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無残絵の女

作者: 悠月

 女の肌は青い血管が透けて見えるほど白かった。その肌の上をどっぷりと赤が舐めていく。着物の色より鮮やかに女を彩った赤は、湿りを帯びた地面が吸い取っていく。

 色を失っていく頬。解けた髪がざんと揺れ、細くと頼りない腕が空をかく。瞳から光がついえる刹那。半開きになった唇からは最後の怨嗟さえ聞こえてきそうだった。


 弥一の描く無惨絵は、まさに目の前で行われているものを写し取ったように悲惨で、そのくせ目を離しがたいまでの美しさがあった。だからこそ高値で取引されているのだが、千次にはこれを集めている人の気が知れなかった。

 目の前にこれほど多くの絵があるためだろうか。特別臆病というわけではないのだけれど、唯の絵だと分かっているのに怖かった。絵自体というよりも薄暗い部屋で、取り憑かれたかのように一心不乱に筆を振るっている弥一が怖いのかもしれなかった。


 千次が久方ぶりに弥一を見つけたのは、数日前のことだった。子どもの時分には同じ長屋で育ち仲もよかったのだが、弥一が越してからはとんと疎遠であった。風の噂でこの界隈に戻ってきて絵師になったと聞き、作品も何度も目にしてはいたが弥一本人と会うことは無かった。

 また今度会いに行こう。

 それが伸びに伸びて、先日ぽっと街中で出あったのだ。

 美人で評判の茶屋の娘を見に出かけた時のことだった。生憎と娘は数日前から休みということで出会えなかったが、弥一とのひょんな出会いを得るきっかけとなった。

 その時は互いに都合が合わず、ゆっくり会おうと約束を取り付けて、後日向かった弥一の長屋までは存外近くて驚いた。

 もっと驚いたのは弥一の変わりようだ。

 数日でこうも人相は変わるものか。

 昔からひょろりと背が高いが痩せぎすで、竹ぼうきみたいな印象の男だったが、今やさらに細くなっている。街中で会った弥一には、子供の時分の面影は確かにあった。笑えば頬に皺が入り、「千次」と呼ぶ声は温かな親しみが含まれていた。今の弥一に声をかけられたところで、千次には昔なじみと気づく自信は無かった。

 面やつれした弥一の目の下には墨でつけたかのような黒々とした隈があるくせに、瞳にはぎらんと光が灯っている。何時から髪結いをやっていないのか、ばらけた髪が背中で揺れる。異様な風体であるにも関わらず、指先だけは狂いも無く線を描き、絵の女に命の残滓を埋め込んでいく。


 弥一と言う男、昔は美人画を得意としていた。彼の描く女はふっくらと頬に笑みを浮かべた愛らしい女たちだ。絵心の無い千次もその絵は好きだった。

 何時からだっただろう。この男が無惨絵を描くようになったのは。


 絵の女の唇に精気のない色を置くと、ようやくひと心地ついたのか弥一は筆を置き、千次を見上げた。

 弥一の瞳からは先までほとばしっていた光は失せ、どきりとする。生気を失った顔はまるで幽霊のようだ。細いだけではなく、輪郭さえ透けていきそうだ。もしや、魂を削って絵の女に捧げているのではないかと疑ってしまうほど、弥一は憔悴しきっている。


「よぉ来てくれた」


 弥一は声までも枯れ果てている。干上がった井戸の奥底で何者かが呻いているかのようだと千次は思った。

 本当に目の前にいるのは昔なじみの弥一なのだろうか。


「お前さん、大丈夫なのかい? 随分痩せちまってるじゃないか」


 土産にと持ってきた団子も、その細い喉には通らないのではないか。そんな危惧を抱きながら、千次は部屋をぐるりと見渡した。

 物がほとんどない部屋だ。絵の道具ばかりが目についた。

 この部屋の中には生活している匂いと言うものが無かった。食べ物の匂いも火をおこした匂いも。ただ何重にも塗りこめたように強烈な墨の匂いがする。


「何言ってるんだい。大丈夫だよ。これでも売れっ子になったんだ」


 痩せてるなんて言葉では生ぬるい。骨格に皮がへばりついただけのような顔で弥一は笑った。笑うとほんの少しだけ昔の面影が過ぎ去ったような気がしたけれど、ほんの一瞬だった。

