第1章 『新たな生活の始まり』 ⑧
「じゃあ、そのベッドに寝てくれるかい?」
部屋の中に橋本先生の声が響く。壁にスピーカーでも設置してあるのだろうか。部屋の壁は黒色で、紫色の光が壁を横に伝っており、それが照明の役割を果たしている。
ベッド、と言われても、俺の知っているベッドはどこにもなかった。何かの機械が並んでおり、それらはとても近代的な見た目だった。
そもそもここはなんの部屋なのだろう。手術室、が適切な表現かもしれないが、それにしては部屋が暗すぎる。
大概病院の手術室は明るい色の壁、大量のライト、そして外科医が着る明るい色の手術服(青や緑のイメージがある)などの要素で構成される。それは知識として俺の中に入っている。
しかしこの部屋はそれとは対照的だ。部屋の中で感じることのできる色は、壁の黒色、その壁を伝っている紫色、さらに部屋中央部に並ぶガラス張りの機械(水色っぽい)、この3色だ。
俺は少々不信感を抱きながらその機械の方へと近づく。そしてその機械を覗き込んで、ようやく理解できた。
(これもしかしてベッドなのか……?なんか水槽みたいだな……)
レントゲン撮影台をガラスで囲ったみたいな装置がそこにあった。その脇に様々な機械が並んでいる。何に使うのかは不透明だ。
俺が部屋を見回していると、他に誰かが入ってきた。
「スリッパを脱いでベッドに横になってください。そのあと、検査中はこちらのヘルメットをかぶってもらいます」
手術服を着た(俺と同じピンク色だ。内心で笑われてないかめちゃくちゃ不安だ)看護師らしき人が説明してくれた。ベッドは一部だけガラスで囲われていなかったので、俺は指示どおりスリッパをそばに置き、そこからベットの上に寝そべった。
「じゃあ、これから検査を始めるけど、MRIとかはやったことあるよね?」
「はい、昔2、3回くらいは……」
「じゃあ大丈夫だね。ちょっとブザーみたいな音が鳴るけど、あれよりは音小さいから。ああ、あと、手のマークがついてる金属の部分に手を置いて。足も同じように金属の部分に乗っけて」
さらなる指示が橋本先生から飛ぶ。俺はそこに手を置いた。すると、
「!?」
手足が拘束されたのだ。俺は驚き、看護師の方を見る。だがもう彼女の姿はここにはない。
「何びびってんの。検査中ずっとあんたのデータを取るんだから、動かれたら困るのよ。大人しくしてなさい。あんたの行動、全部こっちから丸見えよ」
詩織の声が聞こえる。スピーカー付き監視カメラか?
でも詩織だってこれを経験したのだろう。あいつも最初絶対驚いただろうに。「ちょっと!何してんのよ……!今すぐ解きなさいこれ!」なんて叫んでいるのが容易に想像できる。
そして橋本先生との会話の最中に、さっき俺がベッドに入った部分にもガラスの囲いが出来ていた。全く気づかなかった。
「じゃあ始めるよ、椋君」
橋本先生の合図とともに検査がスタートした。
MRIの音のうるささは凄まじい。耳栓をしていてもアレなのに、ただベッドに寝そべっているだけで大丈夫なのか?
