第1話 ちがいます! 昨日は残業だったんです!
今日は花金。
一般的な社会人なら飲みやら遊びやらに繰り出していることだろう。しかしこの真夜中に煌々と明かりを漏らす単身者用マンションでは、ガタガタと猛烈な勢いで針を刺す機械の音が絶え間なく続いている。
室内は糸や布切れで荒れ放題、傍らの机には雑然と飲み干されたエナジードリンクとプロテインバー。床に散乱する裁ちバサミやまち針、およそ人の住む領域とは思えない散らかりようだ。
その中心であり、唯一の足の踏み場に座り込むのが──そう、何も隠すことはない。この部屋の住人たる私である。
「はあ、とりあえず裾の三段レースは終わり。あとは……あとは何が残ってるの……?」
積み上がった布の隙間からおもむろに取り出したるは今回の参考文献──『はぴねす怪盗♡まーめいどちゃん』12巻23ページを開く。後ろ姿が詳しく描かれているのがここしかないのだ。
「あー後ろは編み上げか……時間ないから両面で貼ろ……あ゛っ! やば、イヤリング忘れてる……!」
頭を抱えたいのはやまやまだが、生憎そんな余裕は微塵もない。現在時刻は日付を跨いだところ。更衣室の時間が9時から、移動を考えると残りは8時間もない計算だ。
「あー……なんで? なんで私はこんな装飾の多い衣装を……いや、まあ楽しいと思ってはいるんだけど!! レースとフリルなら永遠につけていたいんだけどね!!」
自己問答を繰り返し始めるのはそろそろ気が狂いかけている頃合いだ。自分が発狂しないように、でも素面にも戻らないように。作業に没頭する。まあ、気でも狂ってないと(もちろん悪い意味ではなく、当然の摂理の話だ)社畜やりながらこんな手間と時間のかかる趣味──アラサーにもなってコスプレイヤーなどやってはいないのだ。
『はぴねす怪盗♡まーめいどちゃん』はかれこれ20年ほど前に連載していた漫画である。
原作は少女漫画、夕方の30分枠でアニメにもなった作品で、マニアックなファンも多い。かくいう私もその一人だ。当時はそこそこの人気を集めていたが、昔の作品ということもあってコスプレするレイヤーも多くはない。
私もしばらく忘れていたのだが、片付けの時にようやく見つけた漫画を読んでしまって熱が再燃した。いつも一緒にいるレイヤー仲間をなんとか説得し、明日の野外イベントで併せする予定になっているのだ。だというのに、だ。
「あのクソ上司のせいで衣装間に合わないんだが!?」
社会人うん年目。そこそこ仕事も軌道に乗ってくると当然、リスケの後始末も上司の尻拭いも発生する。帰宅が23時を超えることもしばしばある中で衣装作製しているとこんな有様になる。
良い子の(気が狂ってない)みんなは真似したらいけないぞ☆の領域である。
「あーもう無理……いや無理じゃない!! でもちょっとだけ、ちょっとだけ休憩を……」
この部屋には私しかいないのに盛大に言い訳をしてスマホを手にする。いつも巡回しているSNSのアイコンをタップすると、通知が何件か。
『ピカるんさん、はぴ怪されるんですね!? 会いたいです!!』
『まーめいどちゃん懐かしすぎです! ピカるんさんのまーめいどちゃん絶対可愛いの権化じゃないですか!!』
などなど。
イベントの参加表明に対するいいね! や応援のコメが送られてきていた。
ちなみにピカるんは私のユーザー名で、本名が輝美だからである。本当にマジで、ネーミングセンスは壊滅的だと自他共に納得の案件だが、これはこれで5年も使っていると馴染んでくるもので愛着もある。
適度にハートを送り返しつつ、見覚えのあるアイコンを見つけて指が止まった。
「へへへ、黒焦げ乳酸菌さん、またいいねしてくれてる!」
ありがたや〜〜と拝むように頭を下げてからお礼のいいねをつける。
この剣道のお面のアイコン、ユーザー名黒焦げ乳酸菌さんは私がコスプレを始めた初期の頃からずっと繋がっている人だった。実際に会ったことはないが、SNS上での交流でいうならまさに古株だ。
投稿される内容はコス関連でもカメラ関係ではなく適度にゲームやアニメのことだったりと、多分こっちの界隈の人間ではないらしい。コスイベに来ている様子もないのに私が写真をあげると真っ先にいいねしてくれるという、レイヤー側からしたらモチベ爆上がりの人だ。今回のはぴねす怪盗の投稿にもコメントをつけてくれていた。
『お久しぶりです! はぴ怪めちゃくちゃ大好きなのでびっくりしました! ピーちゃんさんのはぴ怪眼福過ぎじゃないですか……!?!? お写真拝むのめちゃくちゃ楽しみにしてますね!!』
「へへへ、まだピーちゃんって呼んでくれるんだよね〜〜」
初期の頃はまだSNS慣れしてなくて色々とユーザー名を変更してた時期があり、そのうちの一つがピーちゃん。黒焦げ乳酸菌さんにフォローしてもらったときに呼び方の話になったときのことだ。
『今はお名前変えてしまいましたけど、ピーちゃんが一番可愛くて、素敵なあなたにぴったりだと思うのでそう呼ばせてもらいますね!』
これである。
見ててくれてるんだなっていうのがわかる文面に初っ端からの褒め言葉。これが乙女ゲームなら好感度メーター爆上がりである。恋愛事情に興味関心のない私じゃなかったらもうこれ恋に落ちてるヤツだぞ。とまあ、そんなやりとりがあったりして、かれこれ5年の付き合いになる。
「うーん、この返信だけ打ってから作業に戻るか……」
時間もないのだから、さくっと終わらせよう。この間のボーナスのときに奮発して買ったふかふかのソファに背中を埋める。傍らにいる大きなサメのぬいぐるみのフカ太に頭を預け、タプタプと画面に触れる。
「えーっと、『いつもありがとうございます! 今まさに作ってるところで』……ふあぁ、」
押し殺せない急な眠気が欠伸になって露出する。いかんいかん、このままでは意識をもがれてしまう。
「あー、えっと……『あと5時間もあればかんsいもyうめじゃな』……ダメだな、もう文字打つのも、限、界……」
うーん、ふっくらとしたフカ太の弾力が心地良い。目の前に暗幕が降りて、チカチカと色の弾幕が広がる。それが瞼の裏の景色だと気付くことはなく、意識は暗闇に沈んでいった。