 売れっ子というのは本当なのだろう。机の上には無造作に金子がばら撒かれていた。


「これは、またすごい量をかいたもんだね」


 床の上に広がっているものはざっと十は超える。弥一の向こうに積み重なった紙を見るとさらに多いだろう。どれもが無惨絵だった。

 背中から切られるもの。吊るされ腹を裂かれるもの。血みどろになり、のたうち回るもの。

 千次には、そこここで悲鳴が上がっているような気がした。

 千次がごくりと唾を飲み込むのと同時に戸を叩く音がした。

 返事を待たずにはいってきたのは、ふっくらした唇の可愛らしい娘だった。

 なんだ世話を焼いてくれるお人がいるのではないかと安堵のため息をつく千次の横で、弥一はぐわりと眼を見開いた。先ほどの憑りつかれたように筆を振るっていた時の表情だ。


「なぁ、弥一」


 弱々しい呼びかけに答えは返ってこない。

 紙に描かれた可愛らしい唇から悲鳴がほとばしる。白い頬に己の血しぶきが飛ぶ。女は僅かに振り返り、己を害するものを驚愕の目で見つめている。


「おっお前さんは一体何を描いているんだい」


 ―もしや、もしやこれは……。


 紙に描かれたのは紛れもなく目の前にいる娘だ。黒子の位置も違わない。赤に染まっていく着物も同じ色だ。

 じりと下がる千次の横で娘はうっすらと笑った。


 —ああ、この顔は茶屋の娘じゃないか。


 弥一が最後の色を置き終わると、娘は頭を下げ、まるで線香の煙のようにゆらぐと娘の姿はふっと立ち消えた。


「なぁ、千次どの。ワシは長くないのだろうなぁ。少し前からこんなものが見えるようになったんだ」


 腰を抜かした千次のほうなど見ることなく、弥一は虚空を見つめていた。消えてしまった娘の軌跡を追うように。


「描いてやらねばならんとな。なぜか思ってしまったのよ。最期を描きとめてやらねばならんとな」


「こっここにあるのは……」


 千次の歯はかち合ってうまく声が出ない。ここにあるもの全てが実際に起こったことなのか。こんなに酷い仕打ちが繰り返されているのか。

 言葉にならぬ思いは弥一には届いたようで、弥一は折れそうなほど細い首を首ふり人形のようにかくんと振った。


「世の中には多いことだ」


 こんな頃合になるとやってくるのだ。

 弥一は赤く垂れ込めた雲に支配された空を指差した。どろんと濁った空の色が弥一の瞳に映りこみ、ざわりと心の中が波立った。


「だっだけどお前さん。こんなことをしていたらお前さんが危ないんじゃないのかい?」


 娘たちを殺した下手人がこの絵を見たとしたら?

 娘が叫んでいるのは下手人の名かもしれない。耳を澄ませば聞こえてきそうだ。そう思うほどに弥一の絵は鬼気迫る。

 そんなものを見つければ、下手人はきっと思うに違いない。

 絵師はこの場面を見たのだと。


「ワシが死んだら、千次どのが最期をかいてくれないかい?」


「ばっ馬鹿をお言いでないよ! 縁起でもない」


「冗談だよ」


 弥一は薄闇に飲まれそうなほど淡い笑みを浮かべた。



 その後、弥一の行方は知れなかった。

 長屋を訪ねても姿は無く、部屋中に染み込んでいた墨のにおいすら残っていない。


「どこに行っちまったのかね」


 みすぼらしい自分の部屋に戻ると千次はぼうと佇んだ。薄汚れた障子の向こうでゆるりと日が翳っていく。燃えるような赤が傾いでいくと、そこにふっと影が差した。ひどく薄いその影は残ばら頭を風になびかせて立っていた。

 戸を叩く音がした。

 頭の奥深いところから吐き気を催すほどの墨の匂いがよみがえってくる気がした。


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― 新着の感想 ―
[一言] 読みました。面白かったです。 夏ホラー参加作品いくつか読ませて頂いていますが、ここまできちんと和ホラーされているのは(自分含め)なかなかなくて、冒頭から、おっ、となりました。こういう時代も…
[良い点]  企画サイトからお邪魔しました。  書き慣れた時代劇調のセリフ回しが良いと思いました。雰囲気出ていますし。 [気になる点]  行頭のスペースがあると読みやすいかもなぁ、と気になりました。…
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