当てないようにと神経を使ったせいかうまく狙ったところには当たらなかった。
「もぅ、なによぅ!今いいところだったのにぃ~!」
「なにがいいところだよ!『無理矢理はだめ、愛のないキスは心が欠けちゃう』ってまーめいどちゃんも言ってたんだからな!」
苦し紛れに発した言葉だったけど注意は引けた。
ピンク色の目はこちらに向いて、鬱陶しそうに細められている。
(……俺にできることは。今、彼女のためにできることはなんだ……!?)
ピンクの動向から目を逸らさないまま頭をフル回転させる。
本来なら、実戦経験のない俺にできることなどない。
でもやらなくては、俺が助けなければ!
「これ以上、“ピーちゃんさん”に手出しはさせないからな!」
「……っ!」
ピンクの隙を縫って拘束されているピーちゃんさんが大きく身を捩る。視界の端に見えるのは、兵士の落とした細身の剣。駆け寄って鞘を抜くと現れる抜き身の鋼。……今度こそ、失敗はできない。
正確に狙いをつけるほどの時間はない。けれど不思議と心は落ち着いていた。
力の限り投げた剣は二人の間を抜けた。軌道は少しズレたけど、ピンクの邪魔をすることには成功したらしい。拘束が緩んだのが見えて、同時に逆さのまま落下を始めたのもはっきりと見えていた。
さっと血の気が引く。脳内が勝手に最悪の未来を──大理石に咲く真っ赤な花と、中心に横たわる女性の姿を描く。
「ピーちゃんさん!」
ダメだ、止まるな、足を動かせ!
まだ間に合う、最悪なんて起きたりしない!
足を動かすたびに騒音をまき散らす重い鎧が、これほど邪魔だとは思わなかった。
走って走って、それでも間に合わなくて、勢いをそのままに落下地点に身体を滑り込ませた。
──ガシャン!
骨に伝わる直地の衝撃。人ひとり分の重みで息が一瞬止まったけど大きな怪我はない。俺にも、彼女にも。
「……間に、合った……!」
安堵の息を吐くと、一気に自分の現状を──目と鼻の先に憧れの女性がいる状況を理解する。
さっきとは違う理由で心拍数は急上昇、魔女だと名乗るピンク色の女が何か言っていたがロクに頭に入ってこない。ふらついた彼女の背中をうっかり支えたりなんかしちゃったけどこれセクハラとかにならないですよね!? うわあああったかい! と当たり前のことにも動揺してしまう。すぐそばにある肌はきめ細やかで、俺の好きな豊かな表情は、今は苦悶と疑念に歪んでいる。
見つめ続けるのは失礼だぞ! と戒める自分と、こんな機会でもないとすぐ近くで見ることなんてできないんだからな! と欲望に忠実な自分が互いの主張を譲らず拮抗している。まあ結局欲望には勝てないんですけどね! だって男の子だもん! それに前を見るついでだから! と言い訳を並べて盗み見た彼女の頬に、できたばかりの紅い一筋の線を見つけてしまった。
間違いない。俺が投げた剣でできた傷、だ。
舞い上がった気持ちは小さくしぼみ、代わりに泣きたい気持ちが心を占める。
きっとアデルさんが見えていれば、傷ひとつない状態で助け出すことくらい簡単にやってのけるだろう。
(……俺は、全然ダメだ)
大事な人を守ることすら満足にできない。気持ちが真っ暗になる。
何もできない自分が歯がゆくて、無意識のうちに拳を握る。このままじゃダメだ。
目的に手が届かないこの感覚は、試合に負けたときのそれと少し似ている。自分の力を精一杯発揮したはずなのに、相手は軽々とそれを超えていて。呆然とする時間もないまま互いに礼をして立ち去る。その胸に溜まるのは悔しさと己の未熟さだけど、それだけじゃない。
目の前が、行く先が、歩いている道が。真っ暗に、なる。自分の全てを否定されたように感じる。
努力はした、けれどそれを凌駕する努力を相手が積んだ。結論を述べればそれだけのこと。頭ではわかっているけど、心がそれを許さない。暗い海を漂って、行く宛のない航海をするみたいに。深く沈んだ心は、魔女が去って怪我の手当てを受けているときも真っ暗だった。
傷を見るからと鎧を脱いだ分、体は軽くなったけど守る壁がなくなって少しだけ心許ない。
別室で治療を受けているからか辺りは静かで、広間の騒ぎが嘘だったかのように思えた。
「……あ、さっきの」
「……っ、」
部屋に入ってきたのはさっきまですぐ近くにいたピーちゃんさん。
俺と同じように治療を受けにきたのか、少し疲れた様子で隣の椅子に腰を下ろした。
「………………あの、」
「ごめんね、重かったでしょ?」
謝らなくては、と思って開いた口が彼女の言葉にかき消される。
ちがう、謝らなければいけないのは俺の方で。
「君がいなかったら多分、私はここにはいないから」
そんな言葉をもらう資格なんて俺にはないのに。
「……助けてくれて、ありがとう」
向けられた笑顔が、暗く沈んだ心に光を差す。俺の好きな、綺麗な笑顔で。
悔しくて歪んだ顔に気づかれないよう、深く頭を下げる。そのあとは、ミスティリアがやってきて怪我の具合は、とかお召し物は汚れていませんか、とかでバタバタしていて、アデルさんが『お茶にしましょう』というまでは落ち着かなかった。
(……だから俺は、謝ることすらできていないままだ)
ピーちゃんさんとミスティリアが口論みたいになって、俺以外の人が退室したこの部屋に一人。さっきの光景が脳裏をよぎる。アデルさんの剥がしたガーゼの下にあったはずの傷はすっかり完治して、痕すら残っていなかったのを。
(……でも俺は。それを、なかったことにしちゃいけないんだ)
俺のせいで彼女を傷つけた事実を、簡単に消すことはできない。そして、深く。
心に刻んで戒めないといけない。今度は絶対に、守り抜いてみせると。
「……謝りに行こう」
思い立ったら即行動、振り絞った勇気がしぼんでしまわないうちに。
扉を開けると、夕食の準備終えたアデルさんと鉢合わせた。
彼に彼女の部屋を聞くと少し驚いた顔をして、それから男の俺でも見惚れてしまいそうな甘いマスクで微笑んだ。
「ノゾム、夜這いするならもう少し夜が更けてからの方が、」
「違うって!! そんな不純な目的じゃないから!」
からかってくるアデルさんからなんとか場所を聞き出すと、重い鎧を引きずって目的の部屋の前にたどり着く。同じ扉は何枚もあるのに、どこか特別なものを見ている気持ちになる。壁一枚の距離に彼女がいると思うと、心臓が破れそうに波打つ。
(……やっぱり帰ろうかな……)
ここまできておいて何言ってるんだって自分でも思うけど、今は話しかけるべきではないのかもしれない。少ししか見えなかったけど、去り際の様子は少しおかしかったように思う。そんなときに俺の話聞かせるなんて、
(……いやいや、そんなこと言ってたら一生謝れないって!)
ぱしんと軽く自分の頬を叩き、意を決して扉をノックする。目をつぶって待つこと数十秒、返事はない。
「……寝てる、のか……?」
もう一度扉を叩くが、返事どころか物音もない。嫌な予感が、ひやりと心臓を刺した。
魔法を使える魔女たちがいつ襲ってくるかなんて、誰にもわからない。彼女たちが約束を守る保証なんて、どこにもないのに。
「……っ! おじゃまします!」
開け放った扉の中は暗い。目を凝らすが人の気配はなく、音も熱も──ピーちゃんさんの姿もない。
「アデルさん!」
走って戻った客間にいたアデルさんに駆け寄る。事情を説明すると甘いマスクはなりを潜め、険しい顔で『人を集めてきます』と足早にその場を後にした。
(……俺も、探しに行かないと……!)
アデルさんにはこの部屋で待っているようにと言われたが、じっと待ってる方が心臓に悪い。廊下に誰もいないことを確かめて、外へと続く道を駆ける。この広い城内を探すのは、部屋の位置関係に詳しくない俺では非効率的だ。探すなら外、出られるなら城外。おそらく正門は見張りがいる。出るなら中庭経由で裏門からが、俺の知っている唯一のルートだった。とりあえず、たどり着いた中庭に出る内扉を開いた。春先にしては少し冷たい夜風を浴びながら、2つ並んだ月を見上げる。
「……あれ?」
月影をくり抜いて、人影が見えた。
そんなはずは、と思って目をこするけど見えるものは変わらない。星空の宙空に、人が立っている。一瞬驚いたけど、魔女だって宙に浮くんだから他にもそういう人がいたっておかしくはない。おかしくはないんだけど、それがどんどん近寄って来たらそれはおかしくないですか!? うわあああどうしよう! と剣のグリップを握ろうとした手が空を切る。そうだった、休憩中は重いからって置いてきたんだった!
「……ノゾムくん?」
あわあわと他に武器になりそうなものがないか探しているところに降ってきたその声は。
「ピーちゃんさん!?」
「どうしたの? こんなところで」
空から地面へ白い布でできた階段を降りるその女性は、探していたその人だった。
淡い月明かりが白に光を注ぎ、キラキラと辺りを輝かせる。早く報告しなくては、と思う一方で、ほかに人はいないのだから言うなら今だと思う自分もいる。ふわりふわりと白布の段差を降りる彼女の顔にやっぱり傷はなくて、たまらなくなって声を張り上げた。
「ピーちゃんさんっ……! さっきは、すみませんでした……!」
「……え?」
「頬に、傷をつけてしまって……!」
きょとんとした声に、果たして俺の想いは伝わっているだろうかと不安になる。
「俺、もっと頑張りますから! がんばって、ちゃんと! 守れるように、」
「ちがうでしょ、ノゾムくん」
「……え?」
すぐそばまで降りてきた彼女は数段上から、俺の頭をポンポンと軽く叩く。
「君だけががんばるんじゃなくて、”いっしょに“、でしょ?」
たった2人だけの、聖女と勇者なんだから。
そう言って、そのまま頭を撫でられる。彼女の体温が伝わって、染み渡って、心に巣食った闇をキラキラと白に染めていく。
(……ああ、やっぱり。すごいなあ)
目尻を雫が伝って、頬を濡らして、重い鎧の上に涙の跡を残す。
さっきまで泣きたくても泣けなかったのに、たった一言で俺の心は溶かされてしまう。一度決壊した涙腺からは次々と溢れ出して、彼女が大慌てで慰めてくれたのは、少し恥ずかしいから割愛で。もう泣かなくてもいいくらい、強くならなくちゃ。心の奥に深く刻み込む。いつか、俺の方が彼女を慰めてあげられるように。