などと思っていたが、実際に始まってみると、都営地下鉄大江戸線くらいのうるささだった。正直あの路線もかなりうるさいが、まだ耐えられる範疇にある。
ベッドの下のモーターみたいなのが動いているのがなんとなく分かる。体をスキャンしているのだろうか。
俺は自然と目を閉じていた。
…………………。
ずっと黙っていた。段々と体が落ちていく感覚がする。ブォーンと機械の音が響く。
俺はその間、何もすることができない。ただ検査が終わるのをベッドに寝て待つのみ。非常に退屈だ。何分経ったのかも分からない。
そういえばこの部屋時計がなかった気がする。一度確認するために目を開けようかとも思ったが、それよりも変化を求めたくない、という自分の欲望が勝ってしまった。
一体いつまで続くのか。
* * * * * * *
「検査、開始します」
新垣の声が小さなオペレーター室に響く。
「まずは基本データの解析。呼吸の二酸化炭素濃度と対脈を測って体に異常がないか確認。脳波も乱れてないかをチェック」
ついに検査がスタートした。私がシステム管理室に入るのは初めてだ。いつもモニターの向こうの手術室に入れられてばっかりだったので、ここがどういう感じなのかとても気になっていた。
部屋の内部は薄暗く、目の前の大型ビジョンに椋の顔が映っている。ずっと目を閉じていて、その様子は何か私の中で不思議な光景として脳裏に焼きついた。女の子みたいな男の子。本当にいるんだな……。まさかこいつ寝てないわよね。
今椋がいる手術室という名の実験室はとても不気味だ。大体手術をする部屋で何で検査を行うのだろうか。下の階にある大崎総合病院の施設を使えばいいのに。
「……脈拍、呼吸、脳波、特に今のところ異常はなさそうですね。レントゲン写真も撮っちゃっていいですか?」
「構わない」
橋本は短くそう頷いた。あの部屋は今頃複数の音が鳴っていてうるさいだろう。手術室は防音なので、こちらの部屋に聞こえることがないのだ。
その他色々と検査を行なっていた。円滑に進んでいるように見える。
検査が終わるまで、私は何もすることがない。ただ椋の姿をモニターを通してボケーっと眺めているだけだ。しかし、私からこの部屋に入りたい、と言ったにも関わらず、何もすることがない、つまらない、と感じるのは自分としてもバツが悪くなった。
「今のところ順調です。じゃあ、本題、行きましょうか」
若いハーフの男性、ルークが何やら意味深な言い回しで橋本に確認を取った。
「そうだな……。じゃあ、一旦放送入れるよ」
橋本はそう言い、脇にあるタッチパネル上のマイクのボタンを押した。
「……椋君、今のところ体に異常はないかい?」
大丈夫です、と椋の声がマイク越しに聞こえてきた。続けて橋本がマイクに向かって喋る。だが私はその内容を聞いて、驚かずにはいられなかった。
「……じゃあ、これからマイクロチップを埋める手術をするから。全身麻酔になっちゃうけど、体に負荷の少ない、軽いやつにするから心配しないでね」
「え……マイクロチップ埋めてないんですか!?」
この制度は本来幼児期に行うものであり、5歳になるまでに埋めなければ法律違反で罰則が与えられるはずだ。
なぜ椋は埋めてないのか。親が連れて行かなかったとか?でもそれだと政府にバレるはず……。
などと色々考えているとき、システム管理室にとある通知が入った。
「あ、橋本先生。杏子ちゃんが到着したみたいですよ。彼女にここにきてもらいますか?」
「手術を始める前に来て欲しいな。なるべく急いで来てくれ、と伝えておいて」
私はちっ、と心の中で舌打ちする。予定よりも早く帰ってきてるじゃない。
やっぱり招集されたか、と私は心の中で呟いた。新しい "ザーゲ"が見つかった時は集まらなきゃいけない規則でもあるのか。
橋本は椋にしばらくそのまま寝て待っててと言っていた。
そして数分後、彼女が現れた。
ロックが解除される音が聞こえ、私はそちらの方を見る。
セミロングの大人びた容姿は、いつ見てもとても私と同世代の高校生とは思えない。
私は彼女と目があった。彼女は私のことをどう思っているのか。表情から感情が読み取れないタイプの人間だ。
「あ、詩織ちゃんもいたのね」
いつも呼び捨てのくせにこう言う時はきちんと"ちゃん付け"をしてくる。
「あれが5人目の"ザーゲ"だ。服装がピンクだけど、一応男の子だよ。それと……」
「話は簡単には聞いてます。これからマイクロチップの手術するんでしょ?」
彼女は私の方を向き問いかける。
私は短くそう、と頷いた。
彼女は1人目の"ザーゲ"。赤羽杏